第4話 思い出せない




「いな……」

 彼が鸚鵡返しに呟いたのは、宋十郎そうじゅうろうの妻の名前だ。

 近付くなと言われていたのに。ろうは項垂れた。

義兄あにうえ?」

 顔に疑問符を浮かべた伊奈いなが歩み寄ってきたところで、大股で足音が近付いてきた。

「伊奈」

 現れたのは宋十郎だった。背後に老齢の侍を従えている。

「ここには近付かぬようにと言っただろう」

 低く抑えた声で宋十郎が言った。伊奈は夫を見つめ返す。

「義兄上が戻られたのに挨拶もするなと仰るのですか。私は当主の妻です。何が起きているのか知っておく義務があります。貴方がお出掛けの間、この家を守るのはわたくしの務めになります」

「危ないから近付くなと」

「そうでもなさそうだということを、今確かめました」

「今は、そうだ。しかしじきに日が暮れる。兄上の世話は豊松とよまつがする。部屋に戻ってくれまいか」

 夫婦の視線が交差する。

 伊奈はやっと頷くと、侍女を連れ、篭の脇をすり抜けていった。

 しかし、廊下を折れようというところで振り返った。

「義兄上はお腹が空いてらっしゃるようです。夕餉ゆうげをお出ししてください」

 どうやら言葉は夫でなく老侍へ向けられていたようである。去ってゆく彼女に向って、豊松らしい老侍が頭を下げた。

 妻と侍女の姿が見えなくなると、宋十郎は溜め息交じりに言った。

「兄上、ここにいる豊松が、寝巻と膳を用意してくれます。私はまだ所用があるので外しますが、就寝前までには伺います。どうかお一人で屋敷の中をうろついたりされませんように」

 まだ口の中に虫の翅の感触を感じていた篭は、黙って頷いた。







 篭が案内された部屋は、先ほどの居間と比べれば随分小さく、他の部屋からも離れているようだった。

 豊松が膳を運んできて、湯呑みに茶を注いでくれた。

 空腹の篭は目前の食べ物に飛びつきたかったが、箸が目にとまった。

 箸を掴み上げるが、使い方がわからない。彼は戸口付近に座っている豊松を振り返った。

 老人が訊ねた。

「どうされましたか、若さま」

「これ、どうやって使うの……」

 小さな目を瞬きさせ、老人は彼の方へ近付いてきた。

「私のことだけでなく、箸の使い方もお忘れになってしまったのですか」

 非難する調子はなく、驚きと、微かな温かみのある声だった。

「ええ、うん。……ごめんね、あんたのこと、思い出せなくて」

「いえ、かまいませぬとも。私は嬉しゅうございます。やっとお戻りになった若さまが、こんなにお元気そうで。少し、お手を拝借してもよろしいでしょうか」

 彼が差し出した両手のうち、豊松は右手を取ると、その指の形を整え始めた。

「もうずっと昔を思い出します。若さまは左利きでしたから、お箸をお教えするのには少しだけ時間がかかりました」

「豊松が、教えてくれたの?」

「そうですとも、乳母を手伝って、帯のとめ方も書写の手習いもお教えしましたよ。大丈夫です、忘れてしまったら、また習い直せばよいのですから」

 そして豊松は彼の右手に箸を持たせ、指の動かし方を教えた。

 何度か失敗を繰り返したが、彼は徐々に箸で米を掴めるようになった。

 のろのろと食事する篭を、豊松は気長に待ってくれた。

 彼はすぐに、この老侍が好きになった。


 食事が終わると、豊松は膳を持って出てゆき、寝巻を持って戻ってきた。

 豊松は布団を敷いた上で、篭に着物の着方を教えてくれた。

 帯の巻き方を習っているうちに日が落ちたが、着替えた後も、彼らは床の上に座って話した。

「明日は乗馬と剣をお教えするように、殿から仰せつかっております」

「との?」

 やっとかけるようになった胡坐をかきながら、篭は訊ねた。

「宋十郎さまのことですよ。若さまがお眠りの間に、家督を継がれましたから」

「そうだ、そうだった。今日ここへ来る時、盗賊にあったんだ。それで、剣を習えって」

 なんと、と豊松は声をあげた。

「それは危のうございましたな。戦続きで、このところ孤児みなしごや盗賊が増えております」

「宋十郎が剣で追い払ってくれたよ」

 すると豊松は一度黙り込み、篭の手元あたりに視線を落とした。

「……若さまは、宋十郎さまよりよほど大した剣の使い手でございましたよ。座学も得意で、経書けいしょの類は自ら学ばれて、そらんじておられました。私は、若さまがやがて籠原家を守ってゆくにとどまらず、大きくしてくださると期待しておりました」

