月の啼く聲

真田

深渓

プロローグ 天より墜ちて




 ろうは人間になる前、海を渡る鳥だった。

 彼は冬を南国で過ごして、春が近づくと北国へ飛んだ。

 春になり戻ってきた彼は、はやぶさに襲われてひどい怪我をした。


 そのとき彼は眼下に侍の治める小さな町を見ながら、春の宿を探してのんびり空を滑っていた。

 ふと羽音を聞いた時にはもう黒い影が翳り、すぐそばに隼が迫っていた。

 彼はくるくると回転して隼を撒こうとしたが、執拗な狩人はどこまでも追ってきた。

 やがて隼が追いつき、鉤爪で彼を掴もうとした。

 彼は高度を落として掴まれるのを避けたが、鉤爪は彼の体を裂いた。

 衝撃で体が回転する。

 もがきながら、彼は落ちていった。




 老齢の和尚が、庭を箒で掃いていた。

 ふとその時、少し離れたところにあるくすのきの枝が、がさりと音を立てた。

 和尚は背筋をぴんと正すと、楠へ向かって歩いて行った。

 楠の根本にはつばめが落ちていた。ひどい怪我をしている。

 老いた和尚はわずかな逡巡のあと、ゆっくりと膝を折り、大切そうに鳥の体を両手に掬い上げた。







 篭は、しばらくの時間を寺で過ごした。

 和尚は篭の傷を手当てして、竹籠で彼の寝床を作り、食べ物や水を与えてくれた。

 彼の傷は深く、飛ぶことができなかったから、和尚が助けてくれなかったら、篭は死んでいただろう。

 名前を茂十しげとみというその和尚は、少し痩せていたが、筋肉質で力強い体をしていた。細い皺がいくつも刻まれた顔はひどく穏やかで、時に悲しそうに見えるとすら、篭は思った。

 そして茂十のいおりには篭の他にもひとり怪我人、いや病人がいた。

 篭の竹籠は茂十の寝室にあったが、隣の部屋には包帯だらけの男が眠っていた。

 茂十が襖を開くたびにその男が見えたが、全身包帯に覆われている男はいつも清潔な布団の中に横たわっており、篭は男が食事するのはおろか、目覚めていることすら見たことがなかった。

