第4話 思い出せない
「いな……」
彼が鸚鵡返しに呟いたのは、
近付くなと言われていたのに。
「
顔に疑問符を浮かべた
「伊奈」
現れたのは宋十郎だった。背後に老齢の侍を従えている。
「ここには近付かぬようにと言っただろう」
低く抑えた声で宋十郎が言った。伊奈は夫を見つめ返す。
「義兄上が戻られたのに挨拶もするなと仰るのですか。私は当主の妻です。何が起きているのか知っておく義務があります。貴方がお出掛けの間、この家を守るのはわたくしの務めになります」
「危ないから近付くなと」
「そうでもなさそうだということを、今確かめました」
「今は、そうだ。しかしじきに日が暮れる。兄上の世話は
夫婦の視線が交差する。
伊奈はやっと頷くと、侍女を連れ、篭の脇をすり抜けていった。
しかし、廊下を折れようというところで振り返った。
「義兄上はお腹が空いてらっしゃるようです。
どうやら言葉は夫でなく老侍へ向けられていたようである。去ってゆく彼女に向って、豊松らしい老侍が頭を下げた。
妻と侍女の姿が見えなくなると、宋十郎は溜め息交じりに言った。
「兄上、ここにいる豊松が、寝巻と膳を用意してくれます。私はまだ所用があるので外しますが、就寝前までには伺います。どうかお一人で屋敷の中をうろついたりされませんように」
まだ口の中に虫の翅の感触を感じていた篭は、黙って頷いた。
*
篭が案内された部屋は、先ほどの居間と比べれば随分小さく、他の部屋からも離れているようだった。
豊松が膳を運んできて、湯呑みに茶を注いでくれた。
空腹の篭は目前の食べ物に飛びつきたかったが、箸が目にとまった。
箸を掴み上げるが、使い方がわからない。彼は戸口付近に座っている豊松を振り返った。
老人が訊ねた。
「どうされましたか、若さま」
「これ、どうやって使うの……」
小さな目を瞬きさせ、老人は彼の方へ近付いてきた。
「私のことだけでなく、箸の使い方もお忘れになってしまったのですか」
非難する調子はなく、驚きと、微かな温かみのある声だった。
「ええ、うん。……ごめんね、あんたのこと、思い出せなくて」
「いえ、かまいませぬとも。私は嬉しゅうございます。やっとお戻りになった若さまが、こんなにお元気そうで。少し、お手を拝借してもよろしいでしょうか」
彼が差し出した両手のうち、豊松は右手を取ると、その指の形を整え始めた。
「もうずっと昔を思い出します。若さまは左利きでしたから、お箸をお教えするのには少しだけ時間がかかりました」
「豊松が、教えてくれたの?」
「そうですとも、乳母を手伝って、帯のとめ方も書写の手習いもお教えしましたよ。大丈夫です、忘れてしまったら、また習い直せばよいのですから」
そして豊松は彼の右手に箸を持たせ、指の動かし方を教えた。
何度か失敗を繰り返したが、彼は徐々に箸で米を掴めるようになった。
のろのろと食事する篭を、豊松は気長に待ってくれた。
彼はすぐに、この老侍が好きになった。
食事が終わると、豊松は膳を持って出てゆき、寝巻を持って戻ってきた。
豊松は布団を敷いた上で、篭に着物の着方を教えてくれた。
帯の巻き方を習っているうちに日が落ちたが、着替えた後も、彼らは床の上に座って話した。
「明日は乗馬と剣をお教えするように、殿から仰せつかっております」
「との?」
やっとかけるようになった胡坐をかきながら、篭は訊ねた。
「宋十郎さまのことですよ。若さまがお眠りの間に、家督を継がれましたから」
「そうだ、そうだった。今日ここへ来る時、盗賊にあったんだ。それで、剣を習えって」
なんと、と豊松は声をあげた。
「それは危のうございましたな。戦続きで、このところ
「宋十郎が剣で追い払ってくれたよ」
すると豊松は一度黙り込み、篭の手元あたりに視線を落とした。
「……若さまは、宋十郎さまよりよほど大した剣の使い手でございましたよ。座学も得意で、
訥々と語る豊松の声には、密かだが、重みと温度があった。
篭は、すぐに言葉を返すことができなかった。
彼は
その強く賢い十馬の体を持っているのかもしれないが、彼は馬からまともに降りることもできず、経書が何なのかもよくわからない。
ただ彼は、十馬を呼び戻すことならできるかもしれない。京の術者を訪ねて鬼を祓えば、十馬の魂は現れるのではないか。
きっとそれは茂十が望んでいたことだろうし、豊松が望んでいることでもある。
篭は手を伸ばすと、豊松の膝の上にあった、節の浮いたこぶしを握った。
「豊松、心配させて、あんたのことを思い出せなくて、ごめんね。でもおれ、頑張って病を治すよ。そしたらきっと、色々思い出すと思う」
