第一章 死王⑧

「はい?」

 延明はあっけにとられた。

「桃花さん、なにを急に。あなたも遺体検分には立ち会ったではありませんか。傷害をうけたあとなど、どこにもなかったでしょう?」

 あの遺体状況、しかも女性の裸体ともなるとほとんど視線はそらしぎみだったが、遺体検分を行ったえきてい官が「殴打のあとなし、にんじようなし、服毒のあとなし」と確認していたのはきいていた。

 毒や外傷などの不審点がなく、病であったとの証言がある場合は病死とされるのが通常だ。

 言うと、桃花は右手の小指を立てて見せた。

「いいえ。彼女の右手小指には小さな傷がありました」

「あれは……非常に小さなものでしたでしょう」

 遺体のうつろな目がながめるようにしていた指だ。すでにかさぶたができ、治りかけたさいな傷だった。そんなものひとつひとつを「傷害だ!」などと判断していたら、この世の死者は大半が傷害致死になってしまう。

「だいたい、人ひとり死ぬようなものでは──」

「いいえ。死ぬのですわ」

 まっすぐなまなざしが延明を射た。

「傷の大小は関係がありません。わずかでも皮膚がやぶれたところから、ふうは容易に入りこむからです」

「風?」

「土壌にある毒です。これをしようふうともいいます。主な症状は開口障害と、顔面のけいれんによる引きつった笑い顔です。重度になると、背を弓なりにするほどの全身痙攣を起こします」

 延明は、碧林の異常な遺体状況を思い出した。たしかに、みしめた歯、不気味な笑み、背筋をそらした不自然な姿勢──症状は合致しているかもしれない。

「碧林のあるじである李美人さまは、手づくりのこけだまを梅婕妤さまに贈ってくださったことがあります。あのかたの殿舎にもたくさん飾ってあったのだとか。お好きだったのでしょう。けれども、その苔玉を妃嬪手ずからおつくりになったとは限らないのです。それはおわかりでしょう?」

「ええ……もちろん」

 妃嬪は労働などしない。たとえそれが労働ではなく趣味なのだとしても、磨いて手入れをしている爪が汚れ、手が荒れる行為をいとう。かわりにそれらを行うのは、妃嬪にはべる侍女たちの役割だ。

「つまり、苔玉づくりを行っていたのは亡くなった碧林で、彼女はその際、あの小さな傷から病を得たと? しかし」

 ──ならば、やはり病死ではないか。

 そう指摘しようとした延明を、桃花は手をかざして制止した。

 そのまま、立てた小指をのこしてにぎりこむ。

「問題はあれが、み傷であったことですわ」

こうしようですって?」

「掖廷官に確認いただければたしかかと。獣ではなく、人の歯形です。出血、治ろうとした形跡があることから、生前にうけた傷であるとわかります。そして、ほかにふうが入りこむような傷はなかった。感染源はあの咬傷にまちがいありません」

 桃花はさらに先をつづける。たたみかけるようなしゃべり方ではないが、最早、ぼんやりと眠たげな彼女はそこに存在しなかった。

「咬傷は他物──すなわち『刃物以外の凶器である』と定義されていますので、歯によって他人を傷つければ『他物による傷害罪』となります。さらに、その傷をもととした病で期間内に亡くなれば殺人をもつて論じる、と律で定められていますわ」

「しかし、あの嚙みあとがだれかからの傷害とはかぎりませんよ。碧林本人のものであるやも知れません」

「いいえ。前歯のかたちがちがいました」

 あの場でそんなところまで見ていたのか、と延明はあぜんとした。

「…………なるほど、参りました」

 力をぬくと、こみあげてくるのは妙な可笑おかしさだ。笑うