第1話 地を這う者となる




 目が覚めた。

 同時に目を開いていた。

 昼の明るさの中に、木板を張った簡素な天井が見えた。彼も知っている茂十しげとみの部屋の天井だった。


 ろうは体を起こそうとして、全身で違和を感じた。手足の曲がり方も胴の感じ方も何もかもが違う。首が重く肩が遠い。彼の頭は枕に乗っていて、体は布団をかぶっていた。彼は人間になっていた。

 恐怖に近い緊張が、全身を駆け巡った。

 慣れない体を操ろうとして彼はもがき、苦労して布団から這い出た。寝巻の袖から覗く腕も足も包帯に覆われていた。彼は茂十の息子だった。

 そういえば、茂十の姿が見えない。奥の部屋への襖は開け放たれているが、部屋は無人だった。よく見ると、彼の竹籠もない。

 彼は必死で、しかしのろのろと、閉じられている障子戸へ這っていった。

 障子戸の開け方は知っている。しかし彼は腕を思うように操れず、腰をどうしたら座らせられるかもわからなかった。不器用な指は震えるばかりで、戸のさんを掴むこともできない。

 焦りを感じた篭は、鳥のようにさえずろうとして噎せた。以前と同じことはできないと悟った彼は、とにかく発せる音を発した。

「あああああああ」

 声は出たが、戸は開かない。上手く座れない彼は、立ち上がろうと試みた。

 腕と肩を戸に凭せ掛けながら脚に力をこめる。膝が震えたが、少し腰が持ち上がった。しかしそこで、大人の人間の体重に耐えかねた障子戸が外れ、彼は障子戸ごと縁側の外へ転がり落ちた。


 彼の声と騒音を聞きつけて駆けてきた小坊主は、包帯の男が障子戸と一緒に地面に転がっているのを見て、泡を食った様子だった。

 小坊主は和尚を呼んできたが、それは茂十ではなく、その和尚は篭を助けて寝室へ戻した。

 篭は、茂十はどこかと彼らに聞きたかったが、言葉はわかってももつれる舌では上手く質問を口にできなかった。明らかに彼は挙動不審だったが、病人が長いこと寝たきりだったせいか、坊主たちはそれに疑問を抱いてはいないように見えた。

 茂十ではない和尚は彼を布団へ入れると、もうじき日が暮れるので眠るようにと言った。明日には宋十郎そうじゅうろうが来るという。

 彼が壊した障子戸は、すぐに取り換えられた。







 茂十がどこへ行ったのかはわからないままだ。

 篭は枕に乗せた頭を少し傾けて、闇の中に沈んだ部屋の壁を眺めた。

 鼻から息を吸って、口から吐いた。肘を曲げて腕を上げ、顔の前まで持ってきた。

 眠れない彼は、こうして少しずつ体を動かす訓練をしていた。時はの刻かうしの刻か、よくわからない。辺りは静まり返っている。

 しかしその静寂の闇の中に、彼は声を聞いた。

『おい』

 と、誰かが言った気がしたのである。

 彼は首を回したが、誰もいる様子はない。

 しかし彼はまた声を聞いた。

『おい』

 何か、奇妙な笑いを含んだ声だった。

 彼は、布団に入ったままの体に冷や水を浴びたように感じた。

「あれあぃ…」

 誰かいるのか、と言おうとして、未完成の音が彼の口から漏れた。

 くすくすと男が笑う声がした。

 部屋の中は全くの闇なのに、そこに何かがいるのである。

 震えあがった彼は、布団を蹴飛ばして這い出した。何か光が欲しかった。

 彼は体当たりするように障子戸に掴みかかり、今度はそれを壊さずに何とか開いた。

 勢い余ってまた縁側の外へ転がり落ちたが、そんなことに彼は構わなかった。それよりも縁側の下の闇の中に、ぼんやりとにじむ白い手と、白い歯が笑う口が浮かんでいるのを、彼は見た。

 今度こそ彼は、全身の毛が逆立つのを感じた。

 包帯の脚で立ち上がると、彼は自分でも知らないうちに駆け出していた。幸い庭には白い月光が降り注いでいる。

 僧房の裏を駆け抜け寺の境内を出て左右もわからないうちに走っていると、林の中に池があった。

 肩で息をしながら池に映る月を見て、彼はやっと人心地がついた。先ほどまで絡みつくようにあった悪寒はいつの間にか去っている。

 彼はひどく喉が渇いていることに気付き、速度を落として、よろめきながら池へ歩み寄った。

 膝を折って背を曲げ、水を飲もうとして水面を覗き込んだ。

 大きな月を背負い、包帯に覆われた人間が、彼を見つめ返していた。

 篭は不器用に震える手で、頭を覆っている包帯を無造作に掴んで引っ張った。

 動作は無茶苦茶で包帯は絡まったが、やがて黒い髪が現れ、皮膚が現れた。

 いつの間にか水面には、若い人間の男が映っていた。

 癖の強い黒い髪に縁取られた顔には傷や痕一つなく、皮膚は健康そのものに見えた。ただ、黒い右目に対して、左の瞳が闇の中でもわかるほど、月光を吸ったような金色に瞬いていた。

