二人での登校 —— 安藤彩紗

「ねえ加藤君 …… 数学教えてくれない?」


 中学三年の初夏、私は一人の男の子——加藤大揮君に声をかけた。つい一週間前に席替えで隣の席になった男の子。そして、前から少し気になっている男の子。交わした言葉は席替え当日の「よろしく」の一言だけだけど……。


 彼が、読んでいた本から顔を上げてこっちを向いた。お互いの目が合う。


(あっ、意外とかっこいい……かも)


 けっしてイケメンとは言えない(完璧な悪口)けれど、整った顔立ちをしている。そんな優しげな顔にさらに惹かれてしまったのかもしれない。目を合わせたまましばらくその状態で止まっていたからか、自分の頬が少し赤くなるのを感じた。

 

「僕でよければぜんぜん。でもあまり得意なほうではないけど大丈夫?」


 体感では5分、現実世界では10秒ぐらいだろうか……そろそろ緊張で限界なとき、彼は本を閉じてそう答えた。

 緊張が一気に解け、私は心の中で静かに喜んだ。それと同時に少し気になることが————


(確か加藤くんって数学3位だったような……)


 そう、この中学校では定期テストで成績上位者はその学年に開示されることになっている。もちろん拒否することもできるが開示されて困ることなんて、『勉強教えて』と懇願されるぐらい(と、夏月に聞いた)のでだいたい上位50人全員の名前が載っている。

 ちなみに私は学年250人のちょうど半分ぐらいの順位を入学当時からうろついているので一度も載ったことはない ————— 勉強はしてます!

 それでも成績はなかなか上がらず……その中でも数学が一番苦手な科目であるのでこうして頼んでいるわけです。(もちろん夏月に頼んではみたものの、ニヤニヤされながら断られました)

 

「でもこの前のテスト数学の点数とても高かったじゃん。教えてくれると嬉しい……かも」


「そっか……なるべく善処するよ」


 そう言った彼の微笑は少し可愛かった。いや、私は数学を教えてもらうために彼に話しかけたのだ。その目標は達成された。ほかの目的なんてない……はずだ。

 こうして私は隣の席の男の子・加藤大揮くんに、数学含め、いろいろな教科を教えてもらうことになった。

 

◇◇◇


 最近、中学時代の夢をよく見るような気がする。しかもなぜかすべての夢に彼が出てくる。朝から少し幸せ…………というのは置いといて、成人式での出来事が原因なのだろうか……。


 そして今、心臓がはち切れそうなほどの緊張感が私を襲っている。目の前には一台のスマホ。開いているのはメッセージアプリの画面。さらにコメントを打つところには


『よろしければ明日、一緒に大学に行きませんか?』


の文字。そして私の親指が送信ボタンの上で硬直している。


(押すんだ私……押すんだ)


 部屋の中を歩き回りながら、この言葉を頭で繰り返してすでに数分が経過している。


◇◇◇


 ちなみに今日も大学で陽菜にしっかりと脅されてきた。


「今日が山場やからな彩紗」


 2限の英語の授業、陽菜がいつも通り隣の席に座ったと思ったら開口一番これである。手に持っているスマホの画面には先日撮ったあの盗撮写真。顔は……うん、想像通りニマニマしている。


「でも……どうやって誘えばいいんだろう?」


「そんなもん 『明日一緒に大学行かない?』 って送れば大丈夫だと思うけど」


 陽菜が『当然だろ』みたいな感じで言ってくる。そんなに簡単に誘えるなら私だって困ってない。彼女のこの潜在的な特性は少し羨ましく感じる。


「さすがにそんなに軽くは誘えないよ……」


「まあ彩紗だもんな。そうだなぁ…… それじゃあ、『よろしければ明日、一緒に大学に行きませんか?』 ぐらいならいけるでしょ」


「それぐらいなら……」


「よし決定だ!それじゃあ今日帰ったらさっそく送ってね。そしてその画面スクショして見せてね」


「え、なんでスクショ?」


「なんでって…………面白そうだから?」


「……気が向いたら送ります」


 多分……いや絶対送らない。送ったらその後、質問攻めにあう気がする……。まあ送らなくても質問攻めはされると思うけど。

 その後もたびたびいじられながら今日の講義を終えて家に帰った。


 そしてこの状況である。いつも最後の最後で一歩踏み出せない。昔からの自分の悪い癖の一つだ。

 そんなこんな考えていると数分、また数分と時間が経過していった。普段は結局このまま何もしないで終わってしまうことが多い。ただ今日の私は違った。救いの手が差し伸べられたのだ。(完全にその人のおかげである)


