第9話

 プレーンな食パンと、ナッツとレーズンを入れて黒糖で甘くしたパンを作ってオーブンで焼く。プレーンな食パンは食事のために、ナッツとレーズンを入れて黒糖で甘くしたパンはバターをたっぷり塗って食べるとおやつにもなる。パンの焼けるいい香りがキッチンとリビングに充満する中、セイジは昨夜のことについて考えていた。

 毒で汚染された川にイオのせいで落ちてしまって、目と喉をやられて術式が紡げずにいるセイジをカマルは聖なる水源に導いてくれた。カマル自身も毒に侵されていて苦しかったに違いないのに、そんなところは見せずにセイジを必死に助けてくれた。

 その後に倒れたカマルを助けるために服を脱がせたのも、口移しに聖なる水を飲ませたのも、必要な処置だった。

 これまで誰にも頼ったことなどなかったし、そんな場面に陥ることもなかったセイジが、自分を犠牲にしてまでセイジを助けようとしたカマルの心根に惹かれて口付けてしまったのを、カマルは勘違いした。健康な成人男性なのだからカマルの身体に惹かれないはずはないが、セイジはカマルの望まないことをするつもりはない。


――私はセイジ様になら何をされてもいい。それは覚えていてください


 セイジになら何をされてもいいというカマルの気持ちはどうなのだろう。

 自分の気持ちもはっきりと分かっていないまま、セイジはカマルのことばかり考えていた。


「いい匂いがするのです。師匠、オーブンの中でパンが焼けているのではないですか?」

「あ、もう焼けたかな」


 ひょっこりとキッチンに顔を出したイオに言われてセイジはオーブンを開けて中を確かめる。パン生地はしっかりと膨らんで綺麗な薄茶色に焼けていた。天板をオーブンから出して、パンを型から出して粗熱を取ろうとしているとイオの手が伸びる。


「待て、イオ! これは昼御飯だ!」

「こっちはイオのおやつのために作ってくれたのでしょう?」

「もうすぐ昼ご飯だろう。おやつは後だ」


 レーズンとナッツを入れて黒糖で甘くしたパンはイオの大好物である。食事をどれだけ食べさせてもすぐに「お腹が空いた」と言って来るイオが小さな頃からこれを与えていれば落ち着いていた。ただし、一斤の半分は一度に食べる。


「カマルさんの分を残させないと……」

「カマルさんにもおやつを作ってもらえば解決ですね」


 まだ食べたそうにしているイオを牽制しつつ、セイジはパンに魔術で作った小さな網をかけて虫が近寄らないようにしておいた。


「お洗濯、終わりました。お昼ご飯の準備に入りますか? すごくいい香り……」


 小屋の外で洗濯物を干していたカマルが戻って来て、玄関で靴を脱ぎながら室内に充満するパンの焼けた香りを吸い込んでいる。イオの目は爛々と輝いていて油断がならないので、セイジはそのまま昼食の準備に取り掛かることにした。


「カマルさん、氷室からひき肉を取って来てくれるか?」

「はい!」


 いい返事で洗濯籠を置いたカマルが再び靴を履いて外の氷室に向かう。今日は薄いハンバーグを焼いてパンに挟んで食べよう。そう決めて玉ねぎを刻もうと手に取ったところで、外からカマルの悲鳴が聞こえた。


「カマルさん!? どうしたのです!?」

「イオ! 落ち着け!」


 靴を履いて外に駆けていくイオを追いかけて、セイジも小屋の外に出た。氷室にしている倉庫は小屋の横にあって、小屋の庭を囲む柵にほど近い場所だった。



 氷室の近くに立っているカマルには鞭のようなものが絡み付いていて、柵の外から際どい服装の褐色の肌の女性がカマルを結界の外に引きずり出そうとしている。


「魔王様は姉君の不在に傷付いておいでです。早く戻って差し上げるのです」

「やめてください! 私は戻りません!」

「今は彼らもあなたを受け入れているかもしれませんが、勇者はいずれ魔王様とまた敵対する身。魔王様の異母姉であるあなたも共に処刑されるだけですよ」


 抵抗して身を捩って鞭から逃れようとするカマルに、際どい黒い革の服を着た女性は顔を歪める。


「あれだけ魔王様によくしていただいておきながら、裏切り者! 魔王様が異母弟だから体を満たしてくれなくて、持て余して、男を咥え込んだのですね」


 セイジの姿に血赤の瞳を向ける褐色の肌の女性は魔族だろう。カマルの言っていた魔王と関係のあった女性かもしれない。


「私は、そんなこと……」

「カマルさんを放すのです!」


 駆け付けたイオの放つ衝撃波が鞭を切っただけでなく、褐色の肌の女性にまで向く。避けきれず、褐色の肌の女性は腕に傷を負った。女性の背中に漆黒の翼が広がって空に飛びあがる。


