第35話 空の下にあるものが




 夜が更けた。

 駒兵衛こまべえの家の庭には娘が入るはずだった柩が用意されており、宋十郎そうじゅうろうがその中に入ると、男たちが蓋を閉じて杭を打ち付けた。

 それを見ながら、ろうは少し震えた。魔物に食われるのでなくとも、あんな狭い場所に閉じ込められて自力で出られないのは、恐ろしいだろう。

 彼の隣に立って同じようにそれを見つめていた娘は、涙ぐみながら両手を合わせていた。

 杭を打ち付け終わると、孔蔵くぞうと町の男たちは柩を担ぎ、家を出て行った。

 彼はそれを見送ると、駒兵衛に案内され、娘とともに家の座敷へ入った。

 娘は、明日の朝まで家に戻らず、宋十郎の帰りを篭と一緒に待つという。娘は、名前を菜津なつといった。

「あたしのせいで、あのお侍さまが戻らなかったら、ごめんなさい」

 二人きりになって座敷に座ると、菜津は畳の目を見下ろしながら呟いた。

 篭は驚き、早速宋十郎に言われたことを忘れ、菜津に向かって言った。

「どうして。宋十郎は、きっと大丈夫だよ。それに、もしだよ、もし何かあっても、それは菜津のせいじゃないよね。なんでそんなこと言うの?」

 すると、また娘は涙ぐんだ。

「あたしが、あたしの往生際が悪いせいで、あのお方が代わりに死んで病が流行ったら、全部あたしのせいだもの」

 首を振り、篭は言った。

「そんなわけ、ないよ。悪いのは病を流行らせる、神様だか魔物だろ。誰が死んでも、それは何も菜津のせいじゃないよ」

 人間は、本当に不思議である。咎は、時に罪を犯したものでなく、それに関わったものや、傷つけられた者が負うのだろうか。

 すると部屋の襖が開き、茶を載せた盆を持った男が現れた。

「おい、茶だ。駒兵衛さんが持っていけとよ」

 男は乱暴に盆を畳の上に置くと、去ろうとして振り返り、篭の方へ眼を向けた。

「おい、そっちのお姫さまは、いつになったら笠を下ろすんだ。もう夜だし、ここは屋敷の中だぜ。もしや、あんたが物怪もののけなんじゃねえか」

 男の口調は疑問に思うというより揶揄しているようだったが、図星をつかれた篭はぎくりとして黙り込んだ。

 代わりに、菜津が男に向かって言った。

「やめなよ。人には色々、事情があるんだよ。あんたに関係ないでしょう」

 すると、男が菜津を睨み下ろす。

「口挟むんじゃねえよ。てめえが大人しく神様に食われてりゃあ、こんな騒動なかったんだ。もしあの坊主とお侍がしくじったら、町の者は皆殺しかもしれねえぞ。そうなったらてめえ、どう落とし前つけるんだよ」

 菜津の顔が、さっと青ざめた。篭の中に、先ほどの疑問がもう一度過ぎる。

 するとそこに、廊下を歩いていた駒兵衛が通りかかった。

「おい、何やってる。俺は、茶ぁ運べって言っただけだぞ」

 男は一瞬不満を顔に表したものの、何も言わずに歩き去る。

 鼻から深い溜め息を吐くと、駒兵衛は半ば独り言のように、言った。

「私らにゃ、祈ることしかできないな」

 駒兵衛が見上げた夜空には、弓のような弦月が、白々しらじらと輝いていた。







 宋十郎は、柩の中で息を潜めていた。

 彼は抜き身の刀を慎重に手にして、一片の光もない箱の中で目を開いていた。

 首には、孔蔵が渡してくれた呼び笛をかけている。笛の音は瘴気や弱い魔物を散らす効果があるらしいが、祟り神相手に効果は期待できないので、専ら控えの仲間を呼ぶためのものである。

 こんな窮屈な箱に入ることになるとは思わなかったが、あの化物に対峙することになるだろうという予感が、彼自身奇妙なことではあるが、夕方前あの社に立ち寄った時から、彼の中にあった。

 一つ目の鳥居をくぐった時に感じた、獣のような強い臭気と、強烈な敵意と殺意。

 どういうわけか、あちらは孔蔵でも篭でもなく、彼を敵として捉えていた。そして敵意を向けられた彼が感じたのも、刃物のような敵愾心だった。

 数日前から、彼の感覚は急速に鋭さを増しつつある。狗面の忍相手に遠吠とおぼえを使ったのもよくなかったろうが、一番まずかったのは、太畠で浪人の群れを撒くためにとうとう変化へんげしてしまったことだろう。しかしあの時はそうでもせねば、逃げ切ることはできなかった。彼には為すべき仕事がある。何としてでも、生き延びねばならなかった。

