第5話


「ああ、紫苑様。おいたわしいですわ」


 崔家から連れてきた侍女は目尻に溜まった涙を拭った。しかし、拭っても涙は止まらないらしい。手に持つ汚れた官服で目を押さえ侍女は先程より嗚咽おえつを酷くさせた。


「もう、雨蓉うようったら。いい加減、泣き止んでよ」


 あまりにも泣くものだから紫苑は筆を動かす手を止めて背後を振り返る。汚いでしょ、と付け加えると雨蓉は官服を握りつぶした。昼間、天凱によって羹に汚れた官服は、捨てるのもためらうほどに上等な絹で作られていた。洗濯し、染みが残っていなければまた着ればいいし、もし残っていれば自宅に帰った時の普段着にするつもりだ。


「あと名前。紫苑じゃなくて紫翠って呼んでね」

「しかし、あの三男坊のせいでなんで紫、……翠様がこんな目に合わないとならないのでしょうか」

「英峰のは諦めるしかないでしょ」


 紫苑が遠い目をすると雨蓉がわっと泣き出した。


「なぜ、なぜ崔家の姫君が、こんな男のような格好で危険な目に……。わたくし、悔しくてなりませんわ!」

「男の格好は元々だし、ある程度の危険は英峰で慣れているから」


 紫苑は襦裙のようなひらひらした着物は動き辛いと、普段は胡服こふくを愛用していた。さすがに崔家の姫として他所におもむく際や客人が訪れる際は襦裙に身を包み、しなを作っていたがそれでも胡服を着ている時間の方が長い。

 危険な目とは英峰関係で破落戸に絡まれたり、借金取りに追われたり、山賊や野党狩りをしたこともある。珍しい花が欲しいという我が儘に付き合わされた挙句、崖から転がり落ちたこともあった。小さい頃は訳も分からず泣いたこともあるが英峰のおかげで次第にどんなに危険でも慣れてしまったので恐ろしいとは思わなくなった。


「それは慣れてはいけません!!」


 慰めのつもりで言ったのだが間違えたらしい。雨蓉はわんわんと泣き始めた。八つも年上なのにそう見えない形相に紫苑は内心、引いた。


「いや、うん、でもね。英峰のおかげでなめらかに話は進んだし、あれでも役にたつよね。みんな、すごい顔していたよ」


 みんな、とは家族のことだ。祖父は遠征で留守のため、祖母と両親、兄と弟に明日から登城し、一年間、慶王付きの護衛になると言った時の表情といったら今思い出しても乾いた笑い声しかでてこない。現状を把握できず混乱していたが英峰の名前を出した瞬間、家族全員「またあいつか」と心をひとつにさせたのは分かった。

 元凶が英峰だと悟った家族の顔に浮かんだのは英峰への怒りと呆れ。慶王を騙す行為に対する不安と後悔。紫苑の安全——。全てが混沌と渦巻き、共存していた。


「とりあえずあの場にお祖父様がいなくてよかった。いたら多分、こんなに円滑に進まなかったよ」

蒼月そうげつ様は三男坊を嫌っていますからね」

「——俺が有望すぎてな!」


 勢いよく扉が開け放たれ、顔と官服を墨だらけした英峰が転がりこんできた。雨蓉は口をあんぐり開き、紫苑は眉間に皺を寄せた。


「なんでここにいるの?」


 護衛として与えられた房室じしつは教えていないはずなのに唯我独尊の屑人間は我が物顔で入り込んできた。きっと職権を乱用して知ったのだろう。せっかく昼間の緊張も解けつつあるのに違う緊張感が房室を満たすのを紫苑は肌で感じ取った。


「俺に会いたくなる頃かと思って」

「思うわけないでしょ。ていうか近づかないで。汚い」


 よく見れば墨は乾ききっていない。この状況でいつものように触れられれもしたらまた入浴し直しになる。そんな面倒なことは避けたい。

 しかし、英峰という人間は「やめろ」と言われればやりたくなり、「近づかないで」と言われれば近づきたくなる糞な性格をしていた。

 軽薄な表情が愉快そうに歪むのを見て、紫苑の危険察知能力が働いた。椅子から立ち上がり、距離をとる。


「来るなら風呂にでも入ってきてよ」

「お前が慶王に料理ぶっかけられたと聞いて、楽しそ——んん! 心配して風呂に入る時間も惜しんで来てやったんだぞ」

「楽しむな。惜しむな。もっと隠せ」


 紫苑が一歩下がれば、面白がった英峰も一歩近づいてくる。


「やめろ」

「えー、無理かな」


 続いて紫苑が二歩下がれば、英峰は四歩近づいてきた。英峰が近づく度に雨蓉が小さく悲鳴をあげる。


「くだらないことする前に要件を言って」

「護衛、大丈夫そう?」


 心配そうに言いながらも英峰は詰め寄ることを止めない。紫苑が壁際に追いやられ、今から起こる事を予想し、心の準備をしていた時、


「離れなさい!!」


 雨蓉が叫びながら英峰の後頭部に向かって棒を振り下ろした。紫苑の鍛錬の相方を務めてくれるこの棒はいつぞや山賊狩りに赴いた際に地面に落ちていたものだ。不思議と手に馴染むので持ち帰り、宮城にも持参したのだがまさか役に立つとは思わなかった。


