ラピスラズリ

よもぎ

プロローグ

如月葵(きさらぎ あおい)が座る机の周りを複数の男子生徒が取り囲む。


高く聳える壁の様に立ち、並々ならぬ威圧をかけてくる。


その中に一人、葵の前の席に椅子の背もたれを抱えるように座る山崎健人がいる。


通称ヤマケンは自分の不機嫌さを隠そうともしない。


ヤマケンと対面する形で座る葵は、恐怖に震えている。


つい先程まではいつもの変わらぬ昼休みだった。


授業の合間の休み時間や昼休みに、童話やファンタジーなどの本を読むのが葵の楽しみだった。


葵にとってファンタジー小説は、自身の世界を広げてくれる航海船のような存在だった。


そして、美術部員でもある彼女は、その世界観を自分の手でキャンバスに再現するのを何より幸せに感じていたのだ。


この頃は、スコットランドのファンタジー作家であるジョージ・マクドナルドが描いた「黄金の鍵」を読んでいた。


ジョージ・マクドナルドは、その後に名を馳せた「指輪物語」のJ・R・R・トールキンや、「ナルニア国ものがたり」のC・S・ルイスなどの著名な作家たちに多大な影響を与えた作家だ。


これまでに読んだ彼の作品はどれもお気に入りで、その世界観は葵を夢中にさせた。


給食後にいつものように本を取り出し、物語の世界に入りかけていた葵は、急に本を取り上げられた。


突然の事に呆然とし、困惑した。


ヤマケンが取り上げた本ですら、首根っこを掴まれたかのように、所在無げにいた。


そして彼らは、まるで警察の取り調べのように、葵を問い詰め始めたのだ。


最初はなぜか好みの異性や、好きな異性の髪型、部活などだった。


何故そんな質問をされるのか分からなかったが、矢継ぎ早に投げかけられる質問に辿々しく答えていた。


主に質問をしてくるのはヤマケンだった。


そして、葵の答えをメモに書いていく男子がいた。


ヤマケンは顰めた顔をしていたが、バリケードように立つ男子は面白そうににやついていた。


この異常な状況に他の生徒達は、葵とヤマケンたちとの間に一定の距離を置いて、事の成り行きを好奇心と共に眺めている。


教室内のざわざわとした喧騒以上に、葵の耳には、自身の心臓の鼓動と呼吸音が大きく響いていた。


次第に質問の内容がある人物に対するものに変わっていく。


そして、彼らは本来の目的である問いを葵にぶつけた。


葵は思わず口を噤んだ。


彼らの意図を図りかねたのもあるが、何より自分自身がどう答えたらよいか分からなかった。


戸惑いと緊張で冷たい汗が吹き出す。


「はっきりしろよ。」


ドスの効いた低い声にビクッと肩が跳ねた。


目の前のヤマケンを見ると怒りに満ちた視線を葵に向ける。


「先輩の事、好きなのかどうか。告白されたら、付き合うのかどうか。」


葵は溜まった生唾をゴクリと飲み込み、取り上げられてヤマケンの手にぶら下がっている本に視線を逃がした。


そして、ヤマケンの質問の対象である先輩と呼ばれる人物のことを考えると、その優しい笑みが頭に浮かんだ。


葵に向けられた温かな眼差し。


太陽みたいだと感じていた人。


「わ、私は……」


言葉が続かない。目尻に温かい何かが溜まってきた。


身体が終始緊張し、手足が痺れる。


問われた所で、自分でも自分の気持ちなんて分からなかった。


頭の中で微笑む先輩と接する度に緊張した。


鼓動が激しく打ったし、呼吸が苦しくなった、手足も痺れた。


状況的には今と変わらないのに、嫌ではなかった。


ただこの感情をどう表現していいか分からない。


先輩に対するこのくすぐったい感情は、彼らが言う『好き』と同じ意味を持つのかが分からなかった。


大多数の生徒達が、淡々と続く日々に何かしらの刺激や特別な変化を求めていた。


けれど、葵にはそんなものは必要なかった。


彼女の望みはただ一つ。


特別な事は何もないけれど、自分を大切にしてくれる人達、色んな世界に誘ってくれる物語、そして、その世界を絵で再現する。


そのありふれた時間が続く事、それだけで良かった。


それだけで良かったのに、今のこの状況は彼女のささやかな生活を壊そうとしていた。


葵は必死に言葉を紡ぎ出そうと、思考をフル回転させる。


すると、ヤマケンが怒りを落ち着けるように深く息を吐いた。


「お前と先輩は釣り合わない。けど。先輩はお前が“いい”って言ってるんだ。」


更に混乱した。


“いい”ってどういう事?私の何が“いい”の?


