第20話 滝の絵は世界の終末後のような静けさだった

 彼女が描いたという滝の絵を見た上原はその色や佇まいに感銘を受けた。

 彼女と会うのは久しぶりだったが、記憶の中の姿形のまま、あまり変わりがない。

 高校時代の上原にとって彼女は少し仙女めいたような憧れの存在だった。時間が随分流れたとしても、感情はすぐに一杯になりそうだった。

 伊藤伸香という、一つ年上の彼女は元々近所の幼馴染であった。

 彼女は幼少期からピアノを習っていたが、絵も好んで描いていた。

 小学生の頃、彼女の親が、とある宗教組織に勧誘され入信した。子供である彼女も親と共に入信させられてしまったらしい、と近所の噂で上原も知った。

 上原は伊藤伸香と同じ高校に進んだが、時折校内で見かける彼女はいつも一人だった。

 その教団はある研究者によれば、紛れもないカルトであり、信者の子供らは教団の指導者や親たちから、(神の名の下で)虐待されることが多発しているようだった。

 子供時分の上原は宗教のことはよく分からなかったが、彼女が描く絵や、上手いとされるピアノ演奏に微かな憧れを抱いていた。小学生の上原は、彼女の絵や音よりも、単純に年上の彼女が見せる表情や仕草にただ惹かれていただけかもしれない。


 その頃、町内の夏祭りで上原は迷子になってしまったことがあった。太い木のような、血管の浮き出た大人たちの手や腕が、ライトを浴びて我関せずと暗闇の中で揺れている。顔を上げて、知ってる人を探すがどこにいるのか分からない。祭囃子の中、子供たちの楽しそうな声も自分と全く遠い世界の出来事で、不安と共に暗闇での彼らとの距離は次第に広がっていく。

 大人たちの遠慮容赦ない和太鼓の音に上原が怯えを感じ始めた頃、泣き出しそうな彼を見つけたのが伊藤伸香であった。

 上原の親が現れるまで、彼女と二人でパイプ椅子に座り、町内会の役員テントで水袋の金魚を見ていた。


 近所の子供たちの間で何かあったときなど、不思議と上原の側に立ってくれたのも彼女だった。


 宗教の噂を聞いてしまったときは、親のせいで強制的に子供も組織に入信させられるのは間違っている気もした。しかし、まだ子供なのでどうしようもないのかもしれない。


 彼女たち一家は、宗教の噂が立った時以来、近所から距離を置かれるようになった。それ以前に仲良くしていた知人たちも、周囲の目を恐れてよそよそしくなった。

 

 親たちが彼女ら一家のことを冷ややかに言うのを上原は子供ながら暗澹たる気持ちで聞いていた。

 宗教とやらを信じるのはそれほど悪いことなのだろうか。

 彼女たちは即座に悪玉や、暴力的なテロリストになるような恐ろしい存在なのだろうか。

 その団体について調べもせず、ただ風聞のみで知ったようなことを言う親たちは、むしろ自分たちの無知をひけらかしているだけなのではないかと上原は思った。

 上原は、しかし、自身で子供ながらその団体について調べても、あまり良い話は出てこなかった。

 あり得ないことだが、もし上原が彼女から信心を勧められたとしたらどうだったろうか。彼は彼女のことを嫌いになったかもしれない。

 しかし、確かに彼女は信心について、一言も彼に何も言わなかった。

 

 上原は大学生になり、地元を離れ、彼女とも疎遠になった。


 離れると、記憶の中で彼女の姿は次第に理想化されていった。


 彼が持っている彼女の写真は子供の頃に一緒に写っている数枚しかなかった。


 近所の子供たちと映っている写真で、彼らは何も意識せず、ケーキなどを食べている。


 昔からの信心によって、彼女の描く絵や演奏する音は何か変わったのだろうか。


 宗教団体での彼女のことは上原は全く何も知らなかった。

 しかしどんな団体に関わっていようとも、彼女の演奏や絵画は何かのための宣伝や広告ではなく、彼女自身のための音楽、彼女の心から流れ出る、苦痛の果ての音であり色であり線であると上原は常に感じていた。

 なので上原は彼女が団体に属して居ようが居まいが、彼女の絵や演奏が好きであった。口さがない周囲の風聞と家族での信心の中で、彼女自身色々と考え抜いていたに違いなかった。だがそのような素振りを見せず武家娘風に凛とした彼女の姿は尊敬に値する存在として上原の目に映っていた。


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 久しぶりに会った彼女はやはり高校生のときのような目をしていた。

 彼女は結婚して北海道に住んでいた。

 彼女の絵を上原が好きであることを、彼女自身も勿論知っていた。

 なので今日、彼女は自分で描いた絵を持ってきたのであった。

 滝が中心に描かれた風景画は、彼女の住む北海道のどこかなのだろうか、それとも幻想風の心像景色といったようなものなのだろうか。

 コンピューターグラフィックスめいた緻密なサイバーパンク風の蛍光的な描き込みもあり、また所々コラージュ風に塗り合わされた無人の景色は、どこか崩壊の予兆を感じさせ、世界の終末後のような雰囲気を湛えている。

 特筆すべきはその、青く一帯に塗り込められた不思議な静謐さだった。


 上原は彼女が自分のことを憶えていてくれたことも嬉しく、しかしあからさまに上気するのも恥ずかしかった。

 子供の頃、上原が迷子になったときのように(今は彼女が彼を見上げていたが)彼女は顔を上げて彼を見た。

 上原は気持ちを見抜かれたような気がした。彼は子供じみて彼女から目を逸らせた。

 彼女が手にしている滝の絵を、改めて、今そこにあることに初めて気付いたように、大袈裟に上原は見た。

 その絵と同じような景色を、青白い滝を、どこかに自分で作りたいなと、突拍子もないことを上原は思った。

 彼女は黙ってしばらく彼を見詰めていた。


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緊張的微笑 上田カズヤ @ikebanas

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