 また庵には、食事を運ぶ坊主たちが度々訪れるが、それらは和尚のものばかりである。

 包帯の男は、まるで死体か置物のようだった。







 初めのうちは人間を警戒していた篭だったが、茂十が優しい手つきで世話をしてくれるうちに、彼は少しずつ、和尚に気を許すようになっていった。

 その日は梅雨空が久し振りに晴れ、茂十は篭を手の平に乗せて、縁側で日を浴びていた。

 茂十は年をとっているせいか、時々独り言を呟く。

紫陽花あじさいがきれいだなあ」

 縁側から望める庭には、見事な紫陽花がいくつも咲き誇っていた。

「しかし、梅雨は苦手だ。雨が多いと、日が少なくなる」

 それには篭も同意見だった。雨は翼を濡らして重くする。

 そこで茂十はやんわりと、手のひらの上の篭を、袈裟を着た膝の上に降ろした。篭はまだ飛べないものの、小さな足で歩くことならできるようになっていた。

「お前の羽はなかなか良くならんなあ」

 老人の静かな声が言う。

『寒くなる前に治るといいな』

 篭の返事は、老人には鳥の囀りにしか聞こえないはずだが、茂十は眼を細めて言った。

「なに、梅雨が明ける頃には良くなろうよ」

 その時、庭の先から砂利を踏む音が近づいてきた。堂の向こうから現れたのは、若い青年だった。

 青年は折り目の正しい袴を丁寧に着込んで立派な太刀を差し、色白の端正な顔に涼しげな瞳を乗せている。篭は、この青年のことは何度か見たことがあった。

「伯父上、今日は晴れましたので諸々持参いたしました」

 青年が声を掛けると、僧侶の伯父は顔を上げ、微笑を作った。

「おお、宋十郎そうじゅうろう。いつもすまないな」

 宋十郎と呼ばれた青年はちらりと小鳥に目を遣りながら、片手に提げていた風呂敷包みを縁側へ置いた。

「それの傷は随分良くなったようですね」

「ああ」

 膝の上の鳥を見下ろしながら、茂十は頷いた。

 今度は青年の目が、座敷の奥へ向いた。

 宋十郎は、単調な声で言う。

「そろそろ、時期ですね」

 茂十は顔を上げることなく、ただ黙って、頭を上下させた。

 それを見届けた宋十郎は礼儀正しく頭を下げると、早々に踵を返した。

 砂を踏む足音が遠ざかっていった。


 庭に静寂が戻っても和尚が黙したままでいるので、しばらく篭は袈裟の上でじっとしていたが、やがて茂十の膝の上から飛び降りた。

 羽を上手く使えないので転がり落ちる格好になったが、彼はそれにも構わずに、畳の上をちょんちょんと進み始めた。

「おい、おい」

 転がった燕に気付いた和尚が、我に返って腕を伸ばす。

 しかし、燕の視線の先にあるものに気付いたように、老人も顔を上げた。

 開け放たれた襖の向こうに、布団の中の男が横たわっている。

 篭は、包帯の男を見つめた。

『……あの人は、なんで起きないの?』

 小鳥のさえずりを理解できたとでもいうのだろうか、和尚が、またいつものように呟いた。

「あれはな、儂の息子だよ。……不治の病だ。もう、長くはもたない」

 そして、和尚は静かに息を呑むと、膝を引きずりながら、その眠る息子に向かって近付いていった。

 老人は固く骨ばった手で、包帯に覆われて髪の色すら伺えない頭を撫でた。

 篭は、その手が小さく震えているのに気付いた。

「哀れな子だ」

 いつの間にか老人は、手だけでなく唇を震わせていた。

 皺に縁取られた両目には、涙はなかった。

 もしかしたら老人は、涙を流すには乾きすぎてしまったのかもしれない。

 篭が近づいていくと、茂十は、両手で燕を優しく掬い上げた。

 そこで老人は彼を胸の前に抱えたまま、呟いた。

「すまない……」







 その晩、篭は竹籠の中で思い悩んでいた。

 彼には、茂十の悲しみが辛かった。彼は、優しい和尚のことが、とても好きになっていた。何とかして和尚を助けてやれないものかと考えていた。

 しかし彼は小さな鳥で、未だに飛ぶことすらできない。和尚の死にゆく息子を救ってやることなど、到底できないだろう。

 するとその時、細い金切り声のようなものを、どこか遠くで聞いたような気がした。

 彼が首を回すと、いつの間にか、寝室と外を隔てる障子戸が少しだけ開いていた。

 人のこぶし一つほどの隙間から月光が流れ込み、月を背にして一匹の梟が覗いているのを、篭は見た。

『やあ』

 梟が言った。黒と白の斑点の毛皮が、月光の中で輝いてみえた。

『あんた、誰』

 突然の闖入者に驚いた篭は、身を固くして言った。布団の中の茂十は変わらず眠っている。

『私はけい鳥居守とりいのかみのお遣いで厄魂やえみのたまを拾いに来たんだ』

 どこか愉快そうに梟は言い、篭は瞬きした。

『厄魂って?』

『病気にかかった魂のことだよ。君のいる部屋の奥に寝たきりの人がいるでしょう』

『えっ』

 生物が死ぬと器から魂が出てゆくのだと、篭はどこかで聞いて知っていた。つまり、茂十の息子は今にも死のうとしているのだ。

『やめて』

 咄嗟に、篭は言っていた。梟は頭を斜めに傾げた。

『どうして?』

『奥で寝てる人は、恩人の息子なんだ。死んだら茂十が悲しむ』

『でも、あの人はもう死にかけてるんだよ。私が拾わなくてもあの人は死ぬし、厄魂は正しく片付けないと面倒なことになる場合もあるんだ』

『そんな、どうにかして、治せないの』

 篭は必死になった。茂十の息子を助ける方法を考えていたのに、その息子がむざむざ殺されてしまうのを見過ごすことなどできない。

 薊はさらに頭を傾げ、ううんと唸った。

『どうだろう……体に別の魂を入れたら、あの体は死なずに済むけれど…』

『別の魂って?』

『別の魂だよ。死にかけてるやつじゃなきゃ、何でもいいよ』

『燕のでも?』

 それを聞いて、梟は燕を見下ろした。

『……君の魂を、あの人に入れるの?』

 その時になってやっと、篭は自分の言葉の意味に気付いた。

 彼は恐る恐る、薊に尋ねた。

『入れたら、あの人は助かるんだよね? そしたら、おれは死ぬ?』

 梟は悩ましげに頭を傾げ、少し間を置いて、答えた。

『方法は、二つあるんだ。一つ目は、あの人の厄魂を抜いて、空いた体に君の魂を入れる。その場合、あの人の魂は現世を去るけど、体は君のものとして生き続ける。二つ目は、あの人の厄魂と一緒に、君の魂を入れる。その場合、二つの魂が一つの体に同居することになる。その先のことは、ちょっと私じゃわからない。私はただのお遣いだもの』

 二つの方法を聞いた篭は驚いたが、少なくとも希望を感じた。彼は考えながら言った。

『でも一つ目の方法だと、元の魂は体を離れちゃうんだよね?』

『うん。でも二つ目の方法だと、君は無事じゃすまないかもしれないよ。二つの魂を一つの体に入れると、ほとんどの場合、どっちかが相手を追い出したりするんだ。でなきゃ、病気の魂が、君の魂を蝕むかも』

 恐らく魂が追い出されたりすれば、それは現世での死を意味するのだろう。しかし篭にとっては現世での死よりも、茂十の悲しみのほうが、よほど大きく辛いことに思えた。

『別にいいよ。ねえ薊、おれの魂をあの人に入れてくれる? あの人を助けたいんだ』

 今度は梟が驚いたように、大きな目を瞬きさせる。

『君、変わってるね。人間を助けたいなんて。でも、面白いね』

『お願い』

 梟は大きな頭を、うんうんと頷かせた。

『いいよ。いや、いつもは駄目なんだけどね。今日は鳥居守が、お願いごとをされたら一つだけ叶えてもいいって言ってたんだ。君は運がいいね』

『ありがとう』

 篭は言った。もし彼の魂が、今は厄魂とやらしか入っていない体に入ったら、息子の病気も治るかもしれない。茂十はきっと喜ぶだろう。

 すると、梟は月光を遮るように、白っぽい大きな翼を広げた。

『それじゃあ、君の願いを叶えて君の魂をあの人の体に入れるよ。何が起こるかわからない。君はもう二度と、目覚めないかもしれない』

 小さな恐怖のようなものを胸の内に感じたが、篭はそれを振り払うように首を振り、あえて微笑んだ。

『大丈夫。薊、ありがとう。あんたに会えてよかった』

 梟の翼に視界を覆われると、彼の意識は眠りに落ちるように闇に溶けていった。




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