 訥々と語る豊松の声には、密かだが、重みと温度があった。

 篭は、すぐに言葉を返すことができなかった。

 彼は十馬とおまではない。

 その強く賢い十馬の体を持っているのかもしれないが、彼は馬からまともに降りることもできず、経書が何なのかもよくわからない。

 ただ彼は、十馬を呼び戻すことならできるかもしれない。京の術者を訪ねて鬼を祓えば、十馬の魂は現れるのではないか。

 きっとそれは茂十が望んでいたことだろうし、豊松が望んでいることでもある。

 篭は手を伸ばすと、豊松の膝の上にあった、節の浮いたこぶしを握った。

「豊松、心配させて、あんたのことを思い出せなくて、ごめんね。でもおれ、頑張って病を治すよ。そしたらきっと、色々思い出すと思う」

 彼が微笑んで見せると、老侍は皺のある顔に更に皺を寄せて、笑顔を作った。

「本当に、昔の若さまに戻られたようです」

 不思議と篭は嬉しかった。豊松の笑顔を見て、今ここにいてよかったと、初めて思えたのである。

「もうすぐ、宋十郎と京へ行くんだ。そこにお医者? がいるんだって」

 それを聞いた老侍の顔から、笑顔がするりと失せた。

「京、でございますか」

「うん、そうだよ」

 何か変なことを言っただろうか。篭は首を傾げた。

 豊松はもう一度訊ねた。

「殿が仰ったのですか」

「うん」

「左様でございますか」

 それを最後に、豊松は口を閉ざした。そしてゆっくりと立ち上がる。

「若さま、そろそろ私はお暇いたします。本当によく、お戻りになられました」

 豊松は深々と頭を下げると、会釈をして、部屋を出て行った。

「豊松、おやすみ」

 よく茂十がかけてくれた言葉を、篭は口にした。


 豊松が閉めた障子戸を見つめながら、篭は考えていた。

 京へ行くと聞いた時、豊松の笑顔が消えたのはなぜだろう。

 老侍は十馬の帰りを喜んでいたから、また遠くへ旅すると聞いて、がっかりしたのだろうか。しかし京へは十日程度の道のりだと、宋十郎は言った。それほど長く留守にするわけではない。

 ふとその時、障子戸に投げかけられていた彼自身の影が、ゆらりと揺らめいた。

 思考を中断され、篭は枕元に置かれた行灯あんどんを振り返る。

 静寂。

 突然、すっと背筋が寒くなるのを感じた。

 腕から頬から、全身の毛が逆立つ。昨夜寺で感じたものと同じだった。

 障子窓の方から視線を感じる。

 油に灯された明かりが、ぽ、と音を立て、

『よう』

 と、声が言ったのを聞いた。

 全身が凍り付いた。

 しかし頭の中のどこか冷静な部分が、この正体を確かめろと言っている。

 これが鬼だろうか。

 彼は錆びついた螺子を回すように、ゆっくりと首を回した。

 障子窓が見えて、その向こうを大きな影が横切るのを見た。

 くすくすと笑う声が、影のあとを追うように遠ざかっていった。


 胡坐をかいて窓を睨んだまま、どのくらい硬直していただろうか。

 廊下の向こうから足音が近付いてくるのを聞いて、彼は我に返った。

 ふっと全身の力が抜ける。

 障子戸が開き、昼間と同じ格好の宋十郎が現れた。

「遅くなってすまない」

 部屋に入るなりそう言った宋十郎は、畳の上で固まっている篭を見て、訊ねた。

「また何か見たのか」

 ぎこちない動作で、篭は振り返った。

「うん」

「ちょうどその話をしようと思っていた」

 宋十郎は障子戸を閉めて彼の隣に腰を下ろすと、懐から手紙を取り出し、それを広げ始めた。

「これは伯父上――茂十どのが京の術者から受け取ったものだ」

 まだ硬い首を伸ばして、篭は書面を見た。

「何、これ」

「読めないのか」

 篭は頷いた。宋十郎は書面を捲った。

「ここには、十馬には無数の魔物が憑いていると書いている。恐らくもとは一つか二つだったものが、病が進むとともに、他のものまで招き寄せるようになったと。十馬はそれらのものを見て聞くことができたが、逆に見えて聞けてしまうせいで、それらのものを引き寄せるそうだ。まずは目と耳を塞ぐようにと、ここには書かれている」

「でも、目も耳も塞いだら歩けないし、旅もできないよ?」

「実際に目や耳を塞ぐ必要はない。無視できるならそれで充分だ。十馬はそれをできなかったから、鬼になりかけていた」

 さっきの声を無視できないと、自分も化物になってしまうのか。篭は黙り込んだ。

「夜は魔物とつながりやすくなる。何か見聞きしても、反応するな。明後日かその翌日には出発する。訪ねる先はこの手紙の差出人だ」

 そう言って宋十郎は、篭には曲線の集合にしか見えない文字を示した。

静韻寺せいおんじ袈沙けしゃ和上わじょうという術者だ。まずは京へ行って、寺の場所を訊ねて回る。和上は訪問者に会わぬそうだから、この手紙が通行証になる」

「この紙がないとじゅつしゃ、に会えない?」

 宋十郎は頷いた。

「明日は朝から豊松と、乗馬と剣の稽古をしてもらう。他の者にはお前に近付かぬよう言いつけてある」

 家の人々から避けられるのは寂しいとも思ったが、仕方ないのだろう。

「わかった」

 彼が頷くと、宋十郎は早々に立ち上がった。篭はそれを見上げる。

「もう行っちゃうの?」

「そうだが」

「一人だと、また何か見そうで嫌だ」

 宋十郎の白い額に、眉が寄せられる。

「お前は燕だったが、子供ではなかっただろう」

「そうだけど……」

 鳥だった頃はあんな体験をしたことも、夜闇を怖いと思ったこともなかった。

「無視しろと手紙にはあった」

 そう言い捨てると、無情にも宋十郎は踵を返し、部屋を出て行った。




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