「雨蓉?!」


 紫苑は叫んだ。聞こえてはいけない音が聞こえた。きっと、英峰の頭蓋骨は凹んでいる。


「ちょっと待って、これ英峰死ぬから!!」


 混乱しているのか雨蓉が棒を構え、振り下ろそうとするので紫苑はその腕を握る。


「待って」

「けど!」

「いいから待って!」


 強く言えば雨蓉は深く息を吸い、吐き出す。それを何度か繰り返し、床に伸びる英峰を見つめて、


「よし!」


 拳を握った。


「よし! じゃない。やりすぎ。水持ってきて」

「大丈夫ですよ。息していますし」


 扱いが酷い。紫苑も英峰に対しての扱いは酷い方だがこれは次元が違う。人権すらないのが不憫で、紫苑は初めて幼馴染に憐れみの視線を送った。


「あなたは本当に嫌われているよね」


 主に崔家の人間に。


「俺が優秀すぎるからな」

「優秀じゃなくて性格が悪いから嫌われるんだよ」

「えっ……。こんなにも性格がいいのに?」

「あー、雨蓉。水はやっぱりいいよ。元気そう」


 軽口を叩くぐらいには回復しているらしい。


「とりあえずさ、どうだったの?」


 打たれた後頭部を押さえながら英峰は身体を起こすと勝手知ったる様子で臥台に寝そべった。墨だらけの格好に紫苑が片眉を持ち上げるが何も言わない。雨蓉がしでかしたことに対して申し訳ないという気持ちがまさった。

 紫苑は臥台の空いている空間に腰を下ろすと雨蓉にもう休むように告げた。英峰と二人きりにすることに難色を示すが再度、同じ言葉を告げれば雨蓉は優雅は拝礼をして、房室を出て行く。


「慶王の怒りを買ったんだろ? 火傷はしなかった?」

「してないよ。冷めてたし」

「ふーん。なら、いっか」

「他人事だな」

「火傷でもしてたらお前の家族にどやされてたからね。してないなら心配するだけ損だし」


 英峰は欠伸を噛み締めつつ、紫苑を見つめた。


「あの人、性根は腐っているけど、怪我させたりはしないと思ってたんだ」


 ぽつり、と呟かれた言葉は消え入りそうなほど小さいが隣にいた紫苑には確かに届いた。英峰なりに心配していたのだろう、と歯がゆい気持ちになる。

 と、同時にその言葉に疑問を覚えた。


「怪我させたりしない?」


 それはおかしな話だ。周囲から聞きかじる慶王像は「気に入らないことがあれば、すぐ相手を痛めつける。それが例え老人や赤子であっても」というもの。誰もが口を揃えて言うので、紫苑は英峰の数百倍は歪んだ性格の持ち主はいるんだなぁと他人事のように思った。


「英峰は、慶王様が私に怪我させないって分かっていたの?」


 紫苑がつつくと、英峰はとてつもなく嫌そうな顔をした。


「言ってない」

「いや、言ったよね」

「言ってないって。しつこい」


 英峰は舌打ちした。両手で両耳を塞ぐ。これ以上、紫苑との会話を続ける気はない、という意思表示だ。

 紫苑は大息する。力は自分の方が上で、無理やり手を離すことは可能だが頑固な英峰は決して口を開かないだろう。

 納得はいかないが、無理に話しを進めることもできないので、紫苑は卓に向かい、書簡てがみの続きを書き始める。心配した家族から逐一報告するように言われているものだ。とりあえず、仕事の内容は口外できないので食事は三食きちんと摂っていることと睡眠と休憩はきちんと入っていること。午後の空いた時間、庭園を散策した時に見つけた珍しい草花のことを書き綴ろうか。




 ***




「ねえ、英峰と慶王様ってどこで会ったの? 知り合いっぽかったよね」


 書簡の八割が埋め尽くされた頃、紫苑は筆を置いた。

 英峰は暇を持て余しているのか褥の上をごろごろ転がっていた。衣服に付着した墨はもう乾ききっているらしく、転がっても敷布は汚れていない。

 天井と向き合う体勢で動きを止めた英峰は「庭」と言った。


「簡潔すぎ。もっと詳しく」

「……昔、後宮に遊びに行った時、出会った」


 ——後宮に遊びに行った時?

