第28話 柔らかな記憶




 宋十郎そうじゅうろうが選んだ旅籠は小ぢんまりとしていながら、掃除の行き届いた清潔な宿だった。

 客を迎え入れた女将は、刀を差して傷を負った庶民服の男とでかい坊主、堅気には見えない娘の三人組を見て、明らかに怪訝そうな顔をした。

 宋十郎が部屋と湯を借りたいと伝えると、女将は何も訊ねず、客を中へ入れてくれた。

 しかし宋十郎が借りた部屋は、一つだった。

 三人にはやや狭い板の間へ入り、女将が去るが早いか、孔蔵くぞうが声をあげた。

「宋どの、この女も同じ部屋で寝るんですか」

 天井に届きそうな孔蔵の頭を振り返り、宋十郎は答える。

「一部屋余分に借りる金はない。それに、見張りが必要だ」

「そりゃ、そうですけど……」

 孔蔵はふぬうと鼻息を吐き、何かを言いあぐねたように唇を噛んだ。雨巳あまみの方を向き、彼女に向かって言う。

「あんたは、それでいいのかよ」

 雨巳はきょとんとしたが、それも束の間、思わず漏れたらしい笑みをそのままに言葉を返す。

「別に、部屋同じだからって同衾どうきんするわけでなし。なんだ、気になって寝れねえのか?」

 あひゃひゃと忍が笑うと、坊主は額を赤くして、仁王像の形相でそっぽを向いた。

「悪い悪い。あんたでかくてうざいけど面白えわな。旦那がたは荷解き始めるみたいだし、お邪魔にならねえようにちょいと厠でも行ってこよかな」

 既に部屋の隅で少ない荷物を開いていた宋十郎が、雨巳を振り返った。

 その黒い両目に疑念が灯っているのを見て、雨巳は問われる前に言う。

「ちょ、まさか厠までついてくんのかい。まあ、そういうご趣味なら否定しねえけど。まぁでもとんずらこくなら、一宿いっしゅく一飯いっぱんあずかったあとにするわな」

 宋十郎は暫し雨巳を睨んでいたものの、結局頷いた。

「長く空けるようなら、探しに行く」

 雨巳は肩を竦める。

「へいへい。じゃ、ちっと失礼いたしますよ」

 彼女は格子戸を開けると、磨かれた板張りの廊下へ出た。

 少し歩くと裏口へ出る。

 借り物の下駄を履いて後ろ手に木戸を閉め、雨巳は、ふうと溜め息を吐いた。

 しかしそこで、薄闇の中から、低い男の声がした。

「雨巳」

 瞬時に、彼女の背筋が張った。声より、自分の無防備さに驚いたのだった。

 振り返ると、すぐそばの生垣の影に溶けるようにして、男が立っていた。

半鐘はんしょう

 ほとんど反射で、雨巳は男の名前を呼んでいた。

 男がすうと、薄闇から夕暮れの日なたの中へ現れた。

 相変わらず、死んだ魚のような目をした男である。庶民に扮しており、顔だけ見れば優男に見えなくもないが、限界まで鍛えられた首の太さと胴の厚さは、一度気付いてしまうと異様にしか見えない。

 なんであんたがここにいる。そんな間抜けな質問をできる相手ではない。

 代わりに雨巳は沈黙することで、相手の言葉を促した。

 彼女の意図を汲んでか汲まずか、半鐘は話した。

十馬とおま捕縛に失敗したな。なぜ籠原かごはらに供している」

「そりゃあ、白旗あげんのが嫌だからよな。手ぶらで帰っちゃお館さまに顔向けできねえ」

 答えながら、雨巳はこの男がここで何をしているのかを推測しようとした。

 亥宮いのみやが上げた報告はとうに遠夜に着いているだろう。それを受けてこの男は、瑞城たまきの奥まで十馬を追いかけて来たということだろうか。

 半鐘は、遠夜忍のうち、望部ぼうぶの頭領である。望部は、韋駄天いだてんが頭領を務める朔部に対して、妖術の類を使わない忍の集まりである。半鐘は雨巳が知る中でも笑わない忍の典型であり、遠夜えんやの犬という言葉は、この男にこそふさわしい。

