第19話 妖し娘に手を引かれ




「いたぞ!」

「あれだ、あれだ」

 荒々しい声ががやがやと騒ぎ立てる。

 街道の先から近付いてくるのは、武器を携えた浪人の群れだった。

 二十人ほどの連中が、こちらを見て指さしている。

 ろうはきょろきょろと辺りを見回した。彼らの周りに注目すべきものでも落ちているのだろうか。

 しかし岩や松の木くらいしか見当たらず、篭は宋十郎そうじゅうろうを顧みた。

「宋十郎」

 近付いてくる集団を睨んだまま、宋十郎は隣の娘に訊ねた。

太畠うずはたでは、祭か戦でもあるのか」

 娘は、怪訝を装って答える。

「いんや。なんもねえはずだけど」

 その間にも集団は近付いてくる。

 徒歩だった浪人たちが、ばらばらと駆け足になった。獲物を見つけて速度を上げたようにも見える。

 何かに見切りをつけたように、宋十郎が言った。

「離れよう。こちらへ」

 宋十郎は体の向きを変えると、街道から枝分かれしている細い林道へ折れた。

 篭はそれに続く。娘も、自然と彼らを追ってきた。

 宋十郎の足は次第に速くなり、駆け足になった。

 一方で、背後からの声と足音も近付いてくる。

「林へ入ったぞ」

 誰かが言った声を聞き、篭は肩越しに振り返った。

 浪人の集団は、街道を折れて各々林の中へ駆け込んできた。

 彼は走りながら問う。

「ねえ、なんであの人たちこっち来るの」

「わからない」

 宋十郎が答えた。

 娘が言う。

「あんたら、お尋ね者かなんかか」

「違う」

 宋十郎の返答は短い。

 彼らは走る。

 林道が左右に折れても土手を回り込んでも、浪人たちは追ってきた。群れの標的が彼らであることは間違いなくなった。

 徐々に、娘の足が遅れ始めた。

 宋十郎が娘の手首を掴む。

「急げ」

 しかし手を引かれて間もなく、娘は木の根に躓いた。

 腕を掴まれていたので倒れることはなかったが、彼らの足は一度止まった。

 意を決したように、宋十郎は早口で言った。

「篭、この娘と太畠へ向かって走れ。私はあれを足止めして、遅れて太畠へ向かう」

「えっ」

 彼が戸惑っている間に、宋十郎は娘へ視線を移した。

「道はわかるか」

「ああ」

 娘は呼吸の合間に頷いた。

「よし、行け」

 宋十郎は言うと、体の向きを変えて刀を抜いた。

 篭は蒼白になる。

 暫く走るうちに追手の半数は見えなくなっていたが、まだ十人以上が視界の内にいる。

 戸惑う篭を睨むと、宋十郎はもう一度言う。

「私が遅れても孔蔵くぞうどのが来る。行け!」

 強い口調に押されてもなお躊躇っている彼の袖を、娘が引いて駆け出した。

 彼の足も走り始めた。

 肩越しに振り返ると、初めに追い付いた浪人と宋十郎が切り結んだところだった。

 娘に袖を引かれ、彼はやっと前を向いて走った。


 二人で走り始めてすぐに、娘の足が随分早くなったことに篭が気付けば、事態は違ったものになったかもしれない。

 彼らは走った。

 篭は落ち葉の上を駆けながら、鼓のようにやかましく脈打つ自分の心臓を聞いた。

 それは走っているためか、不安のためだろうか。

 深渓みたにを出て以来、彼が宋十郎のそばを離れたのは二度だけだった。そしてその時も、喜代きよが一緒だった。しかし今の彼は、見知らぬ娘と二人きりである。

 彼の前を走る娘の背を見て、違和を感じる。

 それは恐らく彼がこの娘を知らないからだろうと、篭は考えることにした。

 彼は今、一人で太畠まで辿り着かねばならないが、この娘は唯一の手掛かりである。

 暫く走るうちに木々は徐々に濃くなり、足元に積もる落ち葉が厚くなる。平坦だった地面に傾斜が加わった。

 彼らは山へ入ろうとしていた。

「ね、ねえ」

 喉をせり上がってきた不安が、口をついて出た。

「太畠まで、歩いて半刻だって。走ってきたから、もうすぐ着くよね?」

 人間の常識は知らないが、以前から旅人である篭は、距離と時間は測れる。もう彼らは、四半刻近く走っている。

 娘は少し足を緩めて答えた。息一つ、乱れていない。

「んん? いんや、まだまだ。遠回りしてっから、まだ着かないよ。北の山を回って行くから」

 ひとまずその言葉は、篭を説得するには十分だった。

 篭は頷くと、再び進み始めた娘を追った。


 宋十郎は四人目を切り伏せた。

