第一章 死王⑨

 皇后が延明たちを使って女官を誘惑しようとしたように、宦官と女官が恋仲になることはそう珍しい事ではない。

 そしてまた、男を切りとられている宦官が性的に興奮すると、その発散に行いがちなのが咬むという行為だった。嚙み、め、発散できない欲望に苦しんだのちに、どっと汗をふきだして終わるのだ。この苦しみの最中は嚙み傷が深くなってしまうことも珍しくない。

「い、いや……。待ってください。さすがに決めつけすぎではありませんか? 破傷風や感染箇所に関しては納得しましたが、なぜ嚙んだのが宦官だとわかるのです? それこそ他の女官とのけんかもしれません」

「──それは、彼がこう言ったからですわ。『死王は三区にいる』と」

 なにをいっているのか。延明はそう問おうとして、思い出した。

 死王、三区──そういえば、そのようなことを口走った者がいた。

「小少、ですか……?」

 あのおくびようものの後宮宦官だ。

「ええ。そして先に明らかにしておきたいのが、病床に伏せる碧林の世話をしていた何者かがいる、ということです」

「……聴きましょう」

 うながすと、桃花は「では」とくちびるを軽く湿らせるようにしてから、口を開いた。

「破傷風は開口障害を伴うと、先ほど申しあげました。こう、歯を嚙みしめ、歯ぐきをむきだしたような状態でほとんど開かなくなるのです。えんにも障害を伴うことがあり、重症の場合、身体の激しい痙攣もあります。ですので、運ばれた生薬をたったひとりで毎日しっかり飲んでいた、という状況はおかしいのです」

 そういえば、と高莉莉の言葉を思い起こす。

 高莉莉は『運んでいただけだ』と証言していた。飲ませたりはしていないと。そして、『次の日には空になっていた』とも。

「それだけではありません。症状が進んで、弓なりになるほど全身に痙攣がおよぶと歩行も困難になりますから、はいせつの問題もあったでしょう。しかし遺体検分の際、衣服にあったのは少量の失禁だけ。大も小も何日もたれ流したという感じではありませんでした」

「……女官のだれかが下の世話をしていたのかもしれませんよ」

「ならば、なぜ薬湯を運ぶ役を引き受けなかったのでしょう? わざわざ下の世話をするほど親身であったのなら、心情的に、薬の入ったわんをただ置いていくだけの高莉莉さんに任せておけるでしょうか」

 つまり桃花が言っていることはこうだ。

 碧林には、病で隔離された彼女のもとへと通い、薬湯をのませ、排泄の介助、あるいは片づけをするほど親身であった人物がいた。

 その人物は親身ではあるが、なぜか薬湯を運ぶ役を引き受けることはなかった。

「では桃花さん、それが小少であると思った理由を教えてください」

「昨夜、三区の前についた時のことです。ひどくおびえた彼は、風で物が転がる音におどろいて、こう叫びました。『やはり三区は呪われている。やはり死王はまだ三区にいるんだ』と」

 一挙手一投足を覚えているというわけではないが、延明は記憶力のよいほうだ。たしかに小少はそのように口走っていたと思われる。震えあがった小少は、そして逃げてしまったのだ。

「妙だとは思いませんでしたか? これは挙げ足をとるようでお恥ずかしいのですが、わたくしは彼の言葉が引っかかりました。『やはり』という言葉は、『案の定』ということです。思っていた通り、あるいは予想していたことが裏づけられたときなどに主に使いますね。ということは彼はあのとき、『三区は呪われている』『死王は三区にいる』と、もともと考えていた、ということにはなりませんか?」

「それがどう妙なのでしょう。なにせ、李美人の三区です」

「思い出してください、死王の噂を。死王は母のうらみを晴らすため、はずなのです。ですので、李美人が住んでいた三区を気味悪くは思っても、そこに死王がいるなどと考えるのは合理的ではないのですわ。なにせ三区にはいま、ひんはひとりもお住まいではないのですから」

 ──たしかにそうだ。

 延明はこくりとつばをのみくだした。謀殺の首謀者と目される妃嬪は、三区にはいない。現に、夜警女官が恐れていたのは、李美人をいびっていたことで有名な梅婕妤が暮らす一区だった。

 一区での目撃情報が最も多いのだ、とも言っていたではないか。

「それに、『まだ』という言い方も気になったところです。『まだいる』とは『依然としている』と言い換えることができます。つまり『死王は依然として三区にいるのだ』ということになります」

「──つまり、小少は三区のなかで死王を見たことがあるのだ、と、あなたはそう言いたいのですね」

 正確には、三区で異様な容体でせる碧林を見たことがある、だろう。

 高莉莉がそうだったように、碧林の症状を呪いだと思いこんでもふしぎではない。

 しかし、小少は後宮の門番である。三区に足を踏み入れるような用向きがあったとは思えない。夜警もはじめてということだったから、夜警で碧林の容体をのぞいたとも考えにくい。

