第7話

 流れの速い川の中に落ちて、セイジは必死でカマルを引き寄せて抱き締めていた。汚染されている水に浸かることは、それだけでカマルの命を危険に晒しかねない。

 一度深くまで沈んでから、浮かび上がって来たときには、かなり流されている印象だった。セイジはぐったりしているカマルを抱き締めたまま川岸に向かって泳いでいく。こういうときには中途半端に意識があって暴れられるよりも、カマルに意識がなくて抵抗できない状態なことが幸運だった。川というものは恐ろしいもので、暴れれば暴れるほど沈んでいき、流れに身体を取られて浮かび上がれなくなる。

 なんとか川岸まで泳ぎ着いたセイジはカマルのシャツの胸元を緩めて、唇の近くに耳を寄せる。呼吸をしていないことに気付いて、セイジはカマルの唇を食らうようにがばりと口で塞ぎ、カマルの鼻をつまんで息を吹き込む。

 口を放した瞬間、カマルは赤茶色の水を吐いてげほげほと咳き込み始めた。


「カマルさん、平気か?」

「気分が悪くて頭が痛いですが……平気です」

「それは、平気じゃないな」


 毒を含んだ川の水にカマルが汚染されてしまった。セイジは魔術で守っているのである程度は平気だが、それでも川の水に含まれる毒は強かったようで、喉がひりひりと焼けるように痛んでいるし、目もあまりよく開かない。


「カマルさん、目は?」

「閉じていたので平気です。セイジ様は?」

「ちょっと、見えにくくなっている……どうしよう。魔術で水を清めて洗い流した方がいいんだが、目をやられたので術式が紡げない」


 こういうときには真水で洗い流すのが一番なのだが、それをすることができない。目をやられてしまったので、セイジは対象とする魔術をかけるものを定められず、術式が編めずにいた。喉の痛みで掠れた声で言えば、カマルが立ち上がる気配がした。


「水源を探しましょう」

「できるか?」

「やってみます。この近くに聖なる水源があるかどうか」


 カマルが首からネックレスを外してアメジストのペンデュラム部分を下げて、鎖の上の方を掴んでいるのも、セイジの目にはちゃんと見えていなかった。毒のせいで一時的に視力を奪われているセイジの視界は真っ白になっている。


「手を繋いで私に付いて来て下さい」


 これまで守られるだけの存在だったカマルが、セイジの手を引いて歩き出す。

 息をするより自然に行ってきた魔術が使えないとなるだけでセイジはこんなにも役に立たなくなってしまうのか。情けないセイジの様子を見てもカマルは呆れたり、失望したりする様子はなく、丁寧にセイジを導いてくれる。


「足元に根っこがありますから、気を付けて。一歩先には岩があります。滑るかもしれません」

「あぁ、ありがとう」

「セイジ様、しっかり私に付いて来て下さいね」


 十代で世界最強の魔術師と呼ばれるようになってから、セイジは誰かに頼ったことなどなかった。周囲との力の差がありすぎて、誰かに頼るような場面はなかったのだ。規格外の弟子のイオに関しても、セイジは頼った記憶はない。やらかすことの尻拭いをしてきた感覚しかない。

 カマルに導かれてセイジは木々がうっそうと茂る山の中を歩いて行く。一歩先に何がある、二歩先に危険があると、丁寧にカマルが言いながら導いてくれるので不思議と不安も恐怖もなかった。


「セイジ様、手を失礼します。ここに水がわいているのが分かりますか?」


 引かれた手の平が胸くらいの高さにある岩の感触と、そこから流れる水の冷たさを伝えてくる。


「これか。使わせてもらおう」


 両手で水を掬って目と顔を洗っていると、確かにその水からは聖なる力を感じた。水で洗い流すと真っ白になっていた視界が元に戻って来る。掬った水でうがいもすると喉の焼けるような痛みもなくなって、安堵したセイジは、顔を上げてカマルを真っすぐに見てしまった。



 濡れたシャツがへばりついて褐色の肌が透けているカマルの肢体。

 豊かな胸も、引き締まった腰もはっきりと形が分かってしまう。

 慌てて顔を背けようとしたセイジの前で、カマルがくずおれるように膝をついた。汚染された川の水に晒されていたのはセイジだけではない。セイジは視力を一時的に失ったのと、喉の痛みだけだったが、カマルは水を飲んでしまっていて一度呼吸が止まっていたし、気分が悪くて頭が痛いと言っていたのをセイジは思い出す。