 肩で息をしている。

 四人目まで無事倒すことができたのは、彼に追手が一人ずつ追い付いてきたからである。

 しかしその四人を倒している間に、後続組が追い付いてきた。

 囲まれれば袋の鼠である。

 彼は剣を握ったまま、林道を外れて駆けだした。

 背負っている荷が重い。

 一番重要なものは身に着けている。決断し、紐を解いて笠と荷物を捨てた。

 五人の追手が落ちた荷物に脇目もふらず彼を追ってきたところを見ると、この首にはそれほど高額の報奨金でもかけられているのだろうか。

 走っているうちに、五人の追手の間隔が開く。

 一人が突出してきたのを見て、彼は踵を返し斬りかかった。

 追手は彼より年嵩の、体格が良く、力のありそうな男だった。

 刀を持っており、獣のような鋭い目をしていた。自負を持った人殺しの目である。恐らく暗い仕事や戦場で、何人も殺めてきた手練れだろう。

 男も彼も長駆して、息は乱れている。

 彼が先攻を取った。

 相手の刃が刃を受ける。手応えが重い。

 力押しでは恐らく負ける。

 彼は力を、次の一撃の重さに加えるのではなく、一撃を放つ速度に集中させる。

 跳ね返された刃を大きく下へ運び、無防備に空いている脇腹を斬り上げた。

 しかし速度が足りない。相手の剣が、彼の肩口に振り下ろされていた。

 刹那の差で、先に胴を薙がれた相手が地に倒れる。同時に彼は、肩に燃えるような痛みを感じた。

 着物が温かい血で濡れてゆくのがわかる。

 倒れた男は腹を斬られてなお、体を起こそうとした。

 宋十郎は男の胸に剣を突き立て、抜いた。

 自分の傷を確かめる暇もない。彼は次の追手を振り返った。







 西日は山の端に隠れようとしている。

 木々の下は薄闇に落ちつつある。

 篭の心臓は不安で千切れそうだった。

 彼らは走るのをやめて、山の中を歩いていた。

 既にした質問を繰り返そうかと、篭が迷っていたところ、娘が声を発した。

「お、あったあった」

 前方の木々の間に、傾きかけた猟師小屋が現れた。

 久し振りに娘の声を聞いてほっとしたものの、篭には小屋の意味するところが不明である。彼らは太畠へ向かっているはずだ。

 娘は小屋へ近付いていくと、入り口を覗き込み、それから足を踏み入れた。

 後に続きながら、篭は訊ねた。

「ねえ、太畠は……?」

 薄暗い小屋の中は土間であり、部屋の中央に、囲炉裏を模したような焚火の跡がある。

 その前に腰を下ろしながら、娘は答えた。

「んん、まだよ。今夜はここで一晩明かして、明日の朝に街まで下ろか」

 娘の声音は妙に明るいが、篭はますます不安に駆られた。今夜のうちに太畠までゆくのではなかったのか。

 娘はそんな彼を見上げると、自分の隣の地面を叩いて言った。

「な、あんたも座ったら。疲れたろ?」

 無言で突っ立ったままの彼を見て、娘は首を傾げた。

「腹減った?」

 彼は疲れていた。空腹は不安に呑み込まれたのか、空であるはずの腹が重く、気分が悪い。

 どれほど体が疲れていても、この状態ではとても休む気になれなかった。

 篭は言った。

「あの、おれ、夜のうちに太畠に行かなきゃ。方向を教えてくれたら一人で行くから、どっちか教えて」

 彼は本気だった。

 もし孔蔵や宋十郎が先に太畠に着いたら、心配するに違いない。なぜこんなところまで黙ってついてきてしまったのだろうか。

 彼はいよいよ目の前の娘に対して、不信感を覚え始めた。娘は悪人には見えず、孔蔵のような威圧感もないが、何かが彼を不安にさせる。

「いや、一人で行くってあんた。崖や川もあるし、もう暗いから危ねえよ? 怪我するよか、遅れて着く方がましだろ?」

 娘の説得は合理的に聞こえるが、篭はとにかく二人きりでここにいたくなかった。

 暗闇が濃くなっていることも彼を不安にさせている。

 夜闇は魔物の力を強くすると、宋十郎が言っていた。万が一、彼に憑いているものたちが今現れたら、誰がそれを止めてくれるのだろうか。

「おれ、行くよ」

 首を振り、彼は小屋を出て行こうとした。

「ちょ、待ち」

 素早く立ち上がった娘が、彼の手首を掴む。

 その瞬間、彼は見た。

 異様に白い手が彼の手首を掴んでいる。白い手の持ち主の向こうに、小さな石碑が見える。月光が冴え冴えと注ぐ、夜の森の中だった。

