ささっていた鍵
それがささっているのを見かけたのは、僕がアパートに越してきて2ヶ月が経った頃。
夜もふけ、あと数時間で日が変わろうとしていたタイミングだった。ゴミを出しに行こうと思い立ち、外に出た、そんな時の出来事である。
夜にゴミ出しに出るのは、本当ならあまり褒められた事ではないのだろうと思う。
けれど僕は、昔から朝に起きるという事が苦手だった。幼い頃に一度、あんまりにも朝に起きれなかった僕を不安がった両親に、病院へ連れてかれた事がある程だ。
けど身体に害は一切なく、あるとしたら心因性のものだろう、というのが医師の見解だった。
所謂、ストレス性のもの。普段の生活でたまるストレスが、朝に起きれない、という異常を僕の身体に起こしているのだろう、と医師は僕と両親に語った。
「何かの大きな行事の前日、それまでは元気だったのに急に緊張でお腹が痛くなるという場合があるでしょう。あれは、緊張という精神的なストレスが溜まった結果、身体に影響が出てしまっているから起こった現象なのです。人の身体というのは、体力だけではなく、精神、つまりは心の動きにも左右されるものなのですよ」
「心と身体、その2つが相互に影響を及ぼしながら、我々の身体は生きているのです」そう医者は言葉を締めくくった。
つまるところ要約すると、僕の心は僕の意思に反して、精神的なストレスを感じやすいものだった――、という事らしい。
なんの取り柄もなければ精神も脆弱。そんな息子の姿に、両親が嘆息を吐いたのは言うまでもないだろう。
というわけで、朝に起きれない僕には、夜にゴミ出しをする以外の選択肢が残されていなかった。引っ越し当初は、翌日の朝に回収されるゴミを前日の夜に捨てに行くという常識外な行為に、誰かから咎められるのではないかとビクビクしたものだが、二週間も経った頃には慣れてしまった。
どうやら、思ったよりも夜に出歩く人間というのは少ないらしい。誰かに咎められるどころか、まず誰かとすれ違うことがない、という事に気づいた。
きっと駅から離れた場所にアパートがあった事も、人とすれ違わなかった理由のひとつだったのだろう。街頭の明かりだけが静かに佇む住宅街の中に、僕がゴミを捨てる音だけが、いつもガサリとやけに大きく響いていた。
しかしその日、僕の足はゴミ捨て場に到着する前に止まる事となった。
なぜなら、ドアを開けて外に出た瞬間、それが僕の視界の隅に飛び込んで来てしまったからである。
それは鍵だった。見覚えのある形をした鍵は、僕がゴミ袋を握る手とは反対に持っている鍵とそっくりの形をしている。このアパートの鍵だった。
それが僕の隣の部屋のドアにささっている。鍵穴が設けられたドアノブ部分に。
ドア横に設けられている小窓に目を向ける。縦格子のついた、横長の2枚の曇ガラスで出来た小窓。電気はついていなかった。どうやら留守のようだ。どこかへ出かけたらしい部屋の主が、鍵を閉めた後、そのままさし忘れて行ってしまったらしい。
どうしよう、と思った。こんな場面に出会うのは初めてだ。否、こういう場面に出会える人間の方がきっと、世の中においては珍しいだろう。ゴミ捨てに行こうとしたら、隣室の鍵がささりっ放しだった、なんて。戸惑い、困惑の言葉が僕の脳内を埋め尽くす。
しばらく迷った後に、僕は鍵を抜き取る事に決めた。そうして鍵穴と同じく、ドアに設置されていた郵便受けに、その鍵をいれた。
鍵には長い紐がついていた。なので鍵の部分だけを中につっこみ、紐の部分は外に垂れ下がるように出しておいた。
こうしておけば、この部屋の主が帰ってきた時にその紐を使って郵便受けの中の鍵を引っ張り出せるだろうと思ったからだ。鍵がなくって部屋に入れない、といった最悪な状況が起こる事はないだろう。
これでよし、と頷きかけて止まる。でも、これはこれで怖い光景だな、と。
持ち主からすると、自分の家の鍵がいつの間にか、誰かの手によって郵便受けの中にいれてあるのだ。自分だったら、ありがたく感じるよりも先に、誰がこんな事をしたのだろうかと恐怖にかられそうだ。
再び迷った末に、僕は自分の部屋に一度戻ることにした。
部屋の隅に投げ捨ててあった大学通学用のリュックの中から、筆箱とレポート用紙を取り出す。そうしてレポート用紙を1枚ちぎり取った後、筆箱から出したペンを使って、鍵についての旨を書いた。手紙のつもりだった。
一瞬迷ったが、とりあえず自分が隣の部屋の人間である事も記載しておいた。
再び部屋の外に出た後、それを隣の部屋の郵便受けに差し込み、今度こそこれでよし、と心の中で呟いて僕はゴミ捨てに向かった。
アパートの階段を降り、アパート横にあるゴミ捨て場にゴミ袋を置く。夜にゴミを出す社会不適合者な住人は僕だけなので、ゴミ捨て場の端にたたみ置かれていた緑色のネットを引っ張り出し、ゴミ袋の上にかけた。緑のネットが袋の表面とこすれあったゴミ袋が、何かを訴えたがっているかのように、ガサガサと音を立てた。
何かがおかしいと気づいたのは、家に帰ってからの事だった。遅めの夕飯を取ろうと、冷蔵庫の中にある物を見始めていた頃の事である。
なんだろうか、と首をかしげて直ぐに、その答えに気がついた。
――そういえば、隣には人がいないんじゃなかったっけ。
瞬間、僕は自分の背中を冷蔵庫からの冷気とは違う冷たいものが、走っていくのを感じた。
つまるところ僕が鍵を差し込んだ筈のあの部屋は、本来ならば鍵など必要がない筈の部屋だったのである。
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