第3話 驚くなかれ

 驚くなかれ。俺の家――引っ越し先の新築住宅は淀淵家の隣だった。だから、淀淵日和とはお隣さんの関係だ。入学して一ヶ月、俺は全く気付くことがなかったし、一度も淀淵の姿を見掛けたことがなかった。


 彼女を成り行きで家まで送り届けた後。玄関のひさしから俺を見送る淀淵が見えなくなるまで、俺は余計に近所を歩き回ってから帰った。


***


 翌日は梅雨の晴れ間というやつだった。空を占める青と白の配分は五分五分といったところだが、雲間を突く久方ぶりの朝日は寝ぼけ眼には厳しい。それに、この温く湿っぽい空気は喉から肺から張り付いて呼吸が辛い。


「――おはよぉ」


 自転車をガレージから家の前へ出している俺に近所の人が挨拶をした。玄関を出た時には俺以外の人は居なかったから、多分俺に挨拶をしているんだろう。声色から相手はおばさんである。


「……」


 けれど俺はそれを無視した。顔を見はしたが返事はしなかった。

 そんな態度をとれば、最近の子は挨拶も出来ないのかい、と越して来たばかりで侵入者みたいな立場の俺は井戸端会議の議題となって、ご近所でそれはそれは酷い風評が立つだろう。しかし、それはあくまでおばさんが生きていた場合である。

 俺にも多少なりご近所関係を良好にしようという意識はあり、挨拶された時に極々自然におばさんの方を向いてしまった。


「ぉはヨォォオおお」


 死んでも朝には近所の人へ挨拶をする。そんな生前の礼儀と元気さを手放さない姿勢には感服するが、モノクロ写真みたいに真っ黒な姿と、頭が上下反転しているのは頂けない。本来なら目を伏せ地面を見る様な角度の目がこちらを見ている。

 俺はおばさんへ向けた視線をそのまま横に流し、最終的には淀淵家を一瞥し溜め息を吐いた。


 ――冷静に、冷静に。


 驚いてはいけない。気付いたことにはバレてはないはずだ。落ち着け。

 そうだ、何か別のことを考えよう。

 俺は昨日の、淀淵の雨で冷たくなった体温と透けていた下着を思い出す。彼女は紛れもない美少女であるのに、ここまで心躍らないのは何故だろうか。幽霊の所為なのか、梅雨の所為なのか、俺の所為なのか。多分朝の所為だろう。昨晩はいつにも増して元気だった。

 ――ということは俺の所為なのか?


「ううう、あああ……さいきんのこわぁ」


 おばさんの幽霊はそう言い残し、何処かへトボトボと歩いていった。結局、おばさんは俺の思った通りの人――この場合は元人間だったわけだが、『最近の子』と言うように自分の過去を引き合いに出しては常に最近と比べて、そんなことにずっと捉われているから幽霊になんてなるんじゃないか、と俺は思った。


 ――全く最近の年寄りは。多様性というのを知らない。どんな子だって良いだろ。うるさいな。いいから、さっさと成仏しろ。


 何とかおばさんの幽霊をやり過ごした俺は不機嫌に自転車へ跨り、ペダルに強く足を置いた。

 予報ではまた夕方から雨が降る。それでも、今朝は徒歩で通学する気にはなれず、俺は自転車を走らせた。どんよりとした空気ではなく、流れる風を感じたかった、というのもある。しかし本当は、淀淵と面と向かうのが気不味くて、少し後ろめたくて登校の時間をずらしたかっただけだ。




 休み時間。トイレを出た俺に声が掛かる。


「ねぇ」


 地味な転校生。それも転入していた事実を隠蔽し、教室では誰も寄せ付けずに一人読書することと気配を消すことに励んでいたのだから、俺に「ねぇ」なんて気安く声を掛ける人物は一人しかいない。


「何だよ」


 ――淀淵日和である。


「昨日の御礼したいんだけど」


「御礼?いいよ、別に――」


 俺の家、お前の隣だったし。これで淀淵の家まで送ったのだったらまだしも、俺は自分の家に帰ったまでである。それに、確かに幽霊には悩まされたが得られたもの――つまり、見られたものがあった。

 カーストの頂点に座す、クールで美人の淀淵の下着を見た男子なんて俺を置いて他に居ないだろう。


「ダメ。もう用意したから」

「――ハイ、御礼」


 彼女が手を後ろで組み、俺から隠していたのはいちごオレだった。


「アタシ、これ好きなの」


 いちごオレ。ピンクと白の可愛らしい小さな紙パックからはめらめらと黒いオーラが立ち昇っている。


「い、いいよ」


 受け取れない。だって俺にはそれが見えるんだから。そんな禍々しいいちごオレを受け取ることなんて出来ないだろ。


「早く、いいから貰ってよ」


 淀淵は口調が冷たく、高圧的になっている。貰わないわけにはいかないのだろうか。何か方法は――。例えば、俺が牛乳アレルギーとか。


「――ハイ」


 逡巡する俺を他所に、淀淵は俺の手を取ってそこへ無理矢理いちごオレを握らせた。

 ひやりと冷たいいちごオレ。自動販売機でよく冷えているというわけではない。それは悪寒の話であって、紙パック自体は少し温いくらいである。

 いちごオレに纏った黒色はドライアイスから昇華する二酸化炭素の冷気みたいにぬるりと俺の指の隙間、水掻きのところを抜け、ポタリと床に落ちた。


「あ、ありがと」


 ――ピチョンピチョン。


 それから俺は「話あるんだけど」と切り出した淀淵に従って、階段の一画まで来ていた。自動販売機の並ぶ階段脇のちょっとした休憩所には人気ひとけがない。トイレの前とか、教室前の廊下とか、友達のいるやつらは場所と時間さえあれば何処でも屯したがるが、流石に淀淵という先客が居ると手出しは出来ない。


「飲まないの?」


「コレを?」


 俺は思わず訊いてしまった。


「他に何かある?」


 確かに。淀淵の目から見れば今の遣り取りはおかしかっただろう。


「わ、分かったよ」


 俺は周りが黒くドロドロになったいちごオレのストローを取って、それを差込口へ出来るだけ浅く刺した。そして、恐る恐る先端に口を付け、無形の幽霊特有の水の腐ったような臭いに鼻を殺して、慎重に吸い込んだ。

 甘い。そして美味い。

 ストローから口を離し、いちごオレを顔から遠ざけて嗅覚を回生させると、懐かしい本来の苺とは何かが決定的に違う、心が安らぐいちごフレーバーがする。


「……ねぇ」


 これは案外、一気に飲むと平気なのではないか。口に沢山含んだ後で、顔を離して鼻を生かす。そうすれば、霊的不快感を味わわずに済む。


 ――ズズズ。


 俺は大きく吸い込んだ。それから、紙パックを遠ざける。鼻を生かし、飲み込んでいく。

 やっぱりこの作戦は妙案だった。

 そう思い半分くらいは飲み進めた時、俺の喉に何かが触れた。ぬるりとした感触、そして唐突かつ局所的な喉の痒み。

 ぬるりとしたのは分からなかったが、喉の入り口のところに触れた感触は何か分かった。いや、分かりたくなかったから、舌で触れて確認した。


 ――それは、髪だ。

 長くて細いそれは舌に纏わりついて。到底、自分の髪ではない。


「アタシと付き合ってくれない?」


 ブホォ。

 俺は口の中のいちごオレを吐き出していた。


「――ちょっと、大丈夫⁉︎」


 弾けるように噴き出したいちごオレ。その滴が俺の顎先を伝っていた。


 ――ピチョンピチョン。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る