第一章 6

午後の授業を聞き流しながら、実果は男子について考えていた。自分のことを好きであるはずの後藤、男友達を作るなら、彼が最も近いところにいるのではないか。実果は斜め右前を幾度も窺い、真面目にノートを取っている後藤の姿を見ていた。三度に一度は日川を眺めた。目は合わなかった。


後藤に話しかける勇気はない。実際の所、冷静に考えると、度々目が合うくらいで気に入られているとは到底思えない。重々承知であった。というよりも、普段は本気で好かれていると信じているのだが、いざ話しかけてみるとなると一転し、好かれているはずの空想の景色が、フワフワと浮かんでいって弾けて消えてしまうのだ。故に実果には、後藤との距離を縮める手立てがなかった。


西日がペンの金具に反射して目に差し込む。時は滞りなく流れた。実果は就業のチャイムが鳴る気配を誰よりも早く察し、身支度を整えて席を立った。


帰りの道は下り坂。15分もすれば自宅に着くが、日差しは強く、喉は乾く。いちご牛乳が110円で売っているお気に入りの自動販売機にすがりついた。


小銭入れを取り出そうと鞄に手を突っ込んで弄ってみたが、中々行き当たらず、仕方なしに、スカートのポケットに忍ばせていた100円玉と、至る所に紛れ込んでいる10円玉を適当に探し出し買い物を済ませた。甘いものを飲むと喉は逆に乾くと言うが、実果はそれを実感したことがなく、信じていないので御構いなしである。小さな缶のいちご牛乳は貴重に見える。ちびちびと喉に染み込ませながら帰路に就いた。



アパートの、スカスカの階段を登ってすぐの扉が夏目家である。殺風景な広場には近所の子供がたむろして、携帯ゲームで遊んでいる。去年遊具が撤去され、騒がれたが、子供はすっかり馴染んでいる。


ほんのりと冷気が漂う居間のテーブルには飲みかけのグラスが置かれていた。父は留守のようだ。実果は座って一息つくと、不意に不安が湧いてきて、鞄を広げた。テーブルにひっくり返してみても、小銭入れが見当たらない。目の黒い部分が小さくなった気がした。お金のほかに保険証や学生証も入れているのに、見当たらないのはまずい。忘れ物や失くし物は自分の意思とは無関係に起こる、言わば天災のようなものだと実果は考えている。これで痛い目に遭うと、不幸せで理不尽な悔しさを感じることになる。大きな波に飲まれた実果は打ちひしがれた。しかし小銭入れには釣り糸がついている。糸はまだ切れていない。実果は硬直を振り切ると記憶を手繰り寄せる気を湧き起こした。朝、コンビニで確かに使用した。ミックスサンドと一緒にレジへ提出したのは、小銭入れから出した硬貨に間違いない。それ以降の記憶を丁寧に探ろうと、飲みかけの缶から糖分を補給する。頭が回る気がした。

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