 今、確かに英峰はそういった。紫苑の聞き間違いではない。後宮という、男子禁制の慶王の花園に、宦官ではない英峰が入ることなんてできるわけがない。

 つまり、英峰は、


「あなた、後宮に忍び込んだの?」

「興味あって」


 その返答に紫苑は呆れ果てた。地頭はいい癖に無鉄砲な男だと思っていたが、まさかこれほどまでの馬鹿だとは思わなかった。後宮に忍び込むなど妃嬪との密通を疑われる行為だ。本人もろとも一族郎党、処分されてもおかしくない。


「遊びに行ったのは俺が九つぐらいか? で、慶王が十二歳だったはず。まあ、そこで仲良くなってな。ほら、あれだ。大親友というやつだ」

「大親友?」


 それは本当に大親友なのだろうか。誇張する悪癖がある分、信用が難しい。なにせ、紫苑のことも場合によっては大親友と呼称しているのだから。


「……なるほどね。あなたが慶王様の護衛に私を抜擢したのって、報酬うんぬん言っていたけれど、大親友を守るためってことだったのね」

「いや、報酬が一番だよ。慶王の安全はついで」


 淡々とした口調で英峰は続ける。


「あいつ、敵が多くてさぁ。妹君が行方不明で、育ての親にはうとんじられて、周囲には愚王だと言われ、弟の方がいいって可哀想じゃん?」

「まあ、そうね」

「しかも本人がさぁ、護衛はいらないって言ってずっと一人でいるわけ。賭けの褒美にお前を護衛につけつことを承諾させたけど、大変だったんだぞ」

「ずっと一人? 夜もいないの?」

「ああ、宦官も兵士も、慶王の殿舎に近づけば首をねるぞって脅したんだと」


 自分の立場を分かっているのかねぇ、他人事のように吐き捨てられた言葉に紫苑は口をぽかんと開けた。

 紫苑の役目は護衛兼その性格の矯正だ。護衛として隣室で就寝し、有事の際にすぐに駆けつけるようにするものだと考えていたが天凱には断られた。なんでも夜は別の護衛兵がいるので問題はないらしく「お前と四六時中、一緒にいるなんて嫌に決まっている」と笑顔で言われてしまった。その時は他にもいるのならと素直に頷いてしまったが英峰の用意した護衛は自分のみなら夜も側にいた方がいいのではないだろうか。


「英峰、お願いがあるんだけど」

「え、嫌だ」

「内容聞いて。あなたから慶王様に夜の護衛として私をつけるように言って」

「断られるぞ」

「あなたの二枚舌を使えば言いくるめられるでしょう」

「だるい」


 軽薄な態度に苛立った紫苑は卓に立てかけていた棒に手を伸ばした。


「待て! 叩くのはやめろ!!」

「叩かれるようなことしているのは誰?」

「俺」

「分かっているじゃない」

「俺は天才だからな。お前と違って」


 分かっていても反省はしない。それが英峰だ。

 紫苑は棒を持つと先で床を小突いた。カツンという音に英峰は寝っ転がった状態のまま後頭部を押さえる。別に紫苑は後頭部を狙っているわけではないのに、雨蓉に叩かれた箇所がよほど痛かったらしい。


「ほら、話しを戻そう!」

「話しを逸らしたのはあなたでしょ」


 非難がましい視線をさらりと受け流しながら英峰は褥から上半身を起こした。ちなみに後頭部は押さえたままだ。


「しばらくはこのまま昼間のみ護衛を続けてくれ。てか、夜もってなるとお前も倒れるぞ」

「もし、それで慶王様になにかあれば崔紫翠が処罰を受けることになるのよ」

「いいから。お前は昼間のみ護衛して、あの人の内面を探ってくれ。他は考えなくていい」


 英峰は目尻を鋭くさせた。

 常に薄っぺらい笑みを浮かべる英峰が珍しく怒りの表情を浮かべたので紫苑は面くらう。生まれた時から共にいたが英峰がこのように怒っている場面など野盗狩りを遂行したのに賃金を支払われなかった時や貯めていた銭を盗人に盗られた時など、自分に損があった時しか見たことない。


「英峰は慶王様が大切なんだね」

「あんなに公平な人はいないから。俺はあの人が慶王として頂点に君臨して欲しいんだ」

「そっか……。正直さ、めちゃくちゃ性格悪いなって思っていたんだけど、あなたがそう言うなら信じてみようかな」


 純粋な気持ちを口にすると英峰は笑みを浮かべた。いつものように他人を小馬鹿にするようないやらしい笑みではない。あまりにも優しげに笑うので紫苑は驚いた。


「あなたってそんな笑い方できるんだね」


 と告げれば優しい笑みは消え去り、またいつもの軽薄な笑みが浮かんだ。

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