第6話


 硝子がらす越しに差し込む朝日が太陽の到来を告げる。

 いつもなら雄鶏の鳴き声がけたたましく屋敷に響くのに今日はいつになっても聞こえない。その事に違和感を抱きながら紫苑は瞼を持ち上げた。すると滑らかな白い絹の褥ではなく、硬い木の板が視界に入り紫苑は目を擦った。

 臥室じしつの内装を思い浮かべつつ内心、首を捻る。ここに卓は置いていないはずなのになぜ、自分が卓に覆い被さる形で眠っていたのだろうか……。二度、三度と目を擦ると思考が冴えてきて、ここが慶王より与えられた城の一室であることを思い出す。


(あ、そっか。あいつが寝ていたからだ)


 昨夜遅くに訪ねてきた英峰が紫苑の臥台を我が物顔で占拠し、そのまま寝てしまったため自分が卓なんぞで寝る羽目になったのを思い出した。

 あの我が儘男相手に怒るのも面倒だな、と思いつつ紫苑は強ばった体をほぐすために背筋を伸ばす。その拍子に何かが肩から滑り落ちた。小さな落下音を立てて床に広がるのは薄緑色の上掛けだ。

 所々、墨で汚れたそれを拾い上げると紫苑は周囲を見回した。


(これを掛けてから帰ったのか)


 普段は自分の欲を第一として、腹が減ったからと山に置き去りにしたりするくせにこういう時は謎の優しさを発揮する男である。昨夜、この房室を訪れたのも紫苑を心配していた——ところまで考えてから紫苑はかぶりを降って否定する。あの男が異性とはいえ幼馴染に対して情を向けることなどありはしない。それは長い付き合いからとうの昔に理解している。情を向けたようで、絶対に裏でなにか画策している。


(後で弁償しろとか言うに決まってる)


 墨で染まった上掛けを広げて嘆息する。墨で汚れたのは紫苑のせいではないがあのろくでなしには関係ない。きっと、後で同額を請求されるはずだ。

 英峰への怒りをぶつけるように乱雑に上掛けを丸めると臥台の隅に放り投げ、紫苑は椅子から立ち上がる。

 その時、控えめに扉が叩かれた。


「雨蓉? もう起きてるし、入ってきていいよ」


 返事はない。こんな早朝に訪れるのは侍女しかいないと思ったがそうではないらしい。寝衣しんいのまま出迎えるわけにもいかず、紫苑が戸惑っているとまた扉が叩かれた。先程よりも力がこもっている。怒らせたのだろうか。


「……少々、お待ち下さい。すぐ準備をしますので」


 口頭の代わりなのかコン、と小さく叩かれた。

 紫苑は急いで夜着を脱ぎ、支給された藤色の官服に腕を通す。喉元を隠す目的で襟詰めになっているこれはどこにも所属していない紫苑のために、英峰が知り合いの裁縫士に頼み込み、作って貰ったものだ。


(官服を貰えるのはありがたいけど、色がな……)


 慶国において色とは地位を示す。特に紫色は王族及び、それに近い者しか身につけることを許されていない高貴な色。それを紫苑が身につけているのはひとえに「目の色と合うから」という単純な理由からだった。

 一介の護衛が紫色を着用することは許されないため、これを押し付けられた当初、紫苑は断った。

 だが、英峰は「汚れた時の替えだ」と言って似たような衣装を無理やり五着押し付けてきた。

 それでも紫色の官服に腕を通す勇気はなく、当初、兄から借りた無難な衣装を使用していた。地味な色の飾り気のない衣装を見た天凱が「官服は貰っているはずだ」と眉を吊り上げた。どうやら、英峰が先回りして天凱に許可を貰ったらしい。

 それならば、と渋々着用してはいるが、周囲からは無所属の経歴無しなのにと反感を買っていることは否めない。

 今日も嫉妬まみれた視線を受けるのか、と憂鬱になりながら襟を整え、帯を締める。簡易に素早く髪を束ねて、幞頭ぼくとうを被り、身長を誤魔化すための上げ底くつを履いてから自分の全身を見下ろした。人前にでてもおかしな点はないか確認し、大丈夫だと思い、扉に手をかける。


「はい。お待たせしま……」


 先の言葉は続かない。紫苑は扉を開けた体勢で固まった。


「遅い」


 慶王である天凱が晴れやかな青空を背景に、その正反対のどす黒い笑顔で立っていた。


「……慶王様」


 なんでここにいるんだ、という疑問が口から飛び出そうになるのを我慢しつつ、紫苑は表情を引き締めた。


「おはようございます。このような場所にご足労いただき、誠に有難うございます」


 優雅に膝を付き、拝礼を捧げる。


「本当にな。わざわざ出迎えてやったというのにもてなしもできないのか?」

「申し訳ございません。ところで、なぜ私のへやに?」

「気まぐれだ。どけ」


 要領を得ない回答に紫苑が困っていると天凱は横柄な態度で房室に入っていくと臥台へと向かっていく。


「汚らしい」


 不機嫌そうな声色に汚物扱いされた紫苑が内心で眉を顰めながら、天凱の視線を辿ると緑色の上衣があった。皺くちゃに丸め込まれ、墨だらけのそれは確かに汚いものに見える。

 天凱は上衣を掴むと持ち上げた。


「鬼吏部侍郎か?」

「はい。昨夜、訪ねてきたんです」

「……なにを話した?」


 探るような目を向けられる。


「私のことが心配になったようです。今まで、ずっと屋敷にこもりっぱなしだったので、きちんと護衛できているか? 失敗して金がもらえなくなるのは困る! と喚いていましたよ」


 紫苑はわざと肩を持ち上げてみせた。


「あれらしいな。所詮は金の心配か」


 欠伸を噛み締めた天凱は上衣を近くにあった椅子の背もたれに掛け、臥台へと腰掛ける。慣れた手付きで上衣と装飾品を外し、床へと落とした。

 なぜ急に脱ぎ始めるのか分からず、紫苑が困惑しつつ見守った。内衣姿となった天凱は臥台へ横たわり、英峰によって皺くちゃにされたふすまを引き上げ、体を包む。


「予は寝る」


 告げられた言葉に紫苑は全てを諦めることにした。仕事を、慶王としての責務を、と言ったところでどうせまた羹をかけてくるに違いない。

 護衛についてまだ二日目だがこの得手勝手なところは英峰を思い出させる。


(親友ってあながち間違えではなさそうだな……)


 昨夜はくだらない妄言だと聞き流したが天凱と英峰はどこか似ている。きっと悪い意味でいい友人となっているに違いない。

 この先一年が平穏に過ぎることを祈り、床に散らばる衣装や装飾品を拾い集めた。

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