「そうやって思ってくれている先輩に対して、お前はどう思ってるか言えば良いだけだろ。」


そんな事を言われても…と思った瞬間、不意に自分達以外の人の様子が気になり始めた。


周りに視線を向けられずとも、自分達をどんな風に見ているのかが雰囲気で分かった。


退屈な日々に常に刺激を求めている彼らは、この状況を面白がっている。


くすくすと笑う女子達の声、葵がどう答えるかを賭け始める男子達、この状況を聞きつけ集まり増える野次馬たち。


恥ずかしい気持ちが膨れ上がった。


この状況から逃れるためにはどう答えたら正解なんだろうか。


目の前の少年は、同級生達はどう答えたら、納得するんだろう。


自分はなんでこんな目に合わねばならないのか。


沢山の疑問が頭の中で生まれてくる。


処理しきれない事態に頭を悩ましていると、大きな音と共に机に強い衝撃が走った。


ハッと我に帰る。


ヤマケンがなかなか返ってこない答えに痺れを切らして、机の足を蹴ったのだ。


「早く答えろよ!」


「好きじゃない!先輩とは付き合わない!!」


怒りで顔を真っ赤にし、怒鳴るその剣幕に押された。


葵は反射的に悲鳴のような声で答えてしまった。


想像した以上に葵の声が教室いっぱいに大きく響く。


先ほどまでの喧騒と打って変わって、急に静まり変える教室。


その静寂の中でガタッという音が教室に無機質に鳴った。


ヤマケンが急に立ち上がった音だった。


真っ赤だった顔はサッと色をなくし、蒼白になっていた。


「ヒロ先輩……」


その一言に、葵は目を瞠り、息を呑んだ。


震えながらゆっくり振り返ると、教室の後方入り口前にある少年がいた。


周りの生徒たちの上靴に、葵達2年生の学年を示す青色のラインが占めていた。


しかし、その少年の上靴には3年生を示す、赤いラインが差し込まれている。


木浦陽人(きうら ひろと)。


ヤマケンたちの問いの中心になっていた人物。


この状況を聞きつけ、駆けつけてきた彼は、息が乱れて、肩を上下に揺らしている。


ただ、葵に一直線に向けられた目は明らかに傷ついていた。


「ち、ちが……」


「違うんです!先輩!!お、俺は先輩の事を思って…」


葵が自らの発言を訂正しようと、思わず立ち上がる。


しかし、ヤマケンも今の状況について慌てて弁解をしようとして、遮られてしまう。


ヤマケンの弁解が終わらない内に、陽人は教室を出て走り去ってしまった。


「先輩!」


ヤマケン達が、陽人の後を追う。


葵はペタンと床に座りこみ、茫然と陽人が走り去った後を見つめていた。


教室にはいつの間にかざわめきが戻っている。


「葵!」


「あおちゃん!」


葵は、自分の名前を呼び、駆け寄ってくる友人達に反応出来なかった。


背中を撫でられ、肩をさすられ、ようやく現実に戻る事ができた。


「あおちゃん、ごめんね。直ぐに駆けつけてあげられなくて…」


「葵、一体何があったの?」


「あ、あ、」


友人たちに何とか答えようとするが、上手く声が出せない。


ヤマケン達からの尋問の間、ずっと息をするのを忘れていたようだった。


緊張が解かれた瞬間から息が荒くなっていた。


「吉川さん、今はとりあえず場所を移した方がいいかも。事情はその後に聞こう。」


「そ、そうだね。確かに…、顔色も悪いし、保健室に行こう。葵、立てる?」


顔を真っ青にする葵はゆっくりと頷き、友人達の手を借りて、立ち上がった。


「あおちゃん。怖かったね。もう大丈夫だから。」


彼女たちは先ほどの尋問の事を心配しているのだろう。


実際、葵がその恐怖で傷ついていると思っていた。


けれど、今の葵の頭を占めているのはヤマケン達の事ではない。


傷つけてしまった……


あんなに大切にしてくれた人を傷つけてしまった……


陽人の傷ついた顔が頭から離れない。


そして、葵に向けてくれた優しい笑顔をもう見ることはないと思った。


傷つき、走り去っていった陽人の後ろ姿を思い、「ごめんなさい」と心の中で呟いた。


一筋の涙が頬を伝った。

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