第2話 琴洛殿の中庭
場所は
しかし、二人の雰囲気は正反対である。英峰はこの澄んだ青空のように明るい表情を浮かべていたが紫苑は今にも卒倒するのではと思うほど顔色が悪い。
「いやぁ、本当にバレないもんだな」
幼馴染の顔色に気付きながらも英峰はからからと晴れやかに笑った。まるで
「見事なまでに男だと思われたな!」
あまりにも大きな声で発言するので急いで紫苑が「誰か聞いているのか分からないから」と咎めるが気に留めることもしない。
「ねえ、英峰」
喋るたびに胃の
「どうした?」
「どうした? じゃない」
紫苑は目尻を鋭くさせた。怒鳴ろうにも胃が痛くてこれ以上の大声は出せないため小声で囁く。
「いったいどういうこと?」
「とは?」
「私、言ったよね?」
英峰は首を傾げて見せた。
「お前は俺という人間を分かっていないよな」
まるで紫苑が悪いという口振りである。
「あなたって人は、なんでこう……」
紫苑は両手で顔を覆うと俯き、深く、長いため息をはいた。
二週間前、紫苑は英峰の頼みを確かに断ったはずなのに、どういうわけか紫苑は大袖の長袍に身を包み、
どうしてこうなったのだろうか。紫苑は痛みに耐えながら今朝の出来事を思い出した。
***
いつもは日の出とともに騒ぎ始める雄鶏がなぜか薄暗いのにけたたましく鳴き始めた。その鳴き声に家族や住み込みの下男下女らも異変を察知し、起床したのだろう。微かに屋敷がざわめき始めるのを聞きながら紫苑は
(女性かな。それも二人)
耳を澄ませば軽やかな足取りが二人分、こちらに近付いてきている。足取りから女性であり、鍛錬を積んでいない
足音は房室の前で止まり、ゆっくりと扉が開かれた。燭台の灯りとともに入ってきた二人の人物に紫苑は「え」と間抜けな声をあげた。
二人は鬼家に使える女中だったからだ。隣とはいえ、なぜこんな夜更けに自分の房室を訪れたのか疑問を抱きながらも剣を
「あの、どうかしましたか?」
紫苑の問いかけにふくよかな女中——
「さあ、こちらへ。準備は整っておりますわ」
準備とはなんだろうか? 紫苑は首を捻る。
「あの、どちらへ……?」
二人は答える代わりに左右から紫苑の両腕を掴んだ。指先の力加減から絶対に逃がさないという意思を感じて紫苑の背に冷や汗が伝う。嫌な予感がした。
「さあさあ、早く行きましょう」
「紫苑様はなにも準備をしなくても大丈夫ですわ」
「ええ、こちらで全て準備しておりますので」
「急がなくては支度が間に合いませんわ」
「あら、もうこんな時間」
明鈴とその娘——
ある程度してから冷静さを取り戻した紫苑は、
(ああ、またか)
と遠い目をする。二人が自分を迎えにきたのは彼女達の主人である英峰の命令だと察したからだ。いつぞやの野盗退治のように賞金目当てか、はたまた気まぐれに狩りにでも付き合わされるのかは分からないが、どうせまたろくでもない事に付き合わされるのだろう。
まあ、今日は予定もないし気分も悪くない。付き合ってやるか、と紫苑は思った。
そうこう思っているうちに二人に連れられ訪れたのは鬼家の浴場。なぜ今から入浴する必要があるのだと紫苑は目を丸くさせる。
「さあ、身を清めましょう」
明鈴の言葉とともに湯気がたちのぼる湯船に投げいれられた。それも服を着たままで。
「一体なにを?!」
紫苑が目を白黒させていると花梨が慣れた手つきで紫苑の寝衣を剥いでいく。瞬きする間に紫苑は一糸纏わぬ姿となり、同性しかいないとはいえ羞恥心から胸元を隠した。
「失礼いたします」
明鈴は紫苑の腕を持ち上げると泡を纏わせた布で丁寧に拭き始めた。
「今日は大切な日ですからね。お綺麗にしなくては」
「大切な日?」
