第18話 腹を空かせて





 川縁かわべりと原野の間に小さな集落があり、その藁葺わらぶき屋根の間を抜けて間もなく、大きな河が現れた。

 浅瀬には舟が一艘停まっており、二人の男が休んでいる。

 さわさわと届く水音に惹かれ、篭は砂利の上を水辺へ近付いた。

 それを横目に見た宋十郎が言う。

「少し待て。船頭と話をする」

 舟へ歩み寄ってゆく宋十郎を、しかし孔蔵が引き留める。

「宋どの、宋どの」

「何だ」

 宋十郎につられて、篭も振り返る。

 孔蔵の視線の先には、河原にぽつんと建てられた小さな屋台があった。

 干し魚を売っており、そばに床几が一つだけ置かれている。

 そこに、見目の良い女が腰掛けていた。貧しい庶民の着物を着ているが、華やかさとつややかさのある女である。

 笠の下の表情は、どこか物憂げに川面を見つめている。

 この女は、三人組を罠にかけようとしている忍の片割れ亥宮いのみやであるが、彼らには知る由もない。

「あれ、どうしたんでしょうね」

 孔蔵が言い、宋十郎は短く返す。

「さあ」

 再び舟の方へ歩いてゆく宋十郎はそのままにして、孔蔵は女に近寄り、声を掛ける。

「あの、そこなお方、どうされた」

 亥宮の笠を乗せた頭が上向き、白い面が孔蔵を見上げた。

 篭は、孔蔵が不自然に二回ほど瞬きしたのを見た。

「いえ、こんなところで人待ちでなければ、何かお困りかなと……」

 いつもの半分くらいの声量で、孔蔵は言った。

 女は答える。

「ああ、お坊さま。お察しの通りです。私は兄と共に青根あおねの実家へ向かっておりましたが、昨晩弦ノ島つるのしまで口喧嘩をしたんです。今朝がた目覚めたら、兄が路銀ごと消えておりました」

「なんと」

「それでも病気の父に会いたい思いが募り、ここまで来たのですが、渡し賃がないと渡れないと言われて」

 沈痛な面持ちの女に向かって、孔蔵は同情の籠った眼差しを向けた。

「ご尊父は、ご病気なのですか」

 笠の頭が頷く。

「もう長くないかもしれないと聞き、奉公先でお暇をもらい、鎌倉から下ってきたところでした」

「そりゃいけません」

 意を決したように孔蔵は言うと、大股で、船賃の交渉をしているらしい宋十郎と船頭たちに近付いてゆく。

「おい、汝ら。あの人に、金がなければ舟は渡せぬと言ったのか」

 船頭たちに向けられた孔蔵の声音は、まるで魔物に向かう時のそれである。

「あの女人は、死の床にある父を訪ねようとしておるのだぞ。汝らは暇そうではないか。なぜ渡してやらぬのだ。あの人を渡してやったところで、汝らには何の痛みもあるまい」

 突然でかい坊主に詰め寄られ、二人の船頭は目を白黒させた。

 一人が言う。

「す、すみません、お坊さま。ですけど、気の毒だからってただ乗りさせちゃあ、同じようなことを言ってただ乗りする客が後を絶たなくなります。そうしたら、俺らは商売あがったりですよ」

「あの人が、嘘をついているという証拠でもあるのか」

 仁王像のような顔に睨まれ、船頭たちは口を噤んだ。

 そこに、宋十郎が割って入る。

「孔蔵どの、しかし、この者たちが言うことにも道理があるように思う。逆も然り、嘘でない証拠も示せない。貴殿がその人を気の毒と思うなら、渡し賃を払ってやってはいかがだろうか。財布に余裕があるならの話だが」

 次に宋十郎は船頭たちの方へ顔を向けると、「四人になるので、一人銭三枚でも、悪い話ではないと思うが」と付け足した。

 船頭たちは孔蔵と宋十郎を見比べ、顔を見合わせた。

「そういうことなら……」


 平底の舟に四人の客を乗せると、船頭たちは器用に竿を操って、水の上を進み始めた。

 篭は、揺れる船のへりへ近付いて水面を覗き込む。

 時折、細かな飛沫が顔を撫でた。

「川は青いのに、水は透明だね。なんでかな?」

 そう言って、彼の向かいに座る宋十郎を振り返った。

「あまり身を乗り出さないように。舟が傾ぐ。悪いと転覆する。お前は泳げるのか」

 河の流れは遠目には穏やかに見えて、近付くと案外と速く、力強い。

 もちろん彼は泳いだことはない。警告に従い、縁から離れた。

 背後で女の話す声がした。

「孔蔵さま、本当に助かりました。ありがとうございます」

 若い僧侶は太い首の裏を掻きながら、白い歯を見せてはにかんだ。

「いや、お父上を訪ねられるのでしょう。人の子なら、誰でも放っておけませんよ」

「そう仰るなら、この時世に人の子の少ないことを、嘆かねばなりませんね」

 白い面が淡い笑みを浮かべ、愁いを灯した瞳が細められた。

 孔蔵はその光景に惹き付けられたように大きな目を開き、口を引き結ぶ。

 宋十郎が言った。

「しかし、青根までお一人で行かれるのか。太畠より西は瑞城たまき領との国境だろう。瑞城は夏納かのうとの戦に敗れてから暫く、荒れていると聞いた。青根も、盗賊が跋扈していると」