 それでもこの顔に見覚えがあるような気がするのは、面差しがどことなく茂十に似ているせいだろうか。

 そこで、彼は唐突に安心に近いような感覚を覚え、同時に酷い疲れを感じた。

 それは眩暈めまいのようで、彼はそのまま池の端に突っ伏すと、草の上で目を閉じて眠り込んでしまった。







 目が覚めた。

 彼は林の中、枯葉の積もった池のほとりに寝転がっていた。

 既に日が高い。たつの刻は過ぎていそうだ。

 喉がからからに乾いており、彼はよろめきながら顔を池の中に突っ込んで、不格好に水を飲んだ。

 せながら顔を上げた時、彼は人の声を聞いた。誰かを呼んでいるようだ。自分のことかもしれないと、篭は思いついた。

「おーーーーーい」

 聞こえる声の真似をして、彼も声を上げてみた。呼び声が一度止み、それから近付いてきた。

 彼がぼんやりと突っ立っているうちに、木々の向こうに、坊主と若い武士が現れた。武士は宋十郎だった。

 坊主が彼の姿を見るなり、驚いた様子で声をあげた。

十馬とおまさま!」

 坊主と宋十郎は駆け足になった。

 茂十以外の人間に話しかけられるのは初めてだった。

 近付いてきた彼らに、篭は微笑みかけた。ただし、言葉は出てこなかった。こういう場面で人間は何と言うのだったか。

 歩み寄ってきた宋十郎の顔が強張っていた。坊主は武士と病人を見比べて、何故か黙ってしまった。自分が寺を抜け出したせいだろうかと、篭は思う。

 若い武士の声が、妙な沈黙を破った。

「まずは戻りましょう、兄上」







 彼らは寺へ戻ると、篭を風呂に入れて着替えさせた。もちろん包帯は全て取り去られた。

 包帯の下から現れた皮膚には一つの傷も病の痕も見つからない。

 篭は湯舟の水面に映った顔をもう一度見て、目が両方とも黒いことに気付いた。昨夜見たものは、夢か何かだったのだろうか。

 不思議なことばかり続いている。


 小袖こそではかまを着せられて髪を結われ、篭は茂十の寝室へ案内された。

 部屋に入るなり、床の上に座っていた宋十郎と目が合った。

 宋十郎が篭を連れてきた坊主に礼を言うと、坊主は障子戸を閉めて立ち去った。

 また、妙な沈黙があった。

 どうすべきか迷い、篭は立ったまま、青年に微笑みかけた。

 無表情とも取れる顔つきのまま、宋十郎は真剣そのものの声で言った。

「兄上、座られてはいかがですか」

 ぎくりとした篭は、黙って頷くと、少しふらつきながら腰を下ろした。ただし上手く胡坐をかけず、片足を伸ばしたままの格好になった。

 宋十郎はそれを横目で見ながら、話し始めた。

「昨日目覚めたと聞きました。なぜ、林へ行かれたのですか」

 それは、篭自身にもよくわからなかった。

 突然人間になっていた上に不気味なものを見聞きして錯乱したからだろうか。

 それよりも、この十馬というらしい人間の魂はどこへ行ってしまったのか、茂十はどこへ消えたのか、宋十郎がなぜ彼を兄上と呼ぶのか、彼には色々なことがわからない。

「ぃ、え、…しえ、しげおみ、しげとみは…?」

 それは、彼が懸命に発した音の連なりだった。宋十郎の涼やかな瞳が、何か驚きのようなものを現した。宋十郎は言った。

「伯父上のことを仰っているのですか」

 篭は頷いた。

「伯父上は十日前に亡くなりました」

 今度は篭が驚愕する番だった。その間にも、宋十郎の言葉は続く。

「伯父上は春から燕を飼い始め、随分可愛がっていたのですが、その燕が死んでしまってから、持病が急に悪くなりました。あっという間に床につかれて、亡くなったのが十日前です」

 どうやら篭はふくろうけいに会った夜から、かなり長い間眠っていたらしい。その間に茂十は、悲嘆のうちに死んでしまった。

 胸の内で何かが砕けるような悲しみを、彼は感じた。

 彼はうつむいた。

 瞼が熱くなり、目尻から涙がこぼれた。涙が鼻先を伝って、床の上に落ちた。

「……せっかく、良くなったのに……」

 十馬というらしい茂十の息子の体は、今こんなにも健康だ。篭は痛みのひとつも感じていない。しかしその十馬の魂は、どこにもその姿を現さない。今その体に棲んでいるのは彼の魂だ。

 滂沱ぼうだと涙する彼を、宋十郎は怪訝けげんというより、もはや異質なものを見る目で見つめていた。

 そして青年は、ふと言った。

「お前は、何者だ?」

 篭が顔を上げると、そこには彼を睨んでいる青年の白面があった。




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