第3話 全ての元凶


 それから紫苑が状況を理解する間もなく鬼家で用意された大袖を着て、軒車けんしゃに押し込まれ、登城し、天凱と謁見をした。経歴も実績もないので断られると思っていたが天凱は紫苑の素直さを気に入ったらしい。「明日から仕えろ」と言ってきたので紫苑は紫翠として慶王に一年間、仕えることとなった。

 護衛を勤めている間は城で暮すことになる。急遽、決まったことなので紫苑はすぐ家に帰り、支度をしようと考えた。家族にどう説明しようか、必要な物はなにかな、と考えながら回廊を歩いていたところ仕事をサボったと思わしき英峰に捕まり、今にいたる。


 浴場では仕方ないと一度は要件を受け入れたが冷静さを取り戻した今、紫苑の心中を支配するのは「こいつが全ての元凶だ」という怒りと慶王を騙すことへの後悔だった。割合で言えば怒りが八、後悔が二ほどだ。

 顔を覆う手を外し、また痛み出す胃を押さえると紫苑は「ふざけないでよ」と吐き捨てた。


「仕方ないじゃないか。作戦を練ろうにもお前は用事があって捕まらなかったし、今朝もそんな時間なかったんだから」


 紫苑が心の底から屑で人手なしで人間としての道徳が欠如していると思っている幼馴染はどこ吹く風で両手を掲げて見せた。


「あなたが勝手に話を通してくれたおかげでね」

「俺だって悪いと思って、仕事を部下におつし……頼み込んでお前に会いに来てやっているんだぞ」


 やれやれ、と英峰は首を左右に振る。本当に悪いと思っている表情ではない。


「前から思っていたんだが紫苑はこの事態を軽視していないか?」

「別に彼がどんな人間でも家族に害がなければ、私は構わない」


 天凱の悪行は世に疎い紫苑もよく耳にする。

 曰く、偵察におもむいた土地で駆け寄ってきた幼子を突き飛ばし、その家族に十日間もの投獄を命じた。

 曰く、起床をうながした宦官の声が不愉快だと罵った。

 曰く、出された食事が口に合わないとくりやを担当した者達の舌を切り落とした。

 他にも慶王の責務であるのに妃との閨事ねやごとを拒絶し、政務もおざなりで、日がな一日、怠惰たいだな生活を送っていると。彼が王位を継いで早一年。善行は一度として聞いたことがない。


「慶王があんなだらけたままじゃあ、いずれこの国は滅びてしまうぞ」


 おどけた様子だが、英峰なりに気にかけているのは長い付き合いからわかった。珍しく真摯な姿に紫苑は、瞠目どうもくする。


「あなたがこの国の行く末をうれうなんて……。なにか変なものでも食べた?」

「失礼なやつだな! 俺だって国を案ずることはするさ!」

「案ずるもなにも弟君がいるでしょ。今は幼いけど、いずれ跡を継ぐのは彼だってみんな言ってるよ」


 慶王には血を分けた兄妹が十一人もいる。その大半が他国に嫁ぎ、また戦で死去しているが末の弟君は存命だ。後宮の親元で暮らしている。

 まだ十四歳と幼いが現皇太后の実子であり、聡明な頭脳の持ち主。心優しい少年は罪人にすら救いの手を差し伸べるという。

 天凱が慶王に選ばれたのは、弟君が成人するまでの繋ぎである、それが紫苑を含む国民の認識だ。


「その弟君が本当に噂通りならなぁ」


 ここで初めて英峰が声を潜め、眉根を寄せた。普段の人を小馬鹿にするような笑みや薄っぺらい作り笑いではない。十八年間、そばにいて初めて見せる真面目な表情に紫苑は「どういうこと?」と問いかけた。

 英峰は視線を彷徨わせると俯き、両腕を組んだ。


「紫苑はさ。慶王様が、なんでなったか知ってるか?」


 紫苑は頷いた。


「公主様が行方不明になられたのが切っ掛けで、心を壊されたと聞いた」


 清賢せいけん公主——兄である天凱が慶王となったので現在の称号は長公主——は去年の暮れに突如、行方知れずとなった。身の回りの世話をする侍女や宮女、衛兵達が気付くこともなく、置き手紙もない。文字通り、煙のように消えた妹を見つけだそうと天凱は寝る間も惜しんで自ら捜索をし続けた。

