第6話 恋心と出来心
晴れた午後、遙海は井野家の庭先でべニア板に鉛筆で「ホルモン販売」と描いていた。
「お、遥海ちゃん。知り合いから借りてきたけど、ここでいいかい」
定吉がペンキと刷毛を持ってきた。
「井野さんが看板作りてぇって言ってたけど、遥海ちゃんが書くのか。ほほぉ、上手いもんだね」
定吉は板に書かれた鉛筆書きを見て言った。
「うん。私、学生の時、デザインの勉強もしてたから」
「ふーん。よくわからねぇけど上手いもんだね」
「誰でも特技があるでしょ!さ、暗くなる前にやっちゃおっと」
「ちょっと待って。鉛筆貸してよ」
定吉に鉛筆を貸すとサラサラっと豚の絵を描いた。
「わー可愛い。定吉さん、絵が上手いんだ!」
「へへ、誰にでも何か取り柄があるもんさ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「豚の絵は定吉さん塗ってよ」
と刷毛を定吉に渡そうとすると、突然、手を握られた。
「え?」
遥海は、思わず手を引っ込めた。
「俺ね…遥海ちゃんのこと好きなんだ」
「え!?」
「はじめて会った時から、遥海ちゃんのことが頭から離れないんだ」
「え?ちょ、ちょっと、またまた、何を言ってるの!ほら!ここ!色塗ってよ!」
「い、いや…本気なんだ」
定吉が、遥海の肩に手を掛けそうになった時、背後から声がした。
「おう、定。来てたんか」
作業場から光男が汗を拭きながら、やってきた。
「おお、いい感じじゃねぇか、遥海。おう、定、ペンキ持ってきてくれて、ありがとうな」
「い、井野さん、どうも。じゃあ俺、用事があるから行くよ」
定吉はバツが悪そうに作業場を去った。
遙海は胸の高鳴りを隠すように看板を塗っていた。
光男は、いつもより早く家に帰った。
「おう咲子、いい話だぜ。俺たち店が持てそうだぞ」
いち早く咲子に話したかった。
「……。」
台所仕事をしていた咲子は浮かない顔をしていた。
「お?どしたい、いい話だぜ。具合でも悪ぃのかい」
「…実はさ、仕込んだはずのホルモンが足りないんだよね」
咲子は、うつむいたまま言った。
「なんだい、そりゃあ。…どういうことだ」
「全部じゃないけどさ、少しぱかり足りないんだよ。盗まれたんじゃないかってねぇ…」
「なんだと…」
2人はすぐに作業場に向かった。遥海もただならぬ雰囲気を感じて、二人の後を追った。
作業場の扉を開け、一斗缶の数を数えた。
「ひい、ふう、みぃ…本当だな、足りねぇ」
光男は帳面を広げて、眉間に皺を寄せた。
「最近、なんだか数が合わなくてさ。気づかなかったアタシも悪いんだけど…」
咲子は申し訳なさそうに言った。
一夜明けると、意外なところから犯人が分かった。
仕入れ業者の熊野と世間話をしている時だった。
「井野さん家のホルモン、前橋の市場で売ってたね。あっちでも商売はじめたんだ」
書類にハンコを押していた光男は怪訝そうに熊野を見た。
「前橋の市場だって?ウチじゃないだろ。向こうと取引なんてしたことねぇぜ」
「なにホントかい?おかしいねぇ。高崎で評判のホルモンっつって向こうの人間が言ってたんだけどなぁ」
熊野は腕組みをして、首を傾げた。
「熊野さん、俺、前橋の市場に行って確かめてくるよ」
そう言うと光男は飛び出して行った。
薄暗い部屋で、定吉は少ない家財道具を鞄に詰め込んでいた。
外から足音が聞こえると、引き戸が勢いよく開いた。
「定、てめぇ!」
光男は鬼の形相で玄関を跳ねて、部屋に上がった。勢いのまま、光男は定吉を押し倒し、後ろ手を絡めた。
「痛い、痛い、井野さん、離してくれ!」
「アンタ、乱暴はおよしよ」
後を追ってきた咲子は、か細く言った。咲子の肩にすがるように遙海は立っていた。
「てめぇ、なんで言わねぇんだ!」
「な、なんのことだよ、井野さん…」
光男は絡めた手の力を込めた。
「金が欲しいなら、欲しいって、なんで言わねぇんだ!」
光男の声は震わえていた。
定吉が振り向くと光男は泣いていた。
「俺ぁ、おめぇを弟みてぇなもんだと思ってんだ!」
光男を力いっぱい振りほどいた。勢いで定吉は仰向けになった。肩で息をする光男は、涙で顔をくしゃくしゃになった。
「金に困ってんなら言えよ!コソ泥みてえなことしやがって!」
「…すまねぇ…井野さ…ん」
天井に目を逸らした定吉も、やがて顔を覆って泣き出した。
「どうせ、おめぇ、またどっかへ逃げようとしてたんだろう」
一息つくと、片付いている部屋を見回して言った。
「だったらよ、定。明日ッからウチの社員になれ!ホルモンの作り方教えてやるよ。仕事覚えたら商売はじめるでも何でも好きにしろ。いいな!」
そう言い放つと光男は部屋を後にした。
「…あんた」
咲子は後を追った。
「…ごめんよう……」
定吉は天井を仰いで嗚咽した。
遙海はその場から動けなかった。
「定さん、どうして…」
遙海は息を飲んで言った。
「…ははは、みっともねえとこ見られちまったな」
定吉は立ち上がり、埃を払う仕草を見せた。
「博打でヘマ打っちまってね…。ま、めっかっちゃったし、ここには居ずらいからさ、トンズラするよ」
定吉は自嘲気味に言った。
遙海は近寄って、その頬を勢いよく叩いた。
「いってー」
定吉は頬に手を当て、遙海を見た。
「何よ!さっきおじさん、許してくれたじゃない!もう一回頑張んなよ!逃げちゃったら、もう会えないじゃない!」
遙海は泣きながら、定吉をポカポカ殴った。
「は、遥海…ちゃん…」
「私はこっちに来て、ずっとひとりぼっちで寂しかったんだよ!でも、定さんが好きだっていってくれて、私すごく嬉しかった!私を必要としてくれる人もいるんだって!」
「…ご、ごめんよ…遥海ちゃん…」
定吉は、泣きじゃくる遥海の肩をそっと抱いた。
「…定さん」
遙海は顔を上げた。
扉の影で、華は隠れるように二人を見ていた。
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