「あら? 英峰様からお聞きではないのですか?」
「ええ、正直、なにが——」
その時、聞き慣れた足音が聞こえ紫苑は言葉を止めた。素早く手元にあった桶を入り口へ思いっきり放り投げる。桶はまっすぐ飛んでいき、なにかにぶつかりばらばらに大破した。
「入ってくるな!!」
紫苑の怒声と、痛みに呻く低い声が浴場に響いた。
「まあ、女人の入浴中に入るものではありませんわ!」
声の正体を知った明鈴は腰に手を当て、怒りで顔を真っ赤にした。
「英峰様! 今すぐ出て行ってくださいませ!!」
「徹夜明けなんだ。そんなに怒るな。脳に響く。紫苑と話しがあるから二人は出て行ってくれ」
「しかし!」
「いいよ。明鈴殿、こいつが私に敵うわけないから」
紫苑が笑いかけると明鈴と花梨は視線を通わせ浴場から出て行った。
「——で? なにか言うことあるでしょ?」
紫苑の問いかけに桶がぶつかったと思われる箇所を押さえながら英峰は身体を起こすとにやりと口角を持ち上げた。紫苑の裸を見たからではなく、この笑みは全てが思いの通りに進んでいることに対しての喜びの笑みだということを長年の付き合いから察し、紫苑は殴りたい気持ちでいっぱいになる。
「ねえ、なんなの一体? どういうこと? なんであなたの家の女中が私を迎えにきて、お風呂に入れているわけ? 今日が大切な日ってなんのこと?」
胸を両手で隠し、湯船に深く浸かりながら紫苑は疑問を一気にぶつけた。非常識で自分の欲を優先させる糞人間であろうと女の湯浴みに突撃するほどの阿呆ではないのは知っている。だから何か意味があって自分を呼んで、ここに来たのだと思ったのだが、
「まず、前提として今日は慶王様との謁見の日だ」
予想を大いに裏切られた。
「……は? 謁見?」
紫苑は我が耳を疑った。まだ十八なのに耳が遠くなったようだ。
「紫苑が護衛として仕える前に話をしてみたいらしい。そんな日にいつもの格好じゃあ駄目だろう? だから風呂に入って綺麗にするんだ」
「まって、その話しは断ったはずだけど」
「俺が通しておいた」
笑顔で親指を立てられた。イラッときたので近くにあった椅子に手を伸ばすと英峰が焦った様子を見せた。
「やめてくれ! 徹夜明けに
「断って」
「無理だ」
「なんで?」
「お前の弟の名で通したから」
紫苑は迷いなく椅子を投げた。椅子は英峰の額にぶつかったが投げた時の体勢が悪く、勢いがつかなかったためか桶のように壊れたりせず床に転がった。
英峰は額を抑えると「頭痛に純粋な痛みが加わった」と変なことを呟いた。
「紫翠の名前を使わないでよ!」
紫翠とは紫苑の二つ歳下の弟の名前だ。幼い頃から病弱で、深窓の令嬢ならぬ令息として崔家の屋敷から外にでることなく過ごしている。紫苑と同様に深く宝石のような瞳を持つ弟は身長の差はあれど鏡で写したようにそっくりな容姿をしていた。
その容姿と性別を利用したことは安易に予想がつき、紫苑は舌打ちをした。
「これで断れないな」
「なんでこういう時に限って悪知恵が働くわけ?!」
「金のためさ」
キメ顔で言われた。腹に立ったので投げるものが近くにないか探すがないので諦めた。
「どうすんのよ。これ」
紫苑はさっと顔を青くさせる。弟の名で慶王に謁見を願い出たのに当日になってこちらの都合で一方的に取りやめとは
「紫翠として護衛を勤めればいい。俺も手伝うから大船に乗ってくれ」
「泥舟の間違いでしょう」
なにか他に道はないかと思案するが名前を出されている時点でその道が潰えていることを理解して、紫苑は「分かった」と嫌々承諾した。
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