第7話 体育祭 1/3
「じゃあ、百メートル走に出る人――?」
教室では学級委員と思しきメガネの女子生徒が教壇に立つ。委員なのか委員長なのか分からないが、その見た目の学級委員レベルはまさに学級委員長クラスである。つまり、その女子は紛うことなき我がクラスの学級委員長だと目され、その証拠にもう一人の男の学級委員は、教壇の端で所在なさげにチョークを弄んでいる。
委員長の問い掛けに対し、その他の生徒は黙りで応える。
学校の一大イベントである体育祭。体育祭と言えば学校行事の代名詞なのだが、生徒には大して人気がない。
中学校や小学校の運動会のように予行もなく、練習もなく、ただ六月の体育祭に備え、こうしてクラスの中の誰が何の競技に出るかをただ決めるだけ。だから、生徒には今一当事者意識もなく、やる気もない。こういうのは前の学校でも同じだった。
「男子女子三人ずつクラスから選抜しないといけないので、誰か出ませんか?」
面倒な役回りを押し付けられている委員長は沈黙に怯むことなく、健気に進行を続ける。
空気の読み合いの末、一人の男子生徒が「お前やれよ」なんて言ったのを皮切りに教室は喧騒に飲まれ、和気藹々とした押し付け合いが始まる。表面では皆んな楽しそうに騒いでいるように見えるが、やっていることは押し付け合いと探り合いで、その雰囲気はとても居心地が良いとは思えない。
「――淀淵さん、どうですか?百メートルの選手しませんか?」
教室は騒がしいだけで議題は一向に進展しない。だからとうとう委員長が淀淵を指名した。
淀淵は女子生徒の中では身体が大きい。男子と女子とは体育の授業が別だから、俺は淀淵の運動神経については知らないが、きっと運動も出来るのだろう。第一に声が掛かったのがその証拠である。
委員長は女であるから、クラスで最も百メートル走が速い人を選ぶなら、それは当然女子の誰がになるだろう。彼女は男子の誰が速いかを知らないし、異性の生徒に指名をするのはそれなり勇気がいるだろう。だから、選手決めの足掛かりとして淀淵を指名するのはかなり手堅いところだと思う。
異性ではないからといって淀淵に指名するのは、この教室の勢力図的にかなり難易度が高いと思われるのだが、委員長もよくやる。
俺は教室の人柱となる委員長への最大限の敬意として頬杖を突くのを止め、背筋を伸ばし彼女の勇気の行く末を静観することにした。
それまで無駄に煩かった教室だが、委員長の鶴の一声によって、クラス全員が淀淵を見て、彼女に期待を寄せる。とても常人に断れるような雰囲気ではない。
「嫌」
しかし、淀淵はきっぱりと、そして簡潔に拒否した。
「でも、淀淵さんは私たちのクラスの女子で、一番に速いですよね」
委員長が命知らずにも怯むことなく詰め寄る。
「……アタシ、二人三脚って決めてるから」
二人三脚。男子と女子がペアになって走る障害物競走。
体育祭は、委員の提示する必要人数を見る限り、全部でクラスから二十四人を選出しなければいけない。つまりは一人一競技の参加で、中には選抜競技に出場しない生徒も出てくる。クラスの共通認識として、そういう参加出来なくて可哀想なヤツ、もしくは参加せずにサボろうとするヤツを出さない為にも、一人につき一競技というのが暗黙の了解である。
その他にも、生徒全員参加の競技があるから選出されなかったからと言って、参加種目がゼロになるということはない。
だから、淀淵が別競技への参加意欲を示すことは百メートル走を逃れる為に効果的だった。
しかし、そうなれば違う問題も出て来る。
参加競技が男女ペアの二人三脚であるからだ。
女子が淀淵なら、男子は誰がするんだ?当然、教室はそんな疑問でざわつき出す。
淀淵との二人三脚。美人で豊満な淀淵と、足を結んでの共同作業。ラッキースケベもありそうである。普段は畏れ多い存在の淀淵でも、彼女自身が二人三脚に出ると言うなら、男子にとってこれ以上の棚ぼたはない。
「あー、俺も百メートル出たくないし二人三脚にでも出ようかなぁ」
なんて男子生徒も言い出した。
俺は焦った。まごまごした。
俺は内心もう淀淵の彼氏面をしている。他の男子に取られるくらいなら、告白の返事を今したって良い。そのくらいの独占欲がある。しかし、依然問題は山積みだ。彼女と二人三脚なんて出来る自信がない。
初デートのあの日から、俺は体調を崩し、昨日やっと調子が出て来たところなのだ。それなのに、また――。
俺は俺の初キスを思い出す。
誰と?それは分からない。相手は何処の馬の骨とも知れない幽霊である。馬のアンデッドである。
「二人三脚、他に誰もいないなら、女子は淀淵さんに決めるけど」
居るわけない。男子がこれだけ浮き足立っているのに、今更淀淵と二人三脚出場の権利を争うほど空気の読めないヤツなんか。
「じゃあ、二人三脚は淀淵さんで」
「おーけい……。で、淀淵ってどういう字?」
やっと仕事が回って来た男子クラス委員。しかし、満足にそれも果たせず、バツが悪そうに委員長に助けを求める。確かに淀淵という苗字は珍しい。いや、それは俺も同じなのだが。ただ、淀淵の苗字なのだから委員長の訊くのは少々筋違いだろう。俺にもそうしたい気持ちは分かるし、あの聖人君子、閨英闈秀な委員長なら淀淵の名前を漢字も含め完璧理解しているだろうが。
その様子に見兼ねた淀淵が出場表に署名するため、さっさと席を立つ。
ずかずかと机の間を抜けて教卓の前へ立ち、出場者にサインする。
「――ペアの男子は観空くんだから。もう、書いてもいいでしょ?」
「え?」
「もう、書いたから」
「観空?」、「それって……アイツか?」。そんなふうに一躍教室の変人として認知されている俺の元へ教室中の皿のような視線が集まる。
機械的に、淡白に「書いたから、よろしくね」なんて言って振り返る淀淵。
なんでだ。どういう繋がりだ。そんなクラスメートの詮索が厳しい目となって俺を囲む。
――どうしようか。変な汗が止まらない。
***
――ピンポーン。
丁度俺の帰宅後から暫くして、インターホンが鳴った。家には俺一人だけ。
――ピンポーン。
「はい」
「観空……、総磨くん居ますか?」
玄関のモニターを点けると、俺の家へやって来たのは制服姿の淀淵だった。
「何?」
俺は玄関扉を開ける。
「練習しようよ、体育祭の」
「今から?」
「いつなら良いの?」
「いや、いつとかじゃなくて。体育祭の時でも良いんじゃないか?」
「でも、二人三脚が息ピッタリじゃないと出来ないでしょ?」
「別に、出来なくても」
「アタシ、ちゃんと勝ちたいからさ。やろうよ」
淀淵は教室では見ることがない、柔和な笑みを浮かべている。
「……分かった」
俺は玄関框を降りて、渋々スニーカーを履いた。
きちんと、断れるようにならないと。
教室の時もそうだったが、淀淵に振り回されてばかっりだ、俺。俺はそんなチョロい男じゃなか――。
――アレ。ん?おかしい。
「お前、何で俺んち知ってんの?」
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