第3話 相見互いの貧乏長屋
定吉の狭い部屋に西日が差している。
光男、咲子、華、遙海はちゃぶ台を囲んだ。
「ささ、水しかねぇけど」
定吉は割れた茶碗に水を注いで差し向けた。
「俺もさ、向こうがそんな事になってるなんて、知らなくてよ。悪りぃ事したなぁって、ずっと思っててさ。井野さんが波にさらわれてねーかなぁ、とか、船がひっくり返っってねーかなー、とか散々心配してたんだぜ。大体、あの時の金だって、俺は貰っちゃいないんだ。ぜーんぶ、西町の親分が持ってっちまったんだから。そんなこんなで、俺っちも名古屋にゃあ居づらくなって、こっちに寄せてもらったんだ」
定吉は思いつく限りの言い訳を捲し立てた。
斜に構え、黙って聞いていた光男は突然、ちゃぶ台を勢いよく叩いた。皆、飛び上がって驚いた。特に定吉は、ひっくり返った。
「よし!訳はわかった。もう何も言わねぇ。なぁ定!俺も自分の意思で向こうに行ったんだ。もう文句はいわねぇよ」
光男の意外な言葉に、半信半疑になった定吉は念を押して聞いた。
「え?そ、それじゃあ、井野さん。許してくれるのかい…」
すると、光男は定吉の両肩を力強く鷲掴み、
「だがな定よ。俺たちゃ見ての通り無一文だ。だから頼む、働き口を世話してくれ。そうすりゃ、すぐにここを出てくよ。な、定、頼むよ」
その目は恫喝するように光っていた。
「働き口って…そ、そりゃあいいけど……ん?すぐにここを出ていくだって?…ん?ん?」
「要領の悪りぃ奴だな。だ・か・ら!まとまった金ができるまで、ここに間借りさ
せてくれって言ってんだ。金ができたらすぐに出てくからよ!な!」
傍で見ていた咲子と華も、阿吽の呼吸で詰め寄って、
「お願い!おじちゃん、野宿は嫌や!」
「後生だよ、定吉さん。アンタ、うちに貸しがあんだからね!ね!」
と懇願した。
遙海はポカンとして、その光景を見ていた。
その夜、長屋の住人達が集まってきた。
狭い定吉の部屋は一層狭く感じる。庭にも人が溢れた。
「そうかい、そうかい。アンタらも大変だったねぇ」
「ろくなもん、ねえけどさ、ま、一杯やんない」
「おいおい松ちゃんの酒はあぶねぇよ。こないだ泡吹いてひっくり返ったじゃねぇか」
「今日のは大丈夫だよ。いいの集めてきたんだい」
この長屋では、年中こうした宴が催されているようだ。というより、勝手に集まって来てしまうのだろう。
「ほら、有り合わせで作ったもんだけど、みんなも食べてよ」
住人の女衆がお盆にささやかな肴を盛って、ちゃぶ台に乗せた。
「そうそう、咲子さんの料理、うまいんだよ!ほら食べてみなよ」
咲子も住人に混じり、台所に立っていた。料理には自信があった。
「ほお!こりゃあうめぇな」
「どれどれ、ん!んまい!」
「咲子さん、料理うまいんだね~」
住人達は咲子の料理を食べては、その味を褒めた。
「まだあるから、沢山食べてとくれ。遥海ちゃんも食べな」
咲子は少しだけ得意げに笑うと台所に戻って行った。住人たちの人懐っこさと勢いに遙海は圧倒され、箸は止まったままだった。
「おうおう、こっちのお姉ちゃんは別嬪さんだね。綺麗な支度してさぁ」
「ホントだよ。アンタ親子じゃないんだって?なんでこんな所にいるんだい」
遙海は酔っ払いの住人に言われても、ぎこちない笑顔でしか返せなかった。
「おいおい、からむなよ。ここにいる奴ぁ、訳アリの人だって多いんだからさ」
定吉が住人を宥めた。
「おう、何だ、定、てめえ。俺たちゃただ身の上聞いてるだけだぜ。からんじゃいねぇだろうが」
「そうだぜ、定。てめぇ新参もののくせしやがって生意気だぞ」
「なんだと」
住人と定吉は立ち上がり、睨みあった。
「ちょ、ちょ、ちょっとやめてください!」
遙海は手を広げ、割って入った。
「私、詳しくは話せませんけど、帰る場所がありません。迷惑かけませんから、暫くここにいさせてください。お願いします!」
と深々と頭を下げた。
「お、お、いいんだよ。気にいりゃあ、ずっとここに居たっていいんだぜ。なあ!」
住人は、途端に甘い顔になって腰を下ろした。
「けっ」
定吉も腰をドスンと下ろし、酒を一息で飲んだ。
「そういえばねぇ、井野さん。八幡原にあるト所で人手足りないって言ってたなぁ」
マサと呼ばれている年配の住人が言った。
「ト所ってなんだい」
光男が聞くと定吉が割って答えた。
「豚とか肉の解体とかするところ。食肉工場」
「お、定。てめえ詳しいじゃねぇか」
「ああ、こいつもそこで働いてたもんな。だけどな、根性ねえからすぐ辞めちまったけどよ」
住人達は定吉を茶化した。定吉は舌打ちをして睨んだ。
「おいおい、もう止めねぇか、おめえ達。まったく…。でね井野さん、そこの所長
知ってるから話しといてみるよ。ねぇ」
とマサは光男の肩を叩いた。
「…みなさん、本当にありがとう!」
光男は突然、ちゃぶ台の両端をガバッと掴み、深々と頭を下げた。場は水を打ったように静まり返った。
「突然押しかけた、どこの馬の骨かもわからねぇような無一文の…」
光男の声は震え、言葉が繋がらず嗚咽となった。
「どしたい井野さん」
傍らの住人は光男の肩を撫でた。光男は声を振り絞り、言った。
「…こんな俺たちを、こんなによくしてくれて…」
大粒の涙がちゃぶ台に落ちた。マサは光男の空きかけたコップに酒を注いで
「いいんだよ、井野さん。昔っからよ、相見互い、っていうじゃねえか」
と優しい眼差しを向けた。
「うん?マサやん、あいみた?ん?何だい、そりゃあ」
対面に座る松っちゃんと呼ばれる男は聞いた。
「しょうがねぇな、おめえさんは。相見互いだよ。あ・い・み・た・が・い。困ったときはお互いさまってやつだ」
「へぇ、ほうなんかい!イイこと言うねぇ、マサやんは」
「そうだそうだ。まぁよ、俺たちゃ金は貸せねーけど手は貸すぜ!ってことだろ。なあ、がはは」
堰をを切ったように皆が呼応した。
「…本当にありがとう…」
光男は声を絞り出すように言った。華はそんな光男の背中に駆け寄り、顔を埋めた。台所で洗い物をする咲子は涙を拭った。
「おじさんも大変だったんだ…。それなのに…」
遙海は下を向いた。胸が締め付けられる想いだった。
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