第6話 四月七日
アタシの家の隣で売りに出されていた分譲住宅に漸く買い手が見つかった。今まで不在だった隣の家に、人が越して来るとなると多少なり不安もあるけれど、同じく期待もあった。
――隣に越して来る家族にはアタシと同じ歳の男の子が居て、その子はアタシと同じ高校に編入するらしい。
ママが何でそんなことを知っているかは分からないけれど、それを知っているのが世のママだし、「お隣さん、日和とおんなじ歳の男の子がいるって」とお節介にもアタシに教えて来るのがアタシのママだ。
ママは「かっこいい子だと良いねぇ」なんて冗談を言って、のんびりと新聞を読むお父さんを刺激して、朝食時の安穏な空気を台無しにする。
「日和。お前彼氏いるのか?」
「は?なんでお父さんにそんなこと教えなきゃいけないの?」
「なんで?ってパパなんだから、教えてくれてもいいだろう」
アタシのお父さんはいつまでもアタシがまだまだ小さくて、お父さんをパパと呼んでいた、あの純真だった頃に囚われている。仲が悪いわけではないけど、良いわけでもなく、特別仲が良くない上に世代も趣味も何から何まで違う。だからパパからお父さんに変わっても仕方がないし、もしアタシに子供が出来た時には、さらに呼び方をおじいちゃんに改めていることだろう。
――彼氏。
アタシには彼氏が出来たことがない。男の子を好きなったこと自体は小学生の頃あったのだけれど、それが恋愛ストーリーで見るような正しい恋心だったかは分からない。
アタシだってもう高校生なのだから、出来ることなら彼氏を作りたいと思っている。ただ作り方は分からない。まず、友達の作り方から教えて欲しいくらいに多分、アタシは人付き合いが下手である。
今までの人生で友達という存在に困ったことはなかった。でも、それはアタシが作ったアタシの友達なのではなくて、アタシが誰かの友達なのみたいに、別にアタシから人と仲良くする為に努力したわけではなかった。
「おはよ」
「おはよう、淀淵さん」
生徒昇降口に張り出されたクラス表を見て、やって来たアタシの新しいクラスには見知った顔があった。
「この子は――」
春休みが明けて、新しいクラスになってもアタシの立ち位置は変わらない。前のクラスからアタシのことを知っている子が、アタシとアタシの知らない娘たちとの間を掛け持ってくれる。
それは良いことなんだけど、きっとそれでは今までと同じ。アタシは何処へ行っても同じ扱いだ。
クラスには当たり前に知っている子も知らない子も居る。知らないと言っても、見たことあるような、ないような。そのぐらいに曖昧な子も居るけれど、そんな中で明らかに知らない男子が居た。
――あんなヤツいたっけ?
休み時間には机で突っ伏して、いつも寝ているなとは思っていたけれど、その顔まではまじまじと見たことがなかった。ちょっと目付きが悪くて、いつも大体変に癖のついた寝癖髪。ヘアセットしたみたいに見えなくもないが、きちんとセットが行き届いていないし、机に伏せたり起きたりするたびに髪型が変わって見える。
彼は教室の誰も寄せ付けず、本を読むか寝ているかしていた。背が高くて上から目線で睨み付けるように人を見るので、女子から怖がられていた。特にアタシを見る時なんかはゴミを見るみたいな疎ましそうな目をする。
ボッチで密やかに生きているというより、我が物顔で、自分は飽くまで教室のその他大勢とは違うみたいな不遜な顔をしている。何より、アタシに気を使うでもなく、色目を使うでもなく、あからさまに嫌な顔をする。そんな人は今までいなかった。
――だからか、アタシは彼のことが気になり始めた。今思えば、あの時からアタシは恋をしていたのかも知れない。
***
褒められたことではないのは分かっていた。倫理的と言うより、法律的にも間違っていることは分かっていたけれど、それでもやるしかないと思った。
放課後、アタシは観空総磨くんの後を尾行していた。
理由はその日、彼が帰るのを見かけたから。特に考えもせず、直感的にそうした。
四月の雨が降る中で、アタシは傘を差して歩いていた。
前を歩く彼は自転車を煩わしそうに押しながら傘を差し、不器用なのか自分の自転車のペダルに足が引っ掛かって転びそうになったり、傘が倒れて雨に濡れたりしている。
許されるなら、アタシが隣に行って傘を差し、彼を雨から守ってやりたいけれど、いきなりそんなことをするのは迷惑だろうか。
例えば、次に総磨くんが傘を落としそうになった時、アタシが颯爽と駆け寄って行って、「さっきから見てたけど、大変そうだね」なんて笑い掛けて、そうすれば彼と接点を持つ機会が出来て、仲良くなって行く行くは――。
付き合って、手を繋いで、キスして、セックスして。結婚まで?なんて。
アタシは彼と甘い時を過ごす想像をした。
雨が降って、冬の寒さがぶり返したみたいに冷えた身体が、彼のことを考えるだけでジーンと暖かくなる。
そうしていたら、折角傘を差しているのも意味なくなった。それでも雨に濡れはしないのだけれど。でも、家に帰ったら下着は履き替えなくちゃいけないかな。
「あれ?」
アタシが楽しく妄想を繰り広げる内に、総磨くんの姿が無くなっていた。
――どうしよう。
総磨くんの引っ越し先を特定するつもりで来たのに。見失っちゃった。
――どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
もう、一生会えないかも知れない。転入先の高校を調べるのにもあれだけ苦労したのに。もう、会えない?そんな。そんなのダメだ。
――見つけなきゃ。見つけなきゃ。見つけなきゃ。見つけなきゃ。
アタシは傘を握りしめたまま走り出した。
どこ曲がったんだろう。こっちかな。居ない。じゃあ、こっち?
そうやって曲がり角がある度にウロウロして。
――いた!
自転車を押しながら傘を差す人影。距離はもう随分と遠い。
「待って、総磨くん!」
アタシはその時夢中だった。傘には段々と強くなった大粒の雨が当たっている。水溜りから跳ねた雨水で靴も、靴下もぐっしょり濡れて、冷たくなっている。
――バラバラバラ。
アタシは飛び出した。耳に届いていたのは傘を打つ雨音だけ。見ていたのは彼の後ろ姿だけ。
アタシが車のブレーキ音に気付いた時には、もうトラックはそこにあって、戻ることも、彼の元へ行くことも出来なかった。
アタシには目を瞑ることくらいしか出来なかった。目を閉じて思ったのは彼のこと。
もう会えないのかな?
アタシが最後に見たのはアスファルトに広がる血と、桃色の斑点。その日は丁度、雨風で桜の花弁が散っていた。
――バラバラ。
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