 一つの通知音が鳴った。それと同時にバナーに文字が表示される。


『ハイ、息吸って―』


 陽菜からのメッセージ。頭にという文字が浮かんだが、気分転換も兼ねて何となく従ってみることにした。


『はい吐いて—』


(ハァー)


『もう一回吸って―』


(スゥー)


『吐いて—』


(ハァー)


『そのまま親指動かして—』


(ポチッ)


『どう、送れた?』


………………


——— そう、私には人に流されやすいという癖もある。昔から『こっちでいい?』と聞かれると『うん』としか答えたことないし、『今度の休み、遊園地行こ~』と言われると、よっぽど大事な用事がない限り行ってしまう。そしてこの流されやすさともう一つの悪い?癖が原因で今の趣味にドハマりしてしまった。——————この話はもしこの物語が進むとしたら絶対に避けては通れなくなるだろう……。




 私は今、自分の部屋で立ちすくんでいる。一種の放心状態になっているのかもしれない。

—————送れた。送ってしまった。チャット欄には今送ったメッセージがはっきりと表示されている。

 送ってしまったからには返信を待つしかない。気持ちを切り替える。10分……30分……スマホとにらめっこしているがなかなか既読が着かない。そろそろ心臓が限界になりそうなときにまた一つの通知が届いた。


『そういえば大揮なら多分寝てるで』


 ……そうか、そうなのか。


(それを先に言ってよ……)

 

 この緊張はどこに逃がせばいいんだろうか…………

 とりあえず陽菜に軽く怒りの返信をして、気を落ち着かせるために冷蔵庫から杏仁豆腐を取り出すのだった。


◇◇◇


少したって、スマホを覗くと返信が来ていた。

 

『もちろんいいよ』


 来ていたのはこの短い一文のみ。でも私はとてつもない嬉しさと安堵感に包まれた。とにかくこの結果を陽菜に…………は伝えないでおこう。少し助言が欲しい気もするが下手にネタにされるのも困るし、少しは自分で頑張ってみたい。文字を打っては消す、打っては消すを繰り返す。そして最終的に私が考えに考え出した返信がこれである。


『ありがとうございます!それでは明日の7時に梅田駅に集合でもよろしいでしょうか?』


 私にしては意外といい文章を書けていると思う。少し硬くなっている気はするけれど……、感謝の気持ちと必要なことは書かれているし大丈夫だろう⋯⋯多分。

 送信するときに一度押しているからか、さっきほどの緊張感はなかった。

 送信して、そのまま両手でスマホを持って立ち止まる。こうゆう風に待っている時間が一番緊張する。少し汗が出て来た。のども乾いてくる。何も考えていないともたないと思ったのでとりあえず返信の内容を考えておく。——————と、しばらくして


『うん、いいよ』


と返信が来た。


『では、また明日』


と、考えていた言葉を返す。そして


『こちらこそ』


と返信が来る。

 とにかく私はホッとした。それと同時に心の中では、はしゃぎたいほどに喜んでいた。ただここで心を躍らせていてはいけない。本番は明日なのだ。

 そうしてスマホを閉じ、明日の準備を始めるのだが……


「服装どうすればいいんでしょう……」


 私も一人の女としてファッションについてはある程度の知識は備えている。ただ、こういう大事な場面に遭遇することは珍しい。

 そう思ってとりあえずクローゼットの中を探る。

 一番最初に思いついたのは、高校の頃、ほかの人とのデートに使った服。でもこれはあまり着たくない。理由は……そんなにないけど、なんか縁起が悪いような気がした。この服を着ていったデートであんなことがあったから。 

 そして次に目に入ったのは白色のジャケット。なんの変哲も無いジャケットに何故か目を引かれた。


(これにしてみますか……)


 普段もたまに着るこの服。とりあえずこのジャケットを基準にして明日の服装を決めた。そして今日は眠りに落ちた。


◇◇◇


 翌朝、5:20。いつも通りの目覚まし音で起きた私は朝食を作る。今日のメニューはトーストを一枚とヨーグルト。ほとんどいつもと同じ。でもやはりこの変に高まった気を落ち着けるためには、普段通りが1番いい