 ではいったいいつ、病床の碧林を目撃したのか。

 それに対する答えが、碧林の指にあったみあとであり、病床にある碧林の世話をしていた人物の存在であると、桃花は言いたいのだ。

「たしかに、碧林と小少は恋仲だった──そう考えるとつじつまが合う。彼が薬湯をみずから運ぶことをしなかったのは、できなかったからですか……」

 水面下では絶えないことだが、表向きは宦官といえども女官との密通は罪だ。高莉莉や宮女たちに声をかけることはできなかっただろう。

「ですので延明さま、もし可能であれば、どうぞもう一度明るい昼の陽ざしのもとで、あらためて遺体の調査を。夜のうちには見つけることがかなわなかったあともまだあるやも知れません。『棺内ぶんべん』の件も含めて、死王騒動の収束は娘娘ニヤンニヤンにも悪い話ではないと存じますわ」


    ***


 大光帝国宮城の西──自然豊かな離宮『ひやつえん』はその日、華やぎに満ちていた。

 紅白の梅やレンギョウが咲き乱れるなか、宮廷のりようりにんが腕をふるった豪華な料理や酒、もち米餌だんごなどの甘味が振る舞われる。

 穏やかな空に響くのは、楽士による笛やたてごとの奏楽だ。それにあわせ、花よりなおまばゆい装いのきゆうたちが舞う。

 しつらえられた座からそれらを楽しむのはみかど、そして皇后だ。いつもは帝の左右にはべちようたちは今回、やや離れた座からうたげを囲んでいる。なにせ、今回は皇后の働きを賞揚するための宴でもあるのだ。


「ふうん、梅しようのところにそんな隠し玉がねえ」

「隠し玉と言うか、べつな理由で隠されているだけでかされてはいないというべきか……」

 離宮での宴には同行せず、留守を預かることになった点青と延明はふたり、座卓を囲んでさかずきを交わしていた。

 今回の件での褒美にと、主人から休暇と酒を賜ったのだ。

「ああなるほど、帝の目に留まりそうな女官は梅婕妤が手もとに置いて管理してるってやつか。で、どれほどの佳人だった?」

「佳人……。佳人と言うのにあれほど抵抗のある女官はいませんね。あれはぐうたら寝ること以外に野心を持たぬ、言うなれば老猫です」

「おまえ、落とせなかったからって根に持っているな?」

「いいえ。あれは女色家ですから落とせようはずもありませんね」

 にっこりと笑みつつ、くちびるの端がひくつきそうになる。

 延明は灯ろうを持たされてしまったときのことを思い出した。手と手が触れあったのに、いったいなにをどう勘違いしたのか、灯ろうの持ち手を押しつけられた。しゆうに頰を染めることもなく平然と、だ。

 卑しいかんがんに触れられたと嫌悪の目で見られるならまだわかるが、あんな反応ははじめてだった。

「おまえなぁ……。すこしは感謝しとけばいいのに、その老猫女官に。おかげでこうして、昼間から酒をちまちまやりつつ羽をのばせているんだろう」

「感謝もなにも、向こうは敵陣営ですよ」

「その敵陣の伏兵からこっそり塩を送られたわけだ」

 たしかに、点青の言葉は間違ってはいない。桃花の助言を受け、延明は皇后の名のもとに、碧林の再けんを手配した。

 碧林の遺体は、城外にある西の共同墓地にて埋葬されていた。埋葬といっても身分が低いので、ゴミを埋めるのとやり方はそう変わらない。あわれにも思える境遇だが、いちおう埋葬されていたのが幸いした。土中では腐敗の速度がゆっくりになるのだという。

 掘り返されたとき、まだ碧林の体には皮膚も肉もきれいに残った状態であり、桃花の指摘した通り、乳房や秘部からも薄い歯形を検出することができたのだ。そしてそれらは見事に小少の歯型と一致した。

 皇后はこれらのことから小少を大々的に捕縛し、死王にき殺されたと騒がれる碧林の死については、小少による『傷害致死』であったと発表した。

 同時に死王騒動についても自然力──すなわち腐敗による自然現象であると後宮下々にまで通達し、また、おなじく帝にさい報告をした。

 これに伴い李美人の父、そしてひつぎの再掘にたずさわった検屍官や役人などが、妄言を流布し宮廷を騒がせた罪で捕縛されたという。

 そしてあらためて、死王というのは李美人の父による妄言であったと発表がなされ、後宮を震え上がらせた怪談はひとまずの収束へと向かっている。

 死王騒動に関しては、延明が当初より考えていた通りの結末となった。

 そして今日の宴はこれらの功績をあげた皇后への褒賞でもあるのだ。

「もらった塩の礼はしないといけないな。どんな高価な玉がいいか絹がいいか……お、もしかしてこの棚にあるの、褒美のための品じゃないのか? 香木──これはがいはくぼくか。それにあかさんはいぎよくに、銀のかんざし。さすが娘娘、用意が早い」

 点青はあごをさすり、並べられた品々を吟味する。

 しかし延明は鼻で笑い、立ちあがった。

「こんなもの」

 老猫が喜ぶはずがないではないか。

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