1-1


ペン先が滑る音が室内の空気を震わせていた。


普段なら誰も気に留めないこの音も、静まり返った部屋の中では存在感を示していた。


照明はついてはいない。


大小二面の窓からレースカーテン越しに差し込む午前の爽やかな光が室内を充分に明るく照らしていた。


東側にある小さめの窓の前にベット、西側の壁際には奥行きのある机が配置されている。


机の上にはモニターと液晶タブレットが置かれ、葵は黙々と液タブにペンを走らせていた。


今、彼女が描いているのはマグカップやケーキといったカフェで見るような小物だった。


次々に描かれるボールペンタッチのお洒落なイラスト達。


これらはストック素材として、イラストや画像など、無料または有料でダウンロードできるサイトにアップするためのものだ。


イラストはダウンロードされると、作成者にいくら分か報酬として与えられる。


なので、ダウンロードされればされるほど、アップした作成者に対する報酬額が増えるのだ。


有料イラストなら更なる収益になる。


それ以外にもグッズ販売サイトで、自身でデザインしたスマホケースやTシャツなどのオリジナルグッズを販売している。


葵は大学在学中にこれらのサイトへのイラスト投稿を始めた。


今では月に数万円ほどの不労所得を得られるようになった。


イラストは人や動物、草花、チラシやメッセージカードを彩るフレームだったり、背景画などと様々だが、もっぱらカフェに関連するものが多い。


理由としては、美大に進学してすぐに始めたバイトが大学近くにある個人経営のカフェだったからだ。


日々、マグカップや店主こだわりのアンティークなどをよく目にしていたからか、自然とイラストもそういうものが多くなった。


そして、描く時は不思議とコーヒーの芳しい香りが鼻腔をかすめた。


これらのストックイラストの制作以外にも、クラウドソーシングなどから制作依頼を受けている。


寧ろ主な収入源はそっちの方だ。


けれど、ストックイラストの方も不労所得として、利益を生み出してくれるので続けている。


特に制作依頼が詰まっていなければ、時間を見つけてフリー素材を製作している。


そんな感じで、美大卒業後は就職することなく自然な流れでフリーランスとして活動する事になった。


大学卒業したての頃は、イラストの収入だけでは足りず、カフェでのバイトは続けていた。


それでも今では、イラスト制作の収入だけで、そこそこの生活をしていける経験と実績があった。


ただ、絵を描くというのは集中力と同じ姿勢で長時間作業するという点で、心身の疲労が想像以上に溜まる。


そのせいで体調を崩したり、精神的に病むイラストレーターは少なくない。


そうならないように、彼女はイラスト制作とカフェでのバイトで心身のバランスを取っていた。


外に出ることはリフレッシュになるし、目にするものや体感する事がクリエイティブな発想に繋がるからだ。


しばらく作業を進めていた葵だが、キリの良いところで手を止めた。


両手を掴み頭上に腕を伸ばして、後方に反り返って伸びをする。


卒業祝いに両親がプレゼントしてくれた黒いオフィスチェアの背もたれが一緒に後方へと傾いた。


同じ体勢を取り続けるイラストレーターにとってオフィスチェアはとても重要だ。


娘の身体を心配した両親が、少しでも作業が楽になるようにと、決して安くはないオフィスチェアをプレゼントしてくれたのだ。


葵の身体を心地よい弾力のクッションで優しく受け止める。


ふぅっと大きく息をつくと同時にだらんと腕を垂らした時、視界の端にあるものが目に入った。


6センチ四方の小さな木箱に敷き詰められた綿の上に、直径5センチ程の青い石があった。


形は歪だが、満点の星空から零れ落ちてきたかのような模様の石をじっと見つめる。


『これは原石だから、凸凹してて見た目は良くないけど、磨けばピカピカの宝石になるのよ。』


記憶の底から懐かしい声が聴こえてくる。


そして、優しく微笑む祖母の姿が過り、ふわっと胸に温かいものが広がった。


『それ見てると、プラネタリウムを思い出すかも。ほら、東京の空ってあまり星見えないでしょ?どっちかっていうとプラネタリウムって感じじゃない?』


続けて、少女の明るい声が響いた。


