第8話 切り替え

「聡美」

 雄斗に耳元で囁かれるとゾクゾクする。低く響くその声はうなじをビリビリと痺れさせ、私の体から力を奪う。

(すご……)

 間接照明に照らし出された雄斗の体。陰影がくっきりと強調され、ギリシャ彫刻のような美しさだ。肌の下で息づく血潮が、影の形を時おり変化させる。

(好きだわ、この体……)

 映画で見るマッシヴな俳優たちの体に惚れ惚れしていても、あくまでそれは画面の向こうの存在だった。けれどそれに匹敵する偉丈夫が今、目の前にいる。私は手を伸ばし、雄斗の胸にじかに触れた。

(わぁ……)

 軽く押した指を、跳ね返す弾力。みっしりとした手ごたえ。

「ふふ」

 そのまま手を下方へと滑らせる。ごつごつとした岩肌のような腹筋。呼吸に合わせてゆったりと波打つ体。熱い肌。

「聡美」

 手首を掴まれ、次の瞬間荒々しく唇を奪われる。堰を切った激情が、私へと襲い掛かってきた。

(ワイルドすぎ!)

 かつて味わったことのない力強い行為に、新鮮な興奮を覚える。私を見下ろす瞳は、獲物を狩る肉食獣そのものだ。動きも与えられる刺激も、全てが大胆だった。

(だけど……)

 物足りない、と感じる。孝行との時は魂に寄り添い満たし合うような幸福感がある。その心からとろけるような快楽を知ってしまった私にとって、雄斗の行為はただ荒々しく即物的なものとしか思えなかった。

(まぁ、夢だし)

 私のイメージが貧弱ということなのだろう。孝行以外の男性を私は知らないのだから。

(……こんなものか)

 期待をしていた分、肩透かしをくらった感じだ。雄斗が満足げに息をつき倒れ込むまで、私は冷めた気持ちで天井を見上げ、なすがままにされていた。


(なんで……?)

 私が目覚めたのは、スプリングの利いたベッドの上だった。和室の布団の上ではなく。

「おはよう、聡美」

 ホットサンドと湯気の立つティーカップを乗せた銀のトレイ。それを持った雄斗は、少しきまり悪げに笑っていた。

「昨夜は無理をさせちゃったね、ごめん」

「あ、うん……」

トレイをサイドテーブルに置き、雄斗は裸のままの私を抱きしめる。

「やっと聡美を抱くことが出来て、止めることが出来なかった……」

「……そう」

「まだ、動くのつらいだろ。ここで朝食を食べる?」

「うん……」

 ホットサンドを口に運びながら、私は辺りを見回す。

(どういうこと? この部屋で目覚めるなんて……)

 これまでは、孝行との現実世界で眠りにつくと雄斗の夢の世界へ、雄斗の夢の世界で眠りにつくと孝行との現実世界で目を覚ましていた。

(なのに、私はまだ夢の世界のまま……)

 パリパリとしたサンドイッチの中に、香りのいい生ハムの弾力がある。食べなれない高級品の味だということは分かるけれど、私は心の底からそれを楽しむことが出来ない。

(どうして現実世界で目覚めないの?)

「聡美」

 ごつい指が、私の口元についたパンくずをつまみ取る。

「子どもみたい、可愛い」

「……そう、かな?」

 私はこわばる頬で、何とか笑顔を作る。

(まだ、夢が続いてる……)

 昨夜の雄斗との営みは、好奇心こそ満たされたものの、そう何度も体験したいものではなかった。一度で充分だ。それよりも孝行の細やかな指先が恋しい。

「聡美、今日はどこに出かける?」

「……ちょっと無理かも。体キツくて」

「そっか、じゃあゆっくり寝てるといいよ」

 固い指が私の髪を撫でる。孝行の優美な指とは違う。愛情は伝わってくるものの「夫」じゃない。「他人」の指だ。

「じゃあ、これを食べたらもう少し寝かせてもらうね」

 きっと眠りにつけば、現実世界で目が覚める。それを期待して私はやわらかな羽根布団に潜り込んだ。

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