 白い手は氷のように冷たく、彼は慄いて手を振り払った。

 しかし次の瞬間には、目の前で娘が怪訝そうに彼を見つめていた。

 彼は猟師小屋に戻っていた。

 心臓が早鐘を打っている。

 今の状態は危険だ。

 ただそう感じ、彼は小屋から駆け出した。

「ちょい!」

 背後で娘の声がする。しかし小屋の外の人影を見て、彼の足は止まった。

 孔蔵に付き添われて楢濱ならはまへ向かった女が、彼の目の前に立っていた。

 篭の頭の中に恐怖だけでなく混乱が起きる。

「あれ、え?」

 彼が適当な言葉を見つける前に、背後から娘の声が喋った。

「あっちゃ、亥宮いのみや、馬鹿野郎」

 亥宮と呼ばれた美女も、多少の驚きをもって彼を見ていたが、娘を睨むと言葉を返した。

「馬鹿って何よ、あんたこそなんでここにいるの」

 篭が次の動きを決めかねている間に、女二人は彼の肩越しに会話する。

「お二人さん、思ったより足早かったんよ。群れけし掛けんのが太畠のすぐ手前んなって、でも何とか標的確保したわけ。何も失敗しちゃねえっしょ」

 娘は喋りつつ懐から小さな袋を取り出すと、篭の鼻先で、小袋を握り潰した。

 ぱんと小さく弾ける音がして、胡椒のような粉が舞う。

 彼が咳き込む正面で、亥宮が大きく跳び退さった。

「ちょっと、馬鹿はどっちよ、何すんの」

 宙に舞う粉を片手で振り払う亥宮の前で、篭は、途端に眩暈を感じ始めた。

 衝撃もないのに、鈍器で頭を殴られたように目が回る。ふらふらと足踏みした彼を無視するように、娘が喋った。

「あんたにゃほとんど効かねえっしょ。それよか手前もどうしたのよ。随分早い戻りでねえの。坊主は釣ったものと思ってたけど」

 目が回る。意識が遠のく。

 眠りたくない。

 彼は喘いだ。

 籠原の屋敷で、彼は眩暈を感じた時、声を聞いた。あれは十馬とおまの声だった。二度目に眠りかけた時は、喜代が彼の意識をとどめてくれた。

 この眩暈は良くないと彼は感じる。ここで眠ったら、また魔物になってしまうのだろうか。あるいは、白い手が待つ場所へ行ってしまいそうな気もした。

 必死で抗い、崩れそうな体を支えようとして、そばにあるものを掴んだ。

 肩を掴まれた娘が、声をあげた。

「痛って」

 娘に振り払われ、よろめいた彼の体は地面に倒れる。打ち付けた体への衝撃より、頬に触る腐葉土の感触を鮮明に感じた。遠くで近くで、女の喋る声が響く。

「結構頑張るわね。坊ちゃん、さっさと寝ちゃいなさい」

「もう一袋いっとこか」

「やめときなさいよ。この先追ヶ原おいがはらまで運ぶんでしょ? 何度も使ってると馬鹿になっちゃうわよ」

「奴さん、もう馬鹿になってっからね」

「それとこれとは違うでしょ」

 ふと、女二人の声が熄んだ。

 茂みががさがさと揺れる音がして、第三者の足音がその場に加わった。

らい?」

 亥宮の怪訝そうな声が言った。

 篭は鉛のようになった頭をわずかに回して、半ばぼけている視界の隅に、黒装束の男を捉えた。女二人が睨んだ顔は、狗の面をかぶっている。

「こんなところで何してんの」

 亥宮に、男の声が答える。

「仕事に決まってんだろ」

 低く抑えた娘の声が、それを追った。

「來、お前謹慎中じゃねえのか。また馬鹿やらかして、韋駄天いだてん困らせにきたわけか」

 男の愉快を含んだ声が返す。

「あんな老いぼれ知らねえな。俺がお仕えするのは、お館さまだけだ」

 娘が言う。

「だけって、お前また単独行動か? そりゃ仕事じゃなく暴走っつうんよ。馬鹿やめて太畠で物見でもしてきな」

「うるせえ雨巳、ごちゃごちゃ言うなら止めてみろよ。てめえの式蛇じゃ千匹いても無理だろ」

 篭の眼前に男の足が迫る。男は屈むと、二本の腕で彼の上半身を起こし、そのまま肩へ担ぎ上げた。

「ちょっと、まだその子起きてるわよ」

 亥宮の声が言った。

 男が何か言い返したが、世界が回り、篭の耳には届かなかった。

 頭が重い。ぼけた視界は用を成さない。

 しかし篭は、視力ではない別の感覚で、男の影を抜けて走りゆく黒い影を見た。

 突然、篭を担いでいる男の足元が弾けた。

 腐葉土を撒き散らしながら、巨大な黒い腕が天に向かって伸びた。




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