 女の面が、今度は宋十郎の方を向いた。

「ご心配、痛み入ります。大丈夫です、この先の楢濱ならはまに叔父一家が住んでおります。今日はそこへ立ち寄って、路銀もそこで借りようと思います。従兄に頼めば、供をしてくれるかもしれません」

 頷いた宋十郎に続いて、女が思い出したように言った。

「そうです。よろしければ、今晩は叔父の家でお休みください。粗末な漁師の家ですけれど、美味しい魚をご馳走します」

 ぼんやりと話を聞いていた篭の意識が、美味い魚と聞いてそちらに逸れた。いつものように、彼は腹が減ってきている。

「魚って、食べたことない」

 彼の顔を見、女は赤い唇を綻ばせた。

「ぜひ、お立ち寄りください。お礼をさせてほしいんです」

 しかし、宋十郎が首を振った。

「いや、お申し出はありがたいが、私たちは先を急いでいる。鎌倉でも余分に一泊したばかりだ」

 すると孔蔵が言う。

「ですが、お一人では危ないでしょう。俺が、叔父上の家までお送りしますよ。宋どの、要は今夜中に太畠へ追い付けばいいって話でしょう」

 最後の一言は、宋十郎へ向けられていた。

 宋十郎は答える。

「もちろん構わないが、孔蔵どの、太畠は広い街だ。あとから着いて、私たちを見つけられるのか」

 孔蔵は得意そうに胸を叩く。

「心配いりませんよ。知り合いが旅籠にいるって言ったでしょう。そいつに聞けば、近所の宿やお客の入りもわかります。早く着ければさけ……」

 そこまで言いかけ、孔蔵は目を女の方へ泳がせた。

 黒髪の美人は何でもなさそうに、微笑を坊主に向けている。

 咳払いをすると、孔蔵は言葉を締め括った。

「先に、飯でも食っててください。まあ、とにかくご心配は無用です」







 四人で河を渡り、船頭たちに渡し賃を支払う。

 まっすぐ太畠へ向かう篭と宋十郎は、楢濱へ向かう女と孔蔵と別れた。

 笠を被った頭で会釈しながら、女と孔蔵が遠ざかってゆく。

 二人へ手を振ったあと、篭は、既に歩き始めていた宋十郎を追った。

「宋十郎、何か食べ物ない?」

 追い付くなりそう言った彼を、宋十郎が振り返った。

「餓鬼は落としたと、藍叡らんえい和尚が仰っていたが」

「餓鬼?」

「いつも腹を空かせている、小鬼のことだ。現世では人に憑いて、飢餓感をもたらすそうだ」

 篭にはぴんとこない。彼は首を振った。

「知らないけど、腹減ったよ」

「つまり、お前の空腹の原因は餓鬼ではなかったということか」

「うん……団子とかない?」

「すまないが、今日は適当な屋台に出くわさなかった。この先で見つかればいいが、なければ太畠まで待つしかない」

 それを聞いて、篭は気が遠くなる思いがした。先ほど魚の話を聞いたせいか、恐ろしく腹が減っている。

 彼の表情を見て、宋十郎が言った。

「お前も孔蔵どのについて、楢濱へ寄ればよかったか」

 篭は首を傾げた。

「宋十郎は?」

「私は太畠に行く」

 黙り込んだ篭を見て、宋十郎が言った。

「……お前は、孔蔵どのが苦手だろう」

 素直に、篭は頷いた。宋十郎は続ける。

「出会い方が良くなかった。やはり、お前はあの御仁には触れられないのか」

 もう一度、篭は頷いた。

「時々、影がゆらゆらしてて、そういう時は触ったら危ない気がする。大丈夫かもしれないけど、そうじゃなかったら嫌だし」

「それは、厄介だな」

 それ以上宋十郎は何も言わず、篭は黙ってその隣を歩いた。

 日が中天を過ぎている。

 彼の腹が、ぐうと音を立てた。


 日は西に傾き始めている。

 街道の左手に続く海岸を、篭は眺めた。

 泳げたら、泳いでいったほうが早いだろうか。

 そんな想像をしながら歩いていると、どこからか、声を聞いたような気がした。

 街道の右手は林であり、その奥からがさがさと草を踏む音が近付いてくる。

 隣の宋十郎を見ると、剣の柄に手を置いていた。

 足音が駆けてくる。

 木々の向こうから走ってきたのは、町民風の着物を着た娘だった。

 その後には、刃物を持った貧しい身なりの男女が一組。

「盗賊だ」

 篭が口にすると、娘は二人に気付いたように、進む方向を彼らの方へ変えた。