 しかし、手がかりはなにも見つからない。一月に渡る大捜索の末、老臣達の進言もあってか捜索は打ち切られることとなった。

 そして、最愛の同母妹いもうとの失踪に天凱はなってしまった。


「とても仲がよかったのでしょう。賢人と言われていたお方が愚王と言われるまで心を壊すなんて……」


 その言葉に英峰は「ああ」と言葉をもらし、真面目な表情から一転して、軽薄な笑みを浮かべた。


「だから頑張ってね。紫苑があの性格を叩き直してくれると俺は信じてるよ」

「英峰は、公主様の失踪はその弟君が怪しいと思っているの?」

「知らん」

「知らないって……。じゃあ、なんでああ含みをもった言い方をするのよ」

「はて、なんのことだ?」

「……あのさ、私はあなたのことを自分のためなら人を利用する屑だと思っているよ」

「え、急に辛辣なこと言うなよ」

「けど、その頭と察しの良さは信用している。で? 本当は私になにをして欲しいの? 冗談抜きで、あなたの本心を言ってちょうだい」


 紫苑はじっとりとした目つきで睨みつけた。英峰が他にもまだ隠し事をしていると考えたのだ。


「あの性格の矯正と護衛だけしてくれればそれでいい」


 胡散臭いことこの上ない。紫苑はいぶしむがこれ以上、追求しても時間の無駄だと悟り、大きく息を吐いた。


「……ねえ、それ、私が聞かなければ黙っている予定だったんでしょ?」

「ああ。だって聞かれなければ答える必要ないし」


 胸を張って答えられ、紫苑の米神こめかみに血管が浮き立った。なぜ実績もない紫翠自分が慶王の護衛役に採用されたのか不思議だったがこれで辻褄つじつまがあう。

 英峰は慶王の座は弟君ではなく、天凱に座っていて欲しい。

 しかし、天凱は今や愚王と称される人物だ。

 だからこそ、宮城で権威と発言力がある大将軍の孫であり、無所属の自分が選ばれたのだろう。英峰としては戦神——崔大将軍を護衛にし、天凱の地盤を強固にしたかったようだが若い頃から中立を保ちつつ、仕事に打ち込む祖父は護衛として満足な働きはしても天凱の肩を持つことはない。

 ならば、その孫である紫翠自分を引き込み、籠絡ろうらくする方が早い。崔大将軍は寡黙で仕事中毒者ではあるが、家族を大切にしていることはみんな知っている。孫が天凱派となれば、彼は中立の立場をやめて、天凱につくはずだ。

 長年の付き合いから英峰の考えを読み取った紫苑は降参といいたげに手を挙げた。


「分かった。手伝うよ。けどひとつだけ、女であることをバラすのは避けたい」

「えー、いいじゃん。別にバラしても」


 米神に這う血管が脈を打つ。英峰にとって護衛よりも女嫌いの克服が最優先事項のようだ。


「い、や、だ」

「でもさ、仲良くなって実は女の子でした! って言われてさ、慶王様が恋に落ちちゃって妃になってくれっていわれちゃったりして」


 くねくねと身体をくねらせるのを横目に紫苑は「私が妃?」と首を傾げた。妃というからには後宮で慶王の寵愛を得るため、着飾り、びを売る女性像が浮かび上がる。男女と言われる容貌を持つ自分がひらひらした襦裙じゅくんに身を包み、慶王に甘えた仕草で媚びへつらう——。


(無理だ)


 想像だけで吐きそうになった。


「お妃様になれるわけないよ」


 家柄だけで言えば十分、上級妃としてはべることはできるだろうが紫苑は無理だと思っている。後宮に入れば今のように市内を駆け回ったり、馬で気晴らしに遠乗りもいけなくなる。

 まあ、それに、閨事が嫌いでも後宮には数多の花が揃っている。目が肥えているであろう慶王が自分を選ぶなど天と地がひっくり返ってもありえない。


「最初に言った通り、私は女であることは隠すからね。けど護衛はしっかりするし、なんでああいう行動をとるのか聞いて少しずつ要因を探ってみるよ」

「まあ、紫苑がいいならそれでいいんじゃない?」

「邪魔しないでよ?」

「邪魔はしないさ」


 英峰は爽やかに「絶対に邪魔しないから」と念押しするように言い加えたが前科がある分、信用できない。

 本当に邪魔しないでよ、と紫苑は心の中で念じた。

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