「カマルさん、聖なる水で身体を流して、うがいもして」

「すみません……セイジ様をなんとかここまでは導けたのですが……私も、もう、限界かもしれません……」


 自分の体調が悪いのを置いておいて、セイジを助けることを優先させたカマルはもう意識が遠くなり始めている。どうすればいいかなど、セイジにははっきりと分かっていた。

 カマルを抱き寄せて、岩から染み出る水の触れる位置に移動させる。びっしょりと濡れて体に張り付く服には川の汚染された水がたっぷりとしみ込んでいるので、セイジはそれを脱がせてしまった。

 肌に張り付く濡れた服を、ほとんど意識のない力の抜けた体から剥がすのには多少手間取ったが、下着姿になったカマルに聖なる水をかけて毒を流していく。抱きしめている自分の服も川の水に汚染されていると分かっていたので、セイジはカマルを抱いたままでもどかしく服を脱いでいく。

 お互いに下着姿になったセイジとカマル。カマルの顔色は良くなりつつあるが、飲み込んだ川の水をどうにかしなければ根本的な解決には至らないのをセイジは分かっていた。

 手で掬った水をカマルの唇に垂らして飲ませようとしても、零れて頬を伝って流れてしまう。

 人命がかかっているので、セイジには選択肢などなかった。川からカマルを助け出したときにも既に人工呼吸はしているので躊躇いはない。

 自分の口に水を含んでカマルに飲ませると、褐色の喉が上下に動くのが分かる。少しずつしか飲ませられないが何度かに分けて飲ませていると、カマルが金色の目を薄っすらと開けた。


「セイジ様……」

「カマルさん、気が付いたか?」

「は、はい……あの、ご迷惑をおかけしました」

「いや、いいんだ……って、きゃー!? この格好!」


 我に帰るとセイジは下着姿で下着姿のカマルを抱き締めていて、お互いに水でびしょ濡れだということが分かる。冷静になってみるとこれは非常にまずい状況ではないのかと、セイジはカマルから飛びのいた。


「あの、何もしてない! いや、キスはした……でも、水を飲ませるためだから! 何もしてない! してないから!」


 必死に弁解するセイジに、カマルが腕で肌を隠しながら恥ずかしそうに俯いている。


「セイジ様が私を助けようとしてくれたのは分かっています。あの、服……」

「服も洗おう! 魔術ですぐに乾くからな!」


 できるだけ腕で身体を隠しているカマルの方を見ないようにしながら、セイジは湧き水で服を洗う。赤茶色の水が滲み出なくなるまで洗ってから、軽く絞って魔術で乾かしてカマルに渡すと、褐色の肌なので分かりにくいがカマルは真っ赤になりながら服を着ているようだった。

 人命救助のためだから下心などないとはいえ、カマルの半裸を見てしまったセイジは下半身が反応しそうになっていて、それを隠すためにぎこちなく服を纏った。


「私、セイジ様なら……」

「え?」

「セイジ様になら、何をされても……」


 服を着ながらカマルが金色の目でセイジを見上げてくる。魅入られたようにその目を見つめて、セイジはそっとカマルの頬に手を当てた。顔を僅かに傾けて、ふっくらとしたカマルの唇に口付ける。

 自分の身がどれだけ危なかろうと、セイジを助けることを優先して苦しさも見せずに聖なる水源まで導いてくれたカマル。その優しさと高潔さに、セイジは自分がはっきりと惹かれていることに気付いていた。

 遊んだだけのこれまでの相手とは交わしたことのない口付け。

 唇を離して、もう一度口付けようとしたときに、イオの声が聞こえた。


「師匠! 原因を突き止めたのです! 毒の魔物の魚が、川に数匹放たれていたのです」


 弾かれたように離れたセイジとカマルに気付かず、イオは両手に毒々しい血赤の巨大な魚を数匹掲げて走って来る。人間と魚が奇妙に混じったような姿の毒の魔物の魚は、腕が生えていたり、目が複数あったりして、明らかに普通の魚ではないことが分かる。


「それを、素手で持って平気なのか?」

「イオは平気ですよ。この魚は食べたいとは思いませんが、師匠、魚のムニエルが食べたくなったのです」


 いい雰囲気をぶち壊しにされて怒りがなかったわけではないが、なし崩しにカマルと関係を持ってしまうようなことはよくないとセイジも感じていた。両手で頬を押さえてカマルは俯いている。


「帰ろう、カマルさん。水の問題は解決した」


 声をかけるとカマルは照れた様子のままこくこくと頷いていた。

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