 その充國の犬が、なぜこんなところへやってきたのか。この男の訪れは、大体の場合が、悪い知らせである。

 しかし次に半鐘の口から発されたのは、意外な言葉だった。

らいは、どこにいる」

 あの野郎、と雨巳は内心で毒づく。あの餓鬼はどこまで人に迷惑掛ければ気が済むのか。

「來は、知らねえよ」

「お前と同じ日に九裡耶くりやを出て、まだ戻っていない。隠すとためにならんぞ」

 相変わらず退屈なもの言いをする男だと、内心で無意味なけちをつけながら、雨巳は答える。

「隠してるわけじゃねえよ。亥宮に聞いたと思うけど、あいつ太畠うずはたの手前の時だけじゃなく、昨晩も十馬追っかけてる時にちゃちゃ入れてきたわけよ。で、黒鬼に畳まれてぼろ糞んなってたから一応拾って、府中の裏の山に置いてきたわな。そろそろ歩けるようになってるんでねえの」

 納得したのか、半鐘は表情のない顔で頷いた。

「でかした。このままお前は籠原を見張り、十馬に近付け」

 來を拾ったことがでかしたとは、半鐘の登場以上に、予想外の言葉である。

 雨巳は領分を超えていることを承知で、訊ねた。

「來が、どうしたのよ」

 意外にも、半鐘は答えた。

「主上が御術みわざを完成された。來の使いどころだ。お前の手を借りることもあるやもしれぬ。まずは十馬を追え」

 それを最後に、半鐘は再び生垣の影に歩み入り、薄闇に溶けた。それ以上は雨巳が訊ねたところで、回答は得られないということだ。

 背にしていた木戸の向こうから、孔蔵らしき重い足音が近付いてきた。半鐘が去った理由は、これだろう。

 がらがらと音をたてて木戸が開き、坊主が顔を出した。

「おい、何のろのろしてる」

 雨巳は振り返ると、敢えて退屈そうに坊主を見上げた。

「無粋よなぁ。先客がいたんよ。もうちょい待たせるけど、そこで立ってるか?」

 孔蔵は唇を曲げると、雨巳を睨みつけて言う。

「夕飯食うとよ」

 そしてふんと鼻息を吐くと、大股で廊下を戻っていった。

 夕餉にお招きくださるとな。

 雨巳はふへえと気の抜けた溜め息を吐きつつ、坊主の後姿を見送った。

 あちらこちらで予想以上に、妙なことになりつつある。

 彼女は一体、どこへ向かって進んでいるのだろうか。







 黒い夜空に、白い月が皓々こうこうと輝いている。

 灰色の薄衣うすぎぬのような雲が、時折それを隠す。

 雨巳は、宿の裏庭で湯に浸かっていた。

 星空を見上げ、彼女は思い出していた。


 洋平きよひらが人の言葉を話すようになって間もなくの夏に、ようが里の近くの河原へ雨巳と洋平を連れていったことがあった。

 稽古でも訓練でもないという。

 河原に辿り着いてぽかんとしている二人に向かって、謡は満点の星空を指し、言った。

「今夜はてんの河に道が架かってな、空ではお祭りしてるのよ」

 それを聞いた洋平が、訊ねた。

「祭り……地上では、なんかあんのか。飯でも出んのか」

 はははと謡は笑い、首を振った。

「なんもねえよ。空の連中のお祭りだから。でも、一緒になって祝ってもいいのよ」

 そして謡は、肩に結び付けていた小さな包みを開くと、白い丸いものを取り出した。

「何だ、これ」

 雨巳が胡散臭そうに問うと、謡は答えた。

「ぼた餅っていうんだと。人間の菓子だな。食ってみな」

 雨巳も洋平もそれぞれ掴んで噛みついて、洋平がすぐにおえっとうめいた。

「な、なんだこれ」

 黙って餅と中身の餡を食っている雨巳は、弟分に目を遣った。

 洋平には甘すぎたのかもしれない。

「嫌いか?」

 謡が問うと、洋平は暫く餅を睨んでから、首を振った。

「別に」

 そして、でかい口に餅を詰め込む。

 それを見つめている謡が、見たことのない顔を、とても穏やかな笑顔をしていて、雨巳は餅よりそちらに釘付けになった。

 彼女の視線に気付いた謡が振り返り、目が合った老女の顔が、彼女に向かって微笑んだ。

 とても、柔らかい何か。

 あの時それを見つめ返していた自分は、どんな顔をしていたのだろう。


 あまりに静かで、物思いに耽った。