「魔王様は決して諦めませんよ。あなたに逃げ場所などないのです」


 魔王の元に戻って共に生きて死ぬか、魔王の異母姉として処刑されるか、選択肢は二つしかないのだと言い放って魔族は飛び去って行った。氷室の傍に座り込むカマルにセイジが駆け寄ると、震えながらカマルの手がセイジに縋って来る。


「私は自由にはなれない……当然のことですね。ここの暮らしが幸せだっただけに、忘れていました……」

「カマルさん、そんなことはない。ここの暮らしは嫌か?」

「いえ……私にはもったいないくらい大事にしていただいていると思います」


 震えるカマルの身体をセイジは抱き締める。下心などない。傷付いて苦しんでいるカマルを癒したい気持ちだけだった。


「俺もイオもカマルさんとの暮らしに満足している。カマルさんはずっとここにいていいんだ」

「セイジ様……」

「カマルさんを俺もイオも全力で守る」


 宣言していると、イオが庭を区切る柵を検分していた。木の杭と有刺鉄線を境界線に結界が張ってあるはずなのだが、それを抜けて魔族の女性は鞭をカマルに絡ませてきた。勘の鋭いイオが不審に思うのは当然だった。

 じっと青い目を凝らして見ていたイオが、やれやれとため息をつく。


「師匠、ここの結界に綻びが出ています」

「なんでだ?」


 渋々カマルから離れて柵を見に行くと、木の杭にべっとりと血がついていて、それで奇妙な模様が書かれている。それが魔族の禁呪だということは、セイジにも一目で分かった。


「結界の強化が必要だな」

「私のせいで、またセイジ様とイオ様にご迷惑をおかけしてしまう」


 憂い顔のカマルを振り向いてセイジは笑顔を作る。


「悪いのはカマルさんじゃない」

「そうですよ。なんですか、あの女は! カマルさんのことを変な風に言うし!」


 ほっぺたを膨らませて怒っているイオは先ほどの女性の魔族の言葉も全然聞いていなかったのかもしれない。下品で聞かせたくもなかったので、こういうときだけは全くひとの話を聞かないイオの性質にセイジは安心する。


「イオがこの汚い血は流しておくので、師匠は美味しいお昼ご飯を作ってください」


 珍しくイオが自分から仕事を引き受けたので任せて、セイジは氷室からひき肉を取ってカマルと一緒に小屋に入った。ショックを受けているカマルを落ち着かせるためにも、一度小屋に戻った方がいいのはイオも分かっていたのだろう。

 玄関で靴を脱いでルームシューズに履き替えてセイジはキッチンに立つ。躊躇っていたがカマルにも手伝ってもらうことにした。


「カマルさん、玉ねぎのみじん切りはできるか?」

「やったことがないので教えてもらえますか?」


 包丁を握るカマルにセイジが玉ねぎのみじん切りの方法を教える。根っこの部分を残したまま皮を剥いて、最初に根っこの部分を残して上に向かって切り目を入れる。その後で横に切り目を入れたら最後に残るのは根っこの部分だけで綺麗に玉ねぎがみじん切りになる。


「目に沁みます」


 ほろりと金色の目から零れた涙に、セイジは自然と吸い寄せられるようにカマルの目元に口付けていた。口付けられてカマルがびくりと身体を震わせて固まってしまう。


「セイジ、さま?」

「カマルさんの涙があまりに綺麗だったから、つい」


 潤んだ瞳で見上げてくるカマルのふっくらとした唇に口付けたい。柔らかな感触をもうセイジは知っている。セイジが顔を近付けるとカマルが長い睫毛を伏せて目を閉じるのが分かった。

 そのまま口付けようとしたセイジだが、酷いタイミングでドアが開いた。


「お昼ご飯はもうできましたか?」


 元気よく入って来たイオに、セイジはカマルから慌てて身体を離したのだった。

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