 朝食を食べ終わり、顔を洗い、少しメイクをして、昨日選んだ服に着替える。そしてと自分に気合を入れて家を出た。


 梅田駅までの道のりは歩いて20分。私はドキドキしながらいつもの大学への道のりを歩く。

 駅に着くと彼の待っている姿が見えた。加藤くんのことなので早めに来るとは思っていたので私もなるべく早く家を出たつもりではあったのだがそこはさすが彼である。

 待たせてしまったことに少し罪悪感を覚えながら小走りで彼のほうへと急ぐ。


「ごめんなさい待ちましたか」


 とりあえず待たせてしまったことに反省を述べる。


「い……いや、全然待ってないよ。まだ待ち合わせの15分前ですし……」


「そうですか。それなら良かったです……」


 とにかく安心した。私のほうから誘っておいて待たせてしまったことに関しては顔が立たない。  

 ホッとして改めて彼のほうを見ると何か違う緊張感に襲われた。心臓がドキドキする。無意識で顔を逸らしてしまった。


(これ大学着くまで持つかな……)


 もしかしたら私の顔は赤く染まっているかもしれない。

 もう一度彼のほうを向いてみる。そうすると彼の顔がものすごく熱くなっている気がする。


「もしかして少し体調が悪いのですか……」


 心配になって聞いてみる。ここで熱を出したならこんなに朝早くから来させてしまった私にも非がある。そうしたら私が看病とか何とかしないと……


(って看病って何すればいいの……?救急車呼んでとりあえず病院?そして病室で二人きり…………)


「いや、全然平気だよ。そ……それじゃあ行こっか……」


「ハ……ハイ……」


 変な想像をしてしまった気がする。少し死にたい……。とにかくあんな展開にならなくてよかった……、と思いながら歩いていく彼の横をゆったりとついて行く。彼はどうやら私にペースを合わせてくれているようだった。そうゆうところが彼の魅力の一つである。


 そしてようやく二人は電車に乗り込んだ。

 

◇◇◇


 ちなみに今日の加藤くんの服装はフラットな感じでとても安心する。なんか彼らしい。


 


「きょ……今日の服、とても似合ってるね」


 電車に乗ってしばらく、ふとそんなことを言われた。咄嗟に心臓のどくどくが早くなる。


「ありがとう……」

 

「…………」


「…………」


 話が進まない。しかも彼がせっかく話を振ってくれているのに私が簡単な言葉で返してしまっているせいで会話が途切れてしまう……。でも、緊張からかなかなか言葉が出てこない。自分はなんて情けないのだろう。

 そうしているうちに乗り換えの駅につき、二人並びながらも何も話さないまま電車を降りて歩く。


 次の電車を待っている間、また彼が話を振ってくれた。


「きょ……今日は誘ってくれてあ…ありがとう……」


「……こちらこそ」


 また簡単な言葉しか返せない。こんなんじゃ昨日勇気を出して誘った意味がない。でもなかなか言葉が思いつかない。何も言葉はないのに、話そうと口を開いては閉じて、開いては閉じてを繰り返している。

 ただここで横から彼の声が聞こえた。


「あ、あの……もしよかったらこれからもたまにでいいので……一緒に登校しませんか……?」


 会話が続くのを予想していなかったからか、それともその言葉の内容があまりにも衝撃的だったからか、言われたときその言葉の意味が全く呑み込めなかった。そして、だんだんと時間がたっていくうちに彼の言葉の意味を脳で少しづつ理解していく。そして理解していくと同時にうれしさと驚きの感情が自分の中から湧き出てくるのを感じた。ぐらい


「あ……えっと……今のは……」


「……いいよ」


「えっ……」


「わ……私も一緒に登校したい…………かも」


「う……うん」


 私はもう喜びで自分が何を言っているのかも理解するのに戸惑るぐらいだった。そして顔を湯気が出るぐらいに赤めるのだった。もちろんそんな顔彼には見せるわけにもいかず、しばらくの間下を向いていた。


 そこでこの登校中、一番長い会話は終了した。


 


しばらくして電車が来た。

今日は今までにないくらいいい気分で過ごせるような気がする。


(でもとりあえず陽菜の質問攻めには堪えないとね)

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