第一章 7

実果は襖で仕切られた隣の自室に転がり込んだが、熱気に押し戻された。缶を口にやるが一滴吸って終わる。無造作に水道をひねり、コップに注ぐや否や喉に流し入れた。


学校か、ゲームセンターか。学校といえば、宿題が出ていたことを思い出した。問題集は忘れていないだろうか、鞄を確認すると案の定忘れてきていた。実果はたびたび遅刻をするが、宿題を漏れなくこなすことと試験で平均以上の点数をとることで清算しているつもりだった。宿題を学校に置いてきた場合は、翌日の朝早くに登校して消化するのが常だが、財布を探しがてらとなればもう一度学校へ出向く気力も湧き出る。実果は缶を水でゆすいで、クーラーをつけ、鍵を片手にドアを開けた。ふと、実果は視界に影を捉えて手を止めた。ドアはきしみながら閉じた。冷たい空気を感じた。見上げると、視線の主は下駄箱に乗っていた。黒い招き猫を置いた覚えはない。猫は実果の足元辺りに視線をやった。見ると、玄関の隅に丁寧に、問題集と小銭入れが並べられている。実果の脊髄を悪寒が貫いた。猫の耳がぴくりと動くのと同時に、階段を上がる音が聞こえてきた。猫は突然飛び降りて、視界から消えたかと思うと居間の方へ走り去っていた。帰ってきた父親が玄関先に立つ。猫を部屋に入れたと知れたら良くない。猫は開けっ放しの襖の奥の、押入れの空間まで移動していた。実果は現状の理解を後に回して襖を閉めた。猫は押入れに隠された。


父親は部屋の冷気を感じてよくやったと浮かれながら、買ったばかりの日本酒を注ぎ始める。二時間もすれば寝てしまうだろう。居間で適当に相手をしながら宿題を解いていると案の定、父親が寝床へと移動したので実果も自室へ戻る。先刻とは打って変わってひんやりとした空気に満ちている。押入れを除くと猫は行儀よく座って待っていた。薄暗い中に光る目がせわしく、実果の顔を舐めるように見回している。私に一目惚れしたに違いないと実果は思った。


父親が起きる前に逃がすつもりで一度襖を閉めて、布団に突っ伏して息を整える。小銭入れを確かめてみると中身に変わりはなかった。学生証も無事である。確かに、字さえ読めれば実果の学校も教室も、家の住所まで突き止められると気付いた。字を読める猫など聞いたこともないが、猫についての知識など高が知れている実果は経験を過信しないでおいた。しかし疑いは捨てきれず、実は私は後藤のような男に付きまとわれていて、よくしつけられた猫は彼の刺客かもしれないなどと考える。これほど賢い猫を使役できるなら後藤でも悪くないなどとも思う。あれこれと思いを巡らせているうちに、 空調の風の涼しさと西日の暑さの相乗効果に負けた実果は眠りに落ちた。


猫は、暗闇の中で目だけを開けて待った。襖の隙間から漏れる光が時間とともに薄くなっていくのをじっと見ていた。どこが隙間か、判らなくなってからは目のやり場に困って、まぶたの裏と外とをひたすら見比べ始めた。


辺りが暗くなった頃、実果は父親のいびきに起こされ我に返った。目の前に怪奇を転がしたまま寝てしまう自分の無防備な所業に呆れながら、電灯の紐を手探りに引いた。それから分からないことを考えるのはやめて早いうちに逃がしてしまおうと思い立ち、再び襖を開けた。


押入れの中の状況に、実果はまだ慣れていない目を疑ったが、少なくとも到底、呑気に昼寝など決め込んでいる場合ではなかった。


居たはずの猫は人になっていた。

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