ないりの祝福③

「あのねえ、アレ、やめた方がいいかもしんない」

 絵麻ちゃんが声をひそめて言った。

「アレって……?」

「『ふれあいの丘』のおまじない」

「どうして?」

「なんか……杏子さん、おかしくなっちゃって」

「おかしい……?」

 絵麻ちゃんが途切れ途切れに話したことをまとめると、こうだ。

 杏子さんと相手の男性は無事結婚し、一緒に暮らした。しかし、数日後から、彼らは揃って仕事場に行かなくなった。会社から連絡が入り、双方の両親が彼らのマンションを訪ねると、彼らは散らかった部屋の中でぴったりと体を寄せ合って、動かなかった。

 話を聞こうとしても、

「こうしていないと息を吸うこともできない」

 と繰り返すばかりだったという。

「ええと、なんていうか……」

「ラブラブにしてもさ、なんかおかしいよねぇ。お風呂にも入ってないし、なんか、ご飯とかも食べてなくて、トイレとかもぉ」

「なんとなく分かった」

 絵麻ちゃんの口から汚い印象の言葉を聞くのは少し嫌で、慌てて遮る。

 要は、本当に言葉通り寝食を忘れて、彼らは。

「それで、今杏子さん、たちは……」

「入院してるよぉ。おまじないが原因かどうかは分からないけどなんか怖いでしょ……だから、皆にもやめとこって言ってるんだぁ」

「そうだね、私も皆に言うよ」

「うん……柚姫、大丈夫かなって思って……」

 そういえば、柚姫ちゃんは昨日欠席した。今日もだ。秋野先生は風邪と言っていたが、どうしても結びつけて考えてしまう。

 今日お見舞いに行こうか、と声をかけようとして、

「あーあ、やっちゃったんだね、おまじない」

 突然、はきはきとした声に邪魔される。

「なんなの! ミキ、話に入って来ないでよぉ」

 太い眉毛。やや釣り目で一重の目。濃いメイクと、目が覚めるような明るい髪色。

 ミキちゃん――三木啓人が満面の笑みを浮かべて立っていた。

 ミキちゃんは男の子だ。でも、いつもメイクをして、派手な原色の女の子の服を着ている。

 三年生で初めて同じクラスになったとき、やっぱり少し浮いている、というか、イジメられていた。暴力や盗みなどひどいものはなかったが、ミキちゃんの言動を陰でクスクス笑う子は何人かいた。それでもミキちゃんは学校を休んだり、恰好を普通の男の子みたいにしてくることはなかったから、イジメは止められなかったけれど、心の中で尊敬していた。

 確か、秋野先生が、

「ミキさんはユニークで、色々なことを知っている面白い子よ」

 そういうふうに言ってから、イジメが止まった気がする。

 実際、ミキちゃんはファッションに詳しくて(お姉ちゃんがネイリストだそうだ)、女子たちの似合う洋服や髪型のアドバイスをしてくれたりする。ファッションだけではなく、サッカーとかゲームとか、男の子の好きなことも詳しい。秋野先生の言う通り、話してみれば面白くて、すぐに人気者になった。

 そんなミキちゃんだが、私にとって困ったところがある。怖いものが大好きなのだ。

 ミキちゃんはお姉ちゃんが持っている漫画をクラスに持ち込むことがよくある。どれも面白くて流行するのだが、だいたいが怖い内容なのだ。「地獄先生ぬ~べ~」とか、「死と彼女とぼく」とか、「ゴーストハント」とか。

 持ち込む漫画だけではなく、ミキちゃん本人も怖い話をよくする。話し方も上手で本当に怖い。そこがまた、人気なのだが、私は怖い話があまり得意ではない。漫画は空想のお話だと思えば大丈夫でも、実際に聞かされる話は本当にあった感じがして耐えられない。

 今もミキちゃんはこのおまじないが持つ怖い部分に反応しているのだろう。

「あのおまじない、やっちゃダメなんだよ」

 ミキちゃんは絵麻ちゃんを無視して続ける。クラスで絵麻ちゃんの言うことを聞かないのなんてミキちゃんくらいだ。そういうところもすごいと思う。

「どうして?」

「確かにあれをやると好きな人と両想いになれるんだけどね、正しい方法でやらないと、一生離れなくなっちゃうんだってさ。無理に引き離すとハイジンになっちゃうんだって」

「ハイジンってなぁに」

「やる気とか全部なくなっちゃって、毎日ぼーっと暮らすようになるってこと」

 絵麻ちゃんは悲しそうに俯いた。

「ミキの話、ほんとなんだね。杏子さんも旦那さんも、ハイジンだもん。病院で、何話しかけてもぼーっとしてる」

「ボク、詳しいからね。そういうの。このおまじないを正しくやらなかった人のことも知ってる。十年前にいたんだ。まあ、今はその人たち、ハイジンじゃないけど」

「えっ」

 驚いてミキちゃんの顔を見ると、不敵に笑っていた。

「ちゃんと解除方法があるんだよ。も同じなんだよ。知ってた?」

 絵麻ちゃんと二人で教えて、とせがむと、じゃあ十五日の放課後集まって、と言われる。十五日は明後日、木曜日だ。どうして明後日なのかとどんなに聞いても、それ以上ミキちゃんは教えてくれなかった。

 水曜日は大好きな日だ。「こども英語クラス」がある日。

 いつも通っているポーリク青葉教会が開いている英語教室で、大人のクラスと子供のクラスがある。最初に通いたいと言った時、お母さんは反対していた。英語は将来のために絶対に必要なものだけれど、子供向けの教室なんて絶対にレベルが低い、と言って。

 でも、こうきくんが良い大学を出ていて、英検一級で、TOEFLのスコアもネイティブ並みだということを知ってから「ちゃんと教わってくるのよ」と毎回言うくらい賛成するようになった。こうきくんの見た目も、お母さんにとっては説得力があるみたいだった。

こうきくんは、喋らなければ外国人の男の子みたいだ。こうきくんのお姉さんの祥子さんや、パパさんも、私たちと同じ完全に日本人の外見をしているのに不思議だと思う。

「ひいおじいちゃんがアイルランド人なんだ。隔世遺伝、って分かるかな」

「なんとなく。お父さんやお母さんじゃなくて、おじいちゃんとかおばあちゃんに似ることでしょ」

 そうだよ、と言ってこうきくんは笑っていた。小学生の時はからかわれたんだよ、とか。

 こうきくんが同じ学年だったら、と考える。

 きっと毎日楽しかっただろうな。幸せだっただろうな。

 今と同じで、優しくて太陽みたいな子だったんだろうな。

 絵麻ちゃんや柚姫ちゃんならいいけど、私みたいな子に好きと言われても迷惑だろうから、たとえ同い年でも告白なんてできないと思う。

 きっと、私は、ふれあいの丘に行って、おまじないを――

「じゃあ、今日はここまで。また来週」

 はっとして顔を上げる。周りの子はバタバタと支度をして、さようなら、と元気な声を上げて帰っていく。

「七菜香ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫です。今日も面白かった」

 ノートには、今日習ったイエス様のたとえ話の内容がきちんと英語で書いてある。自分でもどうやっているか分からないけれど、話が全然頭に入っていないのに、内容を書き写すことは私の数少ない特技だ。

 でも、「面白かった」なんて嘘をついて、こうきくんに申し訳ない。

 大事な四十分を、どうでもいい空想をして無駄にしてしまった。

「そう? 七菜香ちゃんにとってはやさしい内容だろうから、もの足りないとか、こうしてほしいとかあったら言ってね」

 確かに私にとって「こども英語クラス」は簡単かもしれない。私は参考書と動画を使って勉強して、この間英検三級に合格した。お母さんの望むように、英検一級とか、TOEFLで良い点数を取るなら、きっとここに通うよりも家でじっくり勉強した方がいい。お母さんは英語ができないから、よく分かっていないみたいだけど。

 でも、そんなものは私にとってはどうでもいいことだ。

 私はこうきくんと一緒にいたいだけなのだ。

 日曜ミサにいたお母さんより年上の女の人が、

『正直、こうきくんを見に来ているようなところあるわよね』

『分かるわ、癒されるのよね、可愛いし』

 そんな話をしていたのを覚えている。

 お母さんは後で

「いい年をして気持ち悪い」

 と言っていたけれど、私はあの人たちと同じだ。

「じゃあお母さんのところに一緒に行こうか」

 本当はもっと、ここにいたい。

 談話室で、二人で、色々なことを話したい。

 でもそんなことは言えないから、私は頷いた。

 教会の外には何人か女の人が固まって立っている。きっと、こども英語クラスの子たちのお母さんたちだ。

 その中でも、私のお母さんはすぐに分かる。いつもオシャレで、背が高くてスタイルがいい。

 お母さんもすぐに私を見付けて、駆け寄ってくる。

 こうきくんに軽くおじぎをしてから、

「こんばんはぁ。うちの子、ご迷惑かけてないかしら」

「こんばんは横沢さん。七菜香ちゃん、すごくしっかりしていて、迷惑なんてそんな」

「ありがとうございます、でも、家だと我が儘ばっかりなんですよぉ」

 心臓が痛い。どうしてお母さんが他の大人の人たちの前で私のことを悪く言うのかは分からない。お母さんは「謙遜」だと言っていたけれど、ずっとおねしょが治らなかったとか、体が弱くてずっと看病しなくてはいけなかったとか、こんなふうに我が儘だとか、やってもいないことをやったと言うのは謙遜ではなく嘘だと思う。でも、そんなこと、言えるわけがない。他の大人の人たちは「まあ、七菜香ちゃんにも子供っぽいところがあるのね」なんてくすくす笑う。私はそれが恥ずかしくてとても嫌だけれど、「謙遜」は良いことだから、我慢しなくてはいけない。でも。

 こうきくんの前ではそんなことを言わないでほしい。こうきくんに我が儘で、駄目な女の子だと思われたくない。こうきくんはそれを聞いたらどう思うだろうか。教会でだけいい子ぶっているとか、思うかもしれない。そんなふうに思われるのは、とても悲しい。

 鼻の奥がツンとして涙がにじむ。

「まさか、そんなこと絶対ないでしょう」

 太陽の光みたいな声で、涙が引っ込んだ。

「もしおうちで我が儘なんだとしたら、きっとお母さまのことが大好きで、安心しているからなんでしょうね。でも、信じられないなあ。七菜香ちゃんって、本当に優しくて素敵な女の子ですよ。僕、七菜香ちゃんがいなかったらきちんと授業を進められる自信がありません。子供さんたちは、やっぱりやんちゃだから。七菜香ちゃん、いつもそういう子たちをやんわり注意して、僕を助けてくれるんです。本当にありがとう、七菜香ちゃん」

 そう言って彼は微笑む。

 私は、曖昧に首を横に振ることしかできなかった。お母さんが何か言っているのは分かるけれど、言葉が頭に入って来なかった。全身がぽかぽかと暖かくなる。

 その日は眠れなかった。

 こうきくんが英語の授業の時に教えてくれた、「Footprint(あしあと)」という海外の詩を思い出す。

 ある人が、神様に向かって、

「主よ、あなたはいつどんなときもずっとともに歩むと約束してくださったのに、私が人生で一番重い荷物を背負っているとき、足跡はひとつでした。どうして私を見捨てたのですか」

 と聞くと、神様は、

「私はあなたを見捨てたりしない。足跡がひとつだったとき、私があなたを背負っていたのだ」

 と答えた。そういう話だ。キリスト教信者なら誰でも知っている有名な詩らしい。

 私はそれを聞いてもピンとこなかった。

 やっぱりその人は一人きりで歩いていただけなんじゃないかと思った。

 でも、今ならわかる。

 こうきくんのことを考えると、思い出すと、なんでもないと思える。私の感じているもやもやとした辛いことは、どうでもいいと思える。

 こうきくんは私とずっといて、私が辛いときは私を背負ってくれている。

 私は彼の髪の毛を聖書に挟んで、戸棚の一番奥にしまう。

 私は神様にお祈りしているんじゃない。こうきくんにお祈りしている。

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