第2話 ベタベタする季節

 五月、季節は梅雨。

 俺は連日連夜ジメジメとした暑さに見舞われて、すっかり五月病みたくなっていた。馴染めない教室で、何度も読んだ本を読み、机に突っ伏して微睡の中へ逃避することも、水気を吸った天板がベタベタになっている所為で出来ない。暇な時間に時計の針を目で追うような生活を続ければ、当然鬱屈とした気持ちにもなってくる。


 毎日の雨の匂い。生乾きの靴。傘を指しているにも関わらず、顔が濡れるような湿気。肺に張り付くみたいな息苦しいほどの湿度。

 傘の持ち手も、ペンも、教科書も、制服の詰襟も、何もかもがベタベタして、知らない教師が親切心からか、俺が秘匿し続けていた実は春から転入して来たことに触れたのも、それを聞いて親切心に駆られるクラスメートも、何から何まで忌々しい。正確には忌々しかった。

 ――と、俺は学校からの帰り道、沸々と湧き上がる苛立ちを整理整頓していた。必要なものは整えて、不要のものは捨てる。客観的に見て、俺の身勝手な苛立ちは整頓するのが妥当だった。


 通学路を朝とは逆に進んでいると、道中のバス停――ポリカーボネートの波板で覆われた、何とも見窄らしい小屋で雨宿りしている女子高校生が居た。


 女子高校生が通学路のバス停で雨宿りをしている。うちの学校の制服だ。それだけならおかしな所は無いのだが、我が校の前には都合良く高校前駅よろしくバス停がある。バス停の名前は自転車通学の俺の知るところではない。

 だから、その女子生徒がそこで雨宿りをしているのは明らかに不自然だった。梅雨の今、朝から雨が降り続いている今日に、学校から離れたこんなところで雨宿りをしている。傘を持たず、髪から雨水を滴らせ。


 俺は遠くから女子生徒を認め、訝しがったが、出来るだけ離れて歩くことにした。何故なら、近付くうちに幽霊特有の禍々しい黒のオーラを放っているのが分かったからだ。


 ずぶ濡れの髪。女子生徒はベンチに座って俯いている。明らかに普通ではない。


 幽霊対策の基本。それはズバリ死んだ振りである。

 幽霊は生者を死後の世界へ誘おうとしている……多分。世間ではそういうふうに言われている。俺は誘われたことがないので、実際は知らない。ただ、やはり幽霊は生者に反応しているように見えるため、何かしらの接触をしようとしているのは間違いない。


 死後の世界へ誘うなら、最初から死んだ振りをすることで幽霊に襲われなくする――そう言いたいわけではない。

 俺の言う死んだ振りとは、つまり死んだみたいに無反応ということで、彼らを下手に刺激しないこと。自分から関わらない。目を合わせない。話し掛けない。触らない。反応しない。

