第7話 3文字で呼んでいいよ、と彼女は言った

 大学の教室に入ると知り合いが教壇に座っている。前の職場で一緒だった大澤さんだ。彼は出版社勤務のはずだが、なぜこんなところにいるのだろう。


 深く考えることもなく、私は小クラスの席についた。


 と、後ろにも学生らしい姿の大澤さんがいる。教壇の大澤氏はその存在に気付いているのだろうか。同じ人物が二人、同じ場所にいることにさしたる疑問もなく授業を受けた。


 教室の窓は大きく、日射しが強い。真新しい白い机がまぶしい気もする。

 大澤教授は人徳者のような顔でにんまりとほほ笑んだり、大柄な体から冗談を言ったりして和やかな空気で授業を進めた。


 私は「知り合いが授業をしているな」と思いながら、後ろの「もう一人の大澤氏」のことも気になった。


 あと数分で授業が終わる。終わったらどっちに声を掛けようか。大澤さんはまだ私のことを憶えているだろうか。


 トレーナーにジーンズ姿の気さくそうな学生大澤さんに話し掛けようと思った。一体これはどういうことなのか。


 よくあることなのかも知れない。教授の大澤さんも大して気にしていないようだ。あと数分。もうすぐ授業が終わる。少し耐えれば謎が解ける気がする。貫禄もある手慣れた大澤教授には悪いが、授業が早く終わらないかなと思った。


 そのとき、学生大澤氏が教室から出て行ってしまった。バスケチームのトレーナで辺りを気にせずに退出する。


 教授もその行為には目を丸くした。大澤さんと私はそこで初めて目が合った。やはり、それがもう一人の彼自身であることを大澤氏は認識していたようだ。「彼は熊本出身でしょう…」と教授は授業と関係ないことを呟いた。


 彼は熊本出身だった。


 やっぱり気付いていたんだな、と私はなんだか気が楽になった。


 授業が終わると私のすぐ後ろに、以前から気になっていた女子学生がいる。声を掛けると、意外にも彼女はあけすけに口をきいてくれた。私が苗字で呼ぶと、彼女は「3文字で呼んでいいよ」とまたもや意外なことを言う。3文字とはどういうことか。


 彼女の下の名で呼んでいいということだろうか。思いもかけぬ許可だ。僥倖ではないか、と思うが一瞬彼女の名を忘れた気がする。彼女は「美紀」という名だった。3文字ではない。彼女は何と言ったのだろう。3文字、ではなくひょっとして「3秒で呼んでいいよ」と言ったのだろうか。


 私は確かめることもせず、隣の女子学生と楽しそうに喋る彼女の横顔を見た。何を話しているのか声は聞こえなかった。

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