 しかし頭の隅で、先ほどからそこにある気配に対処しろと鳴いている虫がいる。

 仕方なく雨巳は、首を生垣の影へ向けて、言った。

「來か」

 その通り、影から現れたのは、黒装束の來だった。狗面は外している。

 思ったより早い回復だと思いつつ、雨巳は言った。

「なによあんた、覗きかい」

 來は唇を曲げた。

「そんなわけあるかよ。ちょうどさっき嘴子はしこに着いて、お前を見つけたんだ。声掛けようかと思ったけど、何か考えてるように見えたから待ってたんだよ」

 変なところで気を遣う餓鬼である。

 ふうんと雨巳が鼻を鳴らすと、來はそろそろと歩み寄ってきた。

「それよりてめえ、籠原とつるんだりして何してんだ」

 肩より下が湯に浸かっているからいいと思っているのか、こういうところでは無遠慮な餓鬼である。それとも単にお子様だからか。

 雨巳は答える前に、先ほどまでの出来事を回想した。


 籠原宋十郎が夕餉と称した作戦会議を催し、明日いつ出るだのなんだのと話を始めた。

 焦っている宋十郎は夜明け前に発とうと言うが、そこに食事を運んできた女将が口を挟んだ。

 この先の峠には人食い鬼が出るという噂があり、日が高く昇るまでは出歩くなと言う。ついでに女将は、鬼の噂のために旅人が減り、この辺りの者は商売あがったりだという話もした。

 そこで声をあげたのが孔蔵なる坊主である。そんな鬼が人々を困らせているなら、俺が明日の夜明けとともに山へ登って鬼を祓ってやろうと言う。女将は仰天し、宋十郎は苦い顔をした。

「孔蔵どの、貴殿は先日も浦の漁村で化物退治をしたばかりだろう。そのとき、篭は比良目ひらめに攫われた」

 寄り道はさせないと語気を強める宋十郎に対し、いやいやと孔蔵は首を振る。

「女将さんの話を聞いたでしょう。どっちにしろ日が昇らねえと出れないんじゃ、鬼退治をしても一緒じゃないですか」

 籠原当主は、鬼くらい俺が刻んでやると言いだしそうな顔をしたが、渋々といった風に頷いた。

「たしかに早朝に発って鬼と出くわしたとしたら、結果は同じだな」

 では、予定通り夜明け前に出て鬼が出たら退治しようと言う宋十郎に対し、坊主はいやいやともう一度首を振った。

「宋どの、俺は鬼を祓いたいんですよ。まあ、どうにもできなきゃ退治するしかねえかもしれませんけど、できるだけ殺さずに祓いたいんです。だから、俺一人で先に行かせてください。あんたらは昼前に出て、正午ごろにこの先の舘部たてべで合流しましょう。そうすりゃ、今日中には富多川ふたがわに着けます」

 まだ納得しない様子の宋十郎は、眇めた目を坊主に向けつつ、言う。

「それは、貴殿の師の言い付けと関係があるのだろうな」

「まあ、そうですね」

 雨巳にはあずかり知らぬしどうでもいいことだが、坊主は頷いた。

 宋十郎はまだ食い下がる。

「しかし孔蔵どの、お一人で鬼を倒せるのか。確かに貴殿の退魔法は大したものだが、万が一ということだって、あるだろう」

 すると、坊主はこぶしでどんと胸を叩いた。

「なに、ご迷惑はお掛けしませんよ。もし舘部について俺がいなきゃあ、先へ進んでください。でも、何とかして俺は鬼を祓ってみせますから」

 敵のことを知りもせずにその自信がどこから出てくるのか雨巳には不明だったが、結局宋十郎は折れたようだった。

「……承知した。貴殿にも旅の目的はあるのだろうし、邪魔だてはしない。私は明日雨巳と、遅れて宿を出ることにする」

 そんなことに雨巳は同意した覚えも同意を求められた覚えもないが、勝手なお殿さまである。まあ、お殿さまなので仕方ない。

 そして坊主が人食い鬼を始末すると聞いた女将は、礼と激励を兼ねて、連中の宿賃と風呂代をただにした。さらに怪我人の宋十郎が一番風呂を使ったために湯が汚れてしまったところ、女将は孔蔵のために湯も入れ替えたのだが、そこで坊主が妙なことに、雨巳に先に風呂を使えと言った。

 なんでも女子供と怪我人がいれば、先に風呂や飯を譲ってやれというのが、坊主の師匠の教えなのだそうだ。つくづくおかしな坊主である。彼女には初めて関わる種類の人間だが、正直今なら、嫌いではないと言える。