 だから幽霊が見えちゃったりして「ぎゃあ」と叫んだり、心霊スポットに行って馬鹿騒ぎするのはオススメしない。

 それと、いざという時のために逃げ足も必要だろう。百メートルを十四秒で走ることが出来れば、時速二十五キロメートルは出ていることになる。


 少しの急足。俺は俺の鬱屈さよりも余程暗鬱とした様子の女子生徒を無視して通り抜けることを選んだ。

 はっきり見えるタイプの幽霊かも知れないし、生身の人間だとしても取り憑かれ、既に重症に見える。


 俺の鼓動が早まる。アスファルトを打つ雨音が一層騒がしく聞こえる。

 あと三歩も行けば、彼女の真正面に差し掛かる。


 ――一歩。


 女子生徒は鎌首をもたげる。思わず横目を向けると、雨に濡れるくっついて束になった前髪の奥から瞳が見えた。


 ――二歩。


「――ねぇ」


 ――三歩。


 ――四歩。


「ねぇって」


 ――グッ。


 俺の足が止まった。いや、止められた。足だけでなく思考も止められた。女子生徒が俺の袖を掴んだのだ。詰襟制服の袖口と、袖のボタンが強く握られている。


 振り返ると、そこには見知った顔があった。彼女は淀淵日和。俺の苦手とするクラスメートである。


「――傘、入れてって」


***


 相合傘。俺はそれを初めてした。男同士でしたものはノーカウントだとして。果たして淀淵との相合傘を喜んで良いものかは疑われたが、それでも淀淵は呪われているみたいな禍々しさが無ければ美少女である。服が濡れ、肌色よりも赤みがかった色の階調が透けて見えているし、喜ばしいのは分かっているが、気不味いことこの上ない。


 俺が気不味い思いをしてまで他人のために傘を差していると言うのに、淀淵は何時もみたくむすっとしたまま何も話さない。

 

 これは俺が話した方が良いのか?

 悪いが俺はエスコートの仕方なんて知らないぞ。


「……その、傘持ってこなかったのか?」


 ――雨なのに。


「パクられた」


「え?」


「アタシの傘、パクられてた」


 まあ、盗られたなら仕様がないか。いや、盗ったヤツを仕様がないだけで許すわけではない。俺だって、もしも帰りになって傘が無くなっていれば五月病と合わさって、今頃意気消沈していただろう。


「それは、なんつーか……。ドンマイ」


「うん」


 淀淵は抑揚のない機械みたいな返事をした。


「学校から誰かに入れて貰えば良かったのに」


「アタシ、そんな仲良い子いないし。それに走ればなんとかなるぐらいには思ってたから」



 「あっち」、「こっち」、「ここ曲がろ」。

 何故か俺は淀淵を家まで送る流れになっていた。俺は何も言わなかったが、これが見事に俺の帰り道と似通っている。しかし、それを言ってしまうと淀淵と単なるクラスメート以上の繋がりが出来てしまうと思われて、俺はひた隠しにしていた。

 暫くは雨音に耳を傾けるみたいに静かに歩いた。すると淀淵が業を煮やしたみたいに沈黙を破った。


「――ねぇ、もっと寄って良いから。アタシ肩濡れてるんだけど」


 いや、でもそれは。俺には流石に躊躇われた。


「何?アタシ、そんなに迷惑?」


 淀淵は不機嫌そうに言う。


 俺は利き手で傘を差し、右隣には淀淵が寄り添う。そして、今は態と左側の道路の直ぐ横を歩いている。淀淵が傘の陰に入ろうと、俺の隣の空間に滑り込もうとするほどに、俺は少しずつ左に避けてきたからだ。


 横を見ると、傘を手に持つ奥に淀淵の大きな胸が見え、しかも濡れて透けている。それだけでも、不用意に距離を縮めない理由になるのだが、彼女の肩口から二の腕にかけてズルズルと蠢く黒いオーラが時折俺に触れるのもあった。


「ねぇ」


 何も言わずに押し黙る俺に、痺れを切らした淀淵がズンと踏み込んでくる。彼女の肩が俺の腕に当たり、黒いオーラが腕伝いに這い上がって来る。それは冷え切った手のような感触で、俺の腕を揉む。

 制服の中でゾワゾワと粟立つのが分かった。


「お、お前。服濡れてるだろ」


 淀淵は自分の制服の肩のところを絞る様に握って確かめ、


「ああ、そっか」


 と、その気の抜けた一言だけで俺に突っかかったことを有耶無耶にした。彼女はそれから視線を自分の胸まで落として、初めて下着が透けているのに気付く。


「――あ、そういうことね」


 何やら合点がいった様子の淀淵は、普段の様子からは想像もつかないニタニタした悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「ふふ、気になる?」


「……ああ」


 俺は震えた声で応える。

 淀淵の纏う黒いオーラは遂に俺の首まで達し、冷たい手の感触がはっきりとあった。


 ――ベタベタベタ。

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