彼が微笑んで見せると、老侍は皺のある顔に更に皺を寄せて、笑顔を作った。
「本当に、昔の若さまに戻られたようです」
不思議と篭は嬉しかった。豊松の笑顔を見て、今ここにいてよかったと、初めて思えたのである。
「もうすぐ、宋十郎と京へ行くんだ。そこにお医者? がいるんだって」
それを聞いた老侍の顔から、笑顔がするりと失せた。
「京、でございますか」
「うん、そうだよ」
何か変なことを言っただろうか。篭は首を傾げた。
豊松はもう一度訊ねた。
「殿が仰ったのですか」
「うん」
「左様でございますか」
それを最後に、豊松は口を閉ざした。そしてゆっくりと立ち上がる。
「若さま、そろそろ私はお暇いたします。本当によく、お戻りになられました」
豊松は深々と頭を下げると、会釈をして、部屋を出て行った。
「豊松、おやすみ」
よく茂十がかけてくれた言葉を、篭は口にした。
豊松が閉めた障子戸を見つめながら、篭は考えていた。
京へ行くと聞いた時、豊松の笑顔が消えたのはなぜだろう。
老侍は十馬の帰りを喜んでいたから、また遠くへ旅すると聞いて、がっかりしたのだろうか。しかし京へは十日程度の道のりだと、宋十郎は言った。それほど長く留守にするわけではない。
ふとその時、障子戸に投げかけられていた彼自身の影が、ゆらりと揺らめいた。
思考を中断され、篭は枕元に置かれた
静寂。
突然、すっと背筋が寒くなるのを感じた。
腕から頬から、全身の毛が逆立つ。昨夜寺で感じたものと同じだった。
障子窓の方から視線を感じる。
油に灯された明かりが、ぽ、と音を立て、
『よう』
と、声が言ったのを聞いた。
全身が凍り付いた。
しかし頭の中のどこか冷静な部分が、この正体を確かめろと言っている。
これが鬼だろうか。
彼は錆びついた螺子を回すように、ゆっくりと首を回した。
障子窓が見えて、その向こうを大きな影が横切るのを見た。
くすくすと笑う声が、影のあとを追うように遠ざかっていった。
胡坐をかいて窓を睨んだまま、どのくらい硬直していただろうか。
廊下の向こうから足音が近付いてくるのを聞いて、彼は我に返った。
ふっと全身の力が抜ける。
障子戸が開き、昼間と同じ格好の宋十郎が現れた。
「遅くなってすまない」
部屋に入るなりそう言った宋十郎は、畳の上で固まっている篭を見て、訊ねた。
「また何か見たのか」
ぎこちない動作で、篭は振り返った。
「うん」
「ちょうどその話をしようと思っていた」
宋十郎は障子戸を閉めて彼の隣に腰を下ろすと、懐から手紙を取り出し、それを広げ始めた。
「これは伯父上――茂十どのが京の術者から受け取ったものだ」
まだ硬い首を伸ばして、篭は書面を見た。
「何、これ」
「読めないのか」
篭は頷いた。宋十郎は書面を捲った。
「ここには、十馬には無数の魔物が憑いていると書いている。恐らくもとは一つか二つだったものが、病が進むとともに、他のものまで招き寄せるようになったと。十馬はそれらのものを見て聞くことができたが、逆に見えて聞けてしまうせいで、それらのものを引き寄せるそうだ。まずは目と耳を塞ぐようにと、ここには書かれている」
「でも、目も耳も塞いだら歩けないし、旅もできないよ?」
「実際に目や耳を塞ぐ必要はない。無視できるならそれで充分だ。十馬はそれをできなかったから、鬼になりかけていた」
さっきの声を無視できないと、自分も化物になってしまうのか。篭は黙り込んだ。
「夜は魔物とつながりやすくなる。何か見聞きしても、反応するな。明後日かその翌日には出発する。訪ねる先はこの手紙の差出人だ」
そう言って宋十郎は、篭には曲線の集合にしか見えない文字を示した。
「
「この紙がないとじゅつしゃ、に会えない?」
宋十郎は頷いた。
「明日は朝から豊松と、乗馬と剣の稽古をしてもらう。他の者にはお前に近付かぬよう言いつけてある」
家の人々から避けられるのは寂しいとも思ったが、仕方ないのだろう。
「わかった」
彼が頷くと、宋十郎は早々に立ち上がった。篭はそれを見上げる。
「もう行っちゃうの?」
「そうだが」
「一人だと、また何か見そうで嫌だ」
宋十郎の白い額に、眉が寄せられる。
「お前は燕だったが、子供ではなかっただろう」
「そうだけど……」
鳥だった頃はあんな体験をしたことも、夜闇を怖いと思ったこともなかった。
「無視しろと手紙にはあった」
そう言い捨てると、無情にも宋十郎は踵を返し、部屋を出て行った。
*
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