第11話 雨の日の地下室

 外は雨が降っているようでしたが、地下室は窓もなく、今が何時頃なのかも分からなくなりそうでした。


 そこは古くから付き合いがある女友達の家でした。いや、正確には、数年前に結婚した彼女と旦那さん夫婦の家です。


 私は友人らと何度かその家に招待されたことがありました。彼女の旦那さんは、ヨシさん、と呼ばれているのですが、彼は父親から家業を継いだ二代目社長なのです。


 女友達はマキ、という名なのですが、マンガと音楽が好きな明るい女の子でした。


 ヨシさんは子供の頃から帝王学のようなものを学んで育ったらしく、正に「社長になるべくしてなった」というような人物です。


 企業の社長というと、私は過去に仲違いばかりしてきて、あまり良い印象を持っていませんでした。


 私の好きな自由闊達、豪放磊落なエッセイマンガ家も「きらいなもの:社長」とはっきりプロフィール欄に書いています。


 私がこれまで見てきた社長たちに問題があったのでしょうが、どうにも傲慢で威張り散らしている印象があるのです。

 

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 ヨシさんの妻となったマキさんはすばらしく気が利く人でした。学生時代の妻の友人らが大挙して来訪しても、ヨシさんとしてはあまり楽しくないかもしれない。


 結婚式での彼の姿を覚えていますが、披露宴でも終始やはり社長然として、厳粛そうな面持ちをしていました。


 強固な鎧を常に身に纏っている感じです。毎日が気の抜けぬ戦闘状態なのだと思いました。いつ寝首をかかれるか分からない、ということもあるのかもしれない。


 言葉少ない普段の彼を見ると「ああ、この人は、生き馬の目を抜く戦国武将のような気概なのかもしれない」と、彼我の差を隔世の感として、他人事ながら感じたともあります。


 彼には父から引き継いだ会社があり、また五百人近い従業員らもいます。彼は北関東の小都市で会社を経営しており、マキさんも結婚以来、かの地へ引っ越しました。


 私は彼女らと数人で学生時代にマンガを気軽に描き合っていました。


 彼女には独特なセンスがあり、描く線は華奢でしたが、絵には滲み出るような優しさが感じられました。


 夫婦の家には、マキさんが鉛筆で描いた夫の絵が飾られていました。ヨシさんの祖母がその絵をとても気に入っていたそうです。


 現代の戦国武将である彼とは、私はほとんど喋ったことがありません。


 くり返しになってしまいますが、やはり彼は全身フル装備の中世ヨーロッパ式甲冑を身に付けている感じなのです。社会人となり、世の中で生きるためには、誰しも甲冑や鉄兜、鉄仮面が必要なのだとは私も分かってきました。


 しかしどうしても、自身、書生気質のようなものが抜けず、できることなら鉄面皮などすぐに捨て去りたい。また、権力というものに対する、抜きがたい嫌気というのも、自身のどこかに強くありました。


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 その日は雨が降っており、夕方に紅茶をごちそうになった後、私たちは地下の音楽室に行くことになりました。


 夫がマキさんのために作った音楽室らしかった。彼女は古今東西、色々な音楽を好んで聴いていましたが、最近、演奏も始めたらしい。


 高級スピーカーセットのある鑑賞室と、完全防音の演奏室がありました。

 私はその設備に圧倒されましたが、マキさんの人柄に、その部屋々々は不思議と似つかわしく感じた。


 私はリスリングルームの機材棚に一本のカセットテープを見つけました。級友らはやはり部屋の豪華さや静けさに、やんやと嬌声を上げています。


 テープは古いらしく、カセット形式でリリースされた数十年前の物らしい。どこかで見たことがあると思いましたが、それは私の知っている、既に解散してしまったバンドの物でした。


 私はこれをずっと聴いてみたかった。なぜかカセットでしかリリースされず、ほとんどの人が「見たこともない」という貴重な音源です。


 これはマキさんの物だろうか、いやこの音楽は彼女の趣味ではない。このカセット、借してもらいたいなとずうずうしいことを思っているとそこにヨシさんが来ました。


 私がそれを手に、彼の目を見ると、彼は眩しそうな顔で、何か閃いたような表情をします。


 私はバンド名を口にしようとしました。すると彼が英単語を口にします。

 バンド名は、英語の動詞を四つ並べた奇妙な物でした。


 このカセットテープはヨシさんの物だと分かりました。私は今すぐにでもこの部屋で大音楽を聴いてみたい。


 ヨシさんは海外留学中にそのカセットをたまたま入手したらしい。ミュージシャンズ・ミュージシャン、音楽家にとりわけ評価されている、ポストロック名バンドの幻とされるアルバムです。


 私は興奮してヨシさんにアルバムのことを話そうとした。


 するとそのとき、近くにいた男性(私のよく知らない、ヨシさんの会社関連の方)が、そのカセットに気付きました。


「ヨシくん、これ、貸して」と彼はテープを取り上げました。


 ヨシさんはやや逡巡していたようですが、私は何も言えなかった。しばらく待ち、私は手のひらを裏返し、どうぞ、という仕草をする他なかった。


 どうしても往生際の悪い私は、今この場でテープをダビングできないかと考えました。


 パソコンに繋げば音を録音できる。


 周りの旧友たちは、これからお酒を飲み始めるようで、楽しげな雰囲気が伝わってきます。


 私は離れに自分のノートパソコンを置いてあるのを思い出しました。ヨシさん家の敷地は広く、離れに荷物を置かせてもらっていたのです。


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 地下の音楽室を出ると、外はすっかり暗くなっていました。


 大雨になるようで、地面は泥水ですっかりぬかるんでいます。


 子供らを迎えにいった近くの母親たちでしょうか、周囲からは、急かすような声で「早くなさい」「早く行きなさい」などと声が聞こえてきます。


 これはものすごい降りだ、と私も思いました。雨の音で周りは何も聞こえないほどです。足元も暗く、雨で視界は遮られ、水の跳ねる音、流れる音だけが延々と聞こえています。


 音楽のコピーなどする必要あったかなと私は思いました。それでも私は川のようにぬかるむ地面を歩き、機材を取りに離れへと向かいました。


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