 ふと、夕方と同じ臭気を感じた。強く忌々しい、獣の臭い。

 来る、と思う。身構えると同時に、柩の蓋が弾け飛んだ。

 鋭い爪が振り下ろされ、彼は咄嗟に構えた剣でそれを受けた。凄まじい力で押された剣の峰が、彼の頭上、柩の縁に打ち付けられた。

 初めの一発で獲物を仕留め損ねた獣が跳び退さる。細く月光が注ぐ木々の間に、赤黒く巨大な猩々しょうじょうが降り立った。

 確かにこの外貌では、人間たちの前に姿は現せないだろう。

 ぐぐぐ、と人には発し得ない唸り声が、猩々の太い喉から漏れる。

 強い異臭に、宋十郎の鼻梁に皺が集まる。娘を食い殺すはずだった化物は気が昂っているのだろう、鬱屈した殺意が、全身から立ち昇っている。

 猩々は、きいひひと裂けるような声をあげた。

 それが挑発であると分かった宋十郎は、無性に怒りを感じる自分に気付いた。闘争心といってもいい。

 この化物は彼の正体を知っており、それ故に彼を憎み嘲っている。

 時に獣同士は、生まれついた生の形故に、共に在れないことがある。

 彼自身がこの異臭にこれほど怒りを感じるのもそのだめだろう。

 しかし彼は刀をふるう人間である。思考を棄てて衝動に呑まれるのは動物のすることだ。人は怒りで殺すべきでなく、闘いは情念に依るべきでない。

 宋十郎は剣を構えた。

 彼の出方を見るかのように佇んでいた猩々が、結局人間の武器を握り直した彼を見て、嗤った。

 お前は死ぬんだ、そう言う猩々の言葉は、彼の脳に直接響く。

 猩々が地を蹴り、跳びかかってきた。

 その一撃は、人間にはあり得ない重さである。さらに猩々は、獣の敏捷さも持ち併せている。

 先手を取られ爪の一撃を受け、剣ごと持っていかれそうになるところを辛うじて耐えた。よろめく足では反撃を繰り出せない。交互に振られる爪を防ぐので精一杯である。

 同じ事を繰り返した七合目、宋十郎は奥歯を噛み締め、後退した足を踏み止めて相手の爪を押し返した。

 獣はぐうるると唸り怒りと苛立ちを表す。宋十郎の全身は汗で水を纏ったようになってきた。

 こちらが攻撃を繰り出す前に、先に爪の一撃が来た。八合目にして彼はそれを見極め、上半身を大きく捻ってそれを躱した。

 しかし獣はさらに身を投げ出すようにして、彼の頭に食い付こうとした。全身を覆う汗が、一度に氷に変わったように感じる。

 彼は咄嗟に、剣で防いだ。

 刃物のような牙が並ぶ巨大な顎が、鋼の剣を噛み折った。

 目を瞠った宋十郎の眼前で、彼の剣が二つに分かれた。折れた切っ先が飛んで落ちる。

 一度大きく退がった猩々は、舌を傷つけた様子すらなく、それ見たことかと言わんばかりにきいひひと嗤った。

 宋十郎は、全身の血が沸騰するのを感じた。怒りか恐怖か高揚感かわからない。

 腰にはまだ二本目の太刀と脇差がある。しかしあの顎を一度でも生身に受ければ、腕ごと肩ごと、彼は体の一部を失うだろう。

 本能から闘うべきではない。しかし、今のままでは殺せない。

 静まれと、思考を決して失ってはいけないと、彼は自分に唱え聞かせる。

 宋十郎は、折れた剣を捨てた。

 彼の変化を見取ったのか、猩々は首を傾げてまた戻すと、正面から彼を睨み据えた。

 素手のまま地を蹴った彼を見て、猩々は窺うように身を低くする。

 彼は、人には聞こえぬ音で吠えた。







 宋十郎は、獲物の死体を見下ろした。

 草の上に、赤黒い巨体が転がっている。手首の一本が千切れ、少し離れた場所に落ちている。

 悪あがきのように、猩々の全身から瘴気とも言える悪臭が漂っている。恐らく町の人間たちを病にしたのはこの臭気だろう。もっとも、ほとんどの生物には、この臭気は感じられない。