 そして頂けるものは素直に頂戴し、今に至る。


「まあ、休暇みたいなもんよな」

 來に向かって、雨巳は言った。

「はあ?」

 思い切り眉を寄せて、來は言った。

「敵中の孤軍だろ?」

 そう言われて、雨巳はそうだったと思い出す。籠原も坊主も、遠夜えんやの同輩よりよほど生ぬるいものだから、つい忘れていた。

 雨巳は仕切り直すつもりで、問い返した。

「それよか手前は、こんなところでまだ何してんのよ」

 両手を握って水鉄砲を作り、來に向かって湯を発射した。忍は当然避ける。

「俺は、十馬を追ってきたんだよ。何がどうなってんのかわかんねえけど、お前がしくじったのもぼんやり見てたからな」

「ん? 誰のせいでしくじったと思ってんのよ」

 雨巳はもう一度水鉄砲を発射する。來は避ける。

「う、るせえ。だから、追っかけてきたんだよ。あの黒鬼、お館さまが欲しいって言うのもわかったぜ。で、思ったんだ。鬼の殻になってる十馬を殺して、中身の鬼だけ抜けねえかって。比良目が欲しいってのも、そのためじゃねえのかよ」

 三発目を放ってから、雨巳は少し考えた。

 なるほど、來の発想は的を射ている。しかし、來は重要なことを、一つ知らない。

 迷う。

 これを、來に言うべきだろうか。

 結局、雨巳は言わなかった。代わりに、この餓鬼が今知るべきことを伝える。

「それよか、來。日暮れ前にな、半鐘はんしょうが来た」

 当然、來の両目は見開かれた。

「なんだと? 半鐘が? 何しに?」

 雨巳は、両手を湯の中に沈めた。

「知らね。なんでも、主上が御術みわざってやつを完成させたらしいのよ。最近望部ぼうぶ他所よそから呼んだ法師を招いてこそこそ何かやってたっしょ。多分それじゃねえのかな」

「随分前からだろ? 少なくとも、俺が来る前からだ」

 それは雨巳にとっては最近であるのだが、まあどうでもいい。

「でな、その半鐘が、手前のことを探してたのよ」

 來の両目が、ますます大きく見開かれる。

「半鐘が? 俺を? なんでだよ?」

 來は半鐘とは、口をきいたこともないはずだ。当然の反応だろう。

 雨巳はうそぶいた。

「知らね。まあでも、知ってるっしょ、半鐘のこた。探されてんなら、絶対見つかんねえほうがいいわな」

 來の顔が、月のように白くなってゆく。

 その変化を見送りながら、雨巳は言った。

「なあ來、悪いこた言わねえから、手前はあいつに見つかる前に九裡耶に帰んな。なんであんたが十馬に拘んのか知らねえけど、この件あんたにゃ、深入りしてもなんもいいことなさそうよ。それよか手前、追ヶ原おいがはらに戻ったら、」

 そこまで言って、雨巳は次の言葉を寸でのところで、呑み込んだ。

 突然舌を失ったようになった彼女を見て、來が怪訝そうに言う。

「なんだよ」

 雨巳は、ゆっくりと口を閉じると、唇の裏で、舌を噛んだ。

 これを彼女から來へ言うことはできない。しかし、この餓鬼はこれを、知ったほうがいいのかもしれない。知らなければ、自分で選ぶことも、身を守ることもできない。

 思い直した彼女は、再び口を開いた。

「あんた、それほどお慕いしてるお館さまを、いっぺんでも見たことあるかよ」

 怪訝な表情のまま、來は首を振った。

「ねえよ。俺みたいな下っ端が、お目にかかれるわけねえだろ」

 口にしてから認識したように、來は言ってからむっと眉を寄せた。

 雨巳は言う。

「なら、一度見に行ってみな。忍び足のおさらいだと思ってよ。ちょうど半鐘もお側を離れてっから、あんたにゃちょうどいい腕試しっしょ」

 不機嫌そうな顔のまま、來は唇を尖らせた。

「うるせえ、馬鹿にすんな。忍び足さえできるようになりゃ、俺はてめえよりよっぽど格上だ」

 唐突に臍を曲げたらしく、來は言い捨てるなり、跳んで生垣の向こうへ逃げた。

「おい、」

 雨巳があげかけた声だけが、夜の庭に響いた。

「くっそ」

 思わず一人で毒づく。

 困った餓鬼だと思うが、刺激したのは自分かもしれないとも思う。彼女の狙いとは逆効果だった可能性すらある。餓鬼を扱う訓練など、雨巳は今までしてこなかった。

 阿呆の來がこの後何をしにどこへ行くのか、まともな忍の雨巳には想像もつかない。

 深く溜め息を吐きながら、雨巳は鼻の下まで湯に浸かった。

 悩むのは、着物を着てからにしようかと考える。

 そろそろ出なければ、お人好しの坊主に明け渡す前に、たらいの湯がぬるま湯になってしまう。




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