第8話


「——なんだ? 寂しくて俺に会いにきたのか」


 幼馴染は墨だらけの顔を愉快そうに歪めて笑った。

 しかし、その目の下に刻まれた疲労の色までも隠せてはいない。流石に無視できないくまの濃さに紫苑が「何徹?」と聞くと小さく「……二」と返ってきた。心なしか落ち込んでいる。

 黒瑞寮の房室がもぬけの殻だったので缶詰状態なのたろうと推測して来たのだが、どうやらあたりのようだ。


「あなたが真面目に仕事をするなんてね」

「俺はいつでも大真面目さ」


 嘘つけ、と内心で言い返す。仕事内容が簡単なものなら部下に押し付けたり、愛情だといいつつその部下の手にギリギリ負えないような課題を押し付けるくせになにが大真面目だ。


「今、時間ある? 聞きたいことがあるんだけど」

「時間があるように見えるか?」


 嫌味ったらしい言い方に紫苑は片眉を持ち上げる。


「あなたは私の邪魔をする癖に、自分は邪魔されるのが嫌がるのやめた方がいいよ」

「……?」

「心当たりはありませんっていう顔やめて」


 本当に癇に障る。なぜこいつと長年付き合ってこれたのか疑問が芽生える。


「聞きたいことってなんだ? 俺はお前と違って忙しいんだ。手短に頼む」

「長話になるし歩きながらでもいい?」


 今度は英峰が片眉を持ち上げる。

 ここが吏部が入っている殿舎でなければ手早く用件を済ませているところだが流石の紫苑も「慶王様と皇太后様って仲悪いの?」と切り出す勇気はない。どうにかして英峰を外に連れ出さねば。


「長話か……」

「無理?」

「いや、眠気覚ましにはちょうどいいな」


 後頭部を乱雑にがしがし掻くと英峰は背後を振り返る。


「俺は少し休む。後はこれの合計を計算してまとめれば終わるからやっておいてくれ。残りの計算は明日すればいいからこれを終わらせたら帰って寝ろ」


 英峰に付き合って徹夜で作業していた面々から喜びの声が漏れてきた。


「地獄ももう終わりだ!」

「やっと眠れるんだ……」

「帰れるぞ!」


 各々、両手を上げたりお互いの肩を組んだりして喜びを表現している。そんな部下達を一瞥した英峰は舌を打つと共に「明日の仕事は倍だな」と鬼のような宣言をした。

 途端、静まり返る室内。少しして聞こえたのは小さな嗚咽おえつ。せっかく悪夢のような徹夜作業が終わったのに次に待っているのは地獄作業と知った面々の顔は絶望に染まっていた。


「楽しみだな。せめて今夜はいい夢が見られるよう祈っておくよ」


 鼻で笑う英峰の脳天に紫苑は迷うことなき一撃を喰らわせた。


「あなたはもっと部下を労うことを覚えなよ」


 呻き声と共に床に沈む英峰を担ぎ上げた紫苑は吏部の面々にひらひらと手を振る。


「この人、貰っていきますね。仕事倍増はどうにかして食い止めるので今夜はゆっくり寝てください」


 笑顔で告げて踵を返す。人気のない回廊かいろうを少し歩いていると紫苑の言葉を理解した男達の野太い歓声が聞こえて、紫苑は小さく笑みをこぼした。


「お前は甘いな」

「あなたが厳しすぎるんでしょ」

「俺は厳しくないさ。上官として普通のことをしたまでだ」


 痛みもだいぶ落ち着いたのか担がれた状態のまま英峰は饒舌に話し始める。

 その様子に大丈夫だと思った紫苑は英峰を肩から下ろした。


「もう少し運んでくれればいいものを」

「自分で歩ける癖に甘えない」

「お前は俺に厳しすぎるぞ。他のやつには甘い癖に」

「全然、あなたにも甘いと思うよ。厳しければ幼馴染をやめてるし」

「もっとだ! もっと俺に甘くしろ!」


 二十一歳の癖に幼児のような要求をするので思わず悪寒おかんがした。ぷつぷつと粟立あわだつ腕を摩りつつ、気をまぎらわせるように先を行く英峰の背に向けて紫苑はいつもの調子で話しかけた。


「仕事、忙しかった?」

「大忙しだ」


 苛立ちが滲む声に英峰が本心から怒っていることを察した紫苑は不思議そうに首を傾げる。吏部は六部一、多忙な部署と言われているが手際がいい英峰の手にかかれば山のような仕事はすぐに片付き閑暇かんかへと変わる。それなのになぜ忙しいのだろうか?

 紫苑の疑問を悟った英峰は大きく大袈裟にため息をはく。


科挙かきょ試験のための準備だよ。春の終わりから冬の初めにあるんだけど、参加者を年齢や出身地に分けて統計をだして慶王に提出しなければいけないんだ」

「それは吏部の仕事?」

「そうだ。科挙に関わることは全部俺達の仕事さ。……本当はさ、統計なんて冬の間に終わらせておくべきなんだけど、うちの無能な豚達磨が部下に指示出すの忘れてたみたいでさ、今、てんてこまい。超修羅場。全国から数千数万という受験生が集まるのに明後日には提出しないと駄目でさ」

「お疲れ様だね」

「本当さ! あいつら俺が寮に入ったのをいいことに〝この量を自分達だけでは終わらせません!!〟って泣きついてきてさ、優しい俺は帰りたいのを我慢して徹夜する羽目になったんだ」


 英峰は顔を覆う。「あの豚達磨、いつか絶対に殺す」と不穏な言葉を呟いたのを紫苑は聞き逃さない。


「えっと、その豚達磨さんはさっきいなかったけど別室で仕事してたの?」


 豚達磨というからにはふくよかな体型であると考えられる。先程、室内にいた者達は皆痩せているか普通体型だった。性格が歪んでいる英峰でも痩せ型や普通体型の人間相手に豚達磨なんて単語は使わないだろうから物陰に隠れていたかその場にいなかったと紫苑は予測した。


「……た」

「え?」

「帰ったんだよ! あの豚達磨!!」

「声大きい。少し抑えて」

「あいつが無能でことあるごとに茶々入れて仕事を掻き回すのに悪びれもしないでさ〝鬼吏部侍郎と吏部侍郎がいるから私入らないだろうから帰らせてもらう。家に愛すべき妻が待っているんだ〟って!! 扇パタつかせて腹立たしい!」


 吏部所属の豚達磨、扇パタパタ、鼻につく話し方——その特徴に一致する人物が一人だけいた。


「朱吏部尚書様のこと?」

「ああ、そうだ。紫翠も覚えておけよ! 吏部で一番無能な奴は豚達磨だと!」

「大変だったね」

「……くそっ、今思い出しても腹立たしい。自分が担当するって言った仕事ぐらい自分で終わらせろよ。お前の愛すべきブスが待っているからって俺達には微塵も関係ないんだよ!」

「愚痴なら聞くよ。だからもう少し声を抑えて」

「聞いてくれよ。この前だって——」

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