 侍の姿をした青年は、月を見上げて遠吠えをあげた。この声も、猩々の臭気と同じくほとんどのものには聞き取れない。

 空気が震え、漂っていた臭気は立ち消えた。

 宋十郎は二本目の太刀を腰から抜くと、猩々の骸へ歩み寄り、その首を斬り落とした。

 ほとんど同時に、木々の遠く向こうから、がやがやと人の気配と声が近付いてくるのを感じた。先ほどあがった、猩々の断末魔を聞いたのだろう。

 それをわかっていながら、宋十郎は首にかけていた呼び笛を手に取ると、敢えて吹いた。

 間もなく、二人の若者を連れた孔蔵が駆け付けてきた。

 彼らは草の中で倒れている赤黒い巨体を見、刀を提げた侍を見て、おうとどよめき、目を丸くした。

「宋どの、あんたお一人で祟り神を退治したんですか」

 孔蔵が言った。

 二人の若者は、首と胴が泣き別れになった猩々の死体を見て、完全に泡を食っている。

「どうやら、そのようだ。ただ、刀を一本失った」

 宋十郎は答えながら、先ほど捨てた、折れた太刀の柄のほうを拾いに行った。既に死んでいるとはいえ、強力な魔物に触れた武器であるから、然るべき方法で処理するのが無難だろう。折れていないほうの太刀からも残る臭気を感じたが、彼は眉を動かさぬまま、二本の太刀を両手に持った。

 若者の一人が言う。

「こんなんが、神様の正体だったのかよ」

「というより、神様を騙ってた奴だろう。何者か知らんがかなり強い奴だったようだから、その亡骸にもまだ触らないほうがいい。宋どの、あんたの刀もお清めしますから、ちょいとこっちへ貸してください」

 孔蔵は草の上に片膝を着くと、背負っていた荷物を下ろして開き始めた。

 そんなことまでしてもらえるとは大変助かる。

 宋十郎は刀を提げたまま、坊主へ近付いて行った。

 焚火たきびの支度をしつつ、孔蔵がちらりと彼の顔へ視線を向けた。

 月夜の逆光に目を凝らすように彼の顔を見上げた坊主の眉が、怪訝そうに寄せられた。

「宋どの、口に……何かついてませんか」

 言われた途端、口の中に残る魔物の臭気が蘇ったように感じた。

 考えるより先に、宋十郎は折れた剣を握ったままの手の甲で、唇を拭っていた。

 白い手の甲に、黒い獣の血がうつる。

 口を引き結んだ孔蔵が、大きな目を見開いて彼を見つめた。

 その顔を見て声を失ったのは、宋十郎も同じだった。

 しかし坊主は顔を下げると、何も言わずに火打石を打ち始めた。

 離れた場所で猩々の死骸に気を取られている二人の若者は、彼らのやり取りなど見てもいないようだった。







 駒兵衛の家で一宿を借りた三人は、夜明けの薄明りの中、大社へ向かう参道を歩いていた。

 篭が見上げた大鳥居の上に、昨日の夕方見た大きな影は、いなかった。

 息を吸うと、胸の中が清涼な夜明けの空気で満たされる。

「町の人たち、嬉しそうだったね」

 辺りを歩いている者もいないのでいいだろう、そう思った篭は言った。

 昨夜、孔蔵は町の者と共に猩々の遺骸を燃し、遺灰を山の奥へ捨てるよう伝えた。駒兵衛をはじめ町の者たちは礼をしたいと言って彼らに滞在を勧めたが、急いでいる上に大事にしたくない彼らは、それを断り、立ち去った。

 篭の言葉に対し、孔蔵が頷いた。

「ああ、あの菜津なつって子のお袋さんと親父さんな。俺まで、じいんときちまったよ。親子ってのは、いいもんだよなあ」

 並んで進む彼らのあとを、静かに宋十郎が歩いてくる。

 彼らは三つ目の鳥居をくぐり、拝殿の前に立つ。

「今ならきっと、ここの神様が聞いてくださるぜ」

 孔蔵が言った。

 篭は両手を胸の前で合わせると、以前渡喜に教えてもらったように、頭を下げて礼をした。

 どうか、夏納へ向かった青年が、府中で出会った魔物が、鎌倉にいる母子が、この町に住む娘が、これから出会う全ての人とこの空の下にある全てのものが、何かを憎むことなく、大切な人と過ごすことができますように。

 彼は頭を上げると、徐々に青く変わりつつある夜明けの空を見上げた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る