「こっち来る」

 篭が慌てたのも束の間、娘を追っていた男女は彼らの姿を認めてか、追うのをやめて林の奥へ引き返していった。

 娘が駆け寄ってくる。

「助けてくだされ」

 ばたばたと走ってきた娘に取りつかれ、篭は体を固くする。

 宋十郎が、刀の上に置いた手はそのままに言う。

「追手は去ったようだが」

 娘は、はっと顔を上げると背後を振り返り、木々の奥へ消えてゆく後姿を見遣った。

「おっ、ほんとだ」

 ところで篭が違和感を感じているこの娘は、孔蔵を楢濱へ誘導していった亥宮の相棒、雨巳である。

 しかし人間を見分けるのが得意でない彼は、二回ほど見かけたことのある娘を目の前にしても、それを思い出すことができなかった。ただ、何かひっかかりを感じているだけである。

「こんな場所で、お一人か」

 宋十郎に訊ねられ、娘は掴んでいた篭の袖を放すと、居住まいを正した。

「あ、えっとな、この奥にお宮さんがあるのよ。そこへお参りしてたらば、さっきの物盗りどもが出てきよってな。まだ日が高いからって、不用心だったわ」

 はしばみ色の目を動かす娘は、一歩離れると、改めて彼らを眺め回した。

「いや、失礼。でも助かったわな。あんたらは、今から太畠か?」

「そうだ。そちらも同じとお見受けするが」

「ああ。半刻くらいで、関所があらぁな。あんたら余所者らしいけど、案内してやろうか?まあ、一本道だけども」

 そう言って、娘は歯を見せて笑った。

 二人が話している間、篭は娘に対して感じている違和感の正体を突き止めようとしていたが、どうにも上手くいかない。

「道案内は不要だ。が、同じ道ならば共に行くに不便はないと思うが……今しがた、追剥に遭ったばかりだろう」

「ご一緒してくれるんかいね。親切な旦那さま。んじゃ、よろしく」

 宋十郎は頷くと、歩き始めた。

 娘と篭も、それに従って歩き始めた。

 ふと思い立って、篭は娘に訊ねる。

「お宮さんに、何をお祈りしたの?」

 寺社に詣でる人の多くは願いごとをしに行くのだと、先日渡喜に聞いたのだった。

 娘は答える。

「ああ、お祈りな。兄貴よ。兄貴が戦に出て帰ってこねえもんで、早く戻りますようにって。ちいと遠いけど、ご利益のある神様だって有名なもんで」

「太畠の関所は、そう簡単に町民が出入りできるものなのか」

 歩きながら、宋十郎が訊ねた。

「んん? ああ、武具やら何やら持ってなきゃ、特に出る奴は、あっさり出してくれるよ。叢生さまは優秀な忍を飼ってっから、間者が出入りすりゃお見通しだろ。町のもんも今のご当主を慕ってるから、怪しい奴が入ってくりゃあ進んでお城へ突き出すしね」

「お前……そなたは太畠の者か」

「ま、そうね。あんたら出稼ぎかなんかか?」

 総髪に括袴くくりばかまを履いている宋十郎は、武装した庶民に見えないこともないが、篭の風体は、先ほどの追剥と変わらない。体格も貧相な上に、頭と手に包帯を巻いているのも、恐らく貧しい印象を強めている。

 迷う様子なく、宋十郎は頷いた。

「北で家を失ったので、行き先も定めずここまで流れてきた。職があり戦のない場所を探しているが、そういう場所はあまりない」

「まあ、そりゃ見つからねえわなあ。そんなんあったら、うちの親父も知りてえだろうね。まあでもたぶん太畠は、他所と比べて良いところよ?」

 娘が笑ったところで、篭はまた妙な音を聞いた。

 静かな海辺の風景にそぐわない、騒音がさざめいている。

 気付くと、宋十郎も顔を上げていた。

 街道の正面から、人の群れが歩いて来るのである。

 人数にして、二十人から三十人というところだろうか。遠目であるし、群れはかたまっているので数は判然としない。

「ねえ、宋十郎」

 胸騒ぎのようなものを感じて、彼は宋十郎を見た。

「何かな、あれ」

 剣士は眉間に薄く皺を寄せ、西日の中、前方を睨んだ。

「わからない。何だ」

 二人の間を歩いている雨巳だけが涼しい顔をしているが、二人はそれにも気付いていない。




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