倉本沙希(くらもと さき)は、誰よりも綺麗で、誰よりも目立っていた女の子。


自分とは違う世界に住む人だったから、関わることなんてないと思っていた。


だから、まさかその少女が、後に親友と呼ばれる存在になるなんて思ってもいなかった。


そうやって石を眺めていると色んな思い出が呼び覚まされる。


『綺麗な石だね。』


背後からの突然の声に、葵がびっくりして振り返ると、学ランをきた少年がいた。


木浦寛人(きうら ひろと)。


彼は中学時代の一学年上の先輩だった。


葵が所属する美術部は平日のみしか活動していない。


しかし、葵だけは毎週土曜日、自主的に学校に登校し、絵を描いていた。


この日も一人で黙々と夏の作画コンクールに向けて絵を製作中だった。


振り向いた弾みで机の上の画材の一部がバラバラと教室の床に落ちた。


『ごめん!』


すかさず陽人が落ちた絵の具や色鉛筆、消しゴムやらを拾いにかかった。


葵も慌てて、拾いにかかる。


『本当にごめん!驚かせちゃったね。』


『だ、大丈夫です。』


拾い集めた画材を机に置く。


『あ、ありが、とう、ござい、ます‥』


『いや…、それが落ちなくてよかった。』


陽人は机の上に辛うじて落ちずにいた石を見ると、くしゃっとはにかんだ。


その瞬間に葵は顔に熱が入って、思わず顔を背た。


きっと今、顔はりんごみたいに真っ赤になっていると自覚していた。


心臓が忙しくなく動いているのも、ただ驚いたせいだけではない。


男の子と話すのが苦手なだけでもない。

 

(この人の前だといつも心臓がおかしくなる)


今まで経験をしたことの無い感情に戸惑い、陽人と目を合わせられずにいると、


『綺麗だよね。夜空みたいだ。』


机の上の石に葵も視線を向けた。


その青い石は、絵を描く時はいつも見える所に置いていた。


行き詰まった時や疲れた時など、その石を眺めていると自然と癒された。


そして何より、その美しい風貌が想像力を掻き立てた。


『その石、なんて言うの?』


葵が石に触れる。


『これは……』


……、ブー…ブー……。


郷愁にふけっていた意識を瞬時に浮上させた。


液タブの横に置かれたスマホが震えている。


画面には「沙希ちゃん」と表示されていた。


スマホを手に取り、「応答」にスライドさせ、電話に出る。


「はい。」


『あ、あおちゃん!今、大丈夫だった?作業中?」


中学の頃から変わらない沙希の明るい声に自然と笑みが溢れた。


「ううん。大丈夫。一息ついてたとこ。」


『良かった!あのね。来週の同窓会のことなんだけど…』


置き型のカレンダーを見ると、来週の日曜日に「桜中同窓会」と青い文字で書かれている。


『…、17時にS駅の改札前で待ち合わせしよ。』


中学の同窓会が近いから、無意識にあの頃の事を思い出したのね…


そう納得し、電話口の沙希に相槌を打ちつつ、過去へと誘った石に視線を移した。


『…って感じで、いいかな?』


「うん。」


同窓会は夕方からで、某居酒屋チェーン店を貸し切って行われるラフなものだ。


当日は沙希と待ち合わせた上で、同窓会の会場へと向かう約束をしていた。


数年前にも成人式で中学の同窓会が行われたが、葵は参加しなかった。


『…あおちゃん。大丈夫?』


沙希の声のトーンがさがる。


何を心配しているのかすぐに分かった。


「うん。大丈夫。過去のことだもん。自分へのケジメって言ったら大袈裟だけど…、私も大人になったから…」


『…そっか。…じゃ、当日よろしくね。みんなびっくりするよ!あおちゃん、凄く綺麗になったもん!害虫がたからないように、私が殺虫スプレーになってあげる!』


沙希のこういう切り替えの速さにいつも救われていた。


彼女のお陰で少女時代はなんとかやって来れた。


本当に頼りになる親友だ。


「そんなことないよ」と笑って答え、それからいくつか話をして電話を切った。


葵は立ち上がり、ベランダへと出た。


晴天下の閑静な住宅街。


心地よい風が吹いていた。


「もう。大丈夫…だよね。」


5月の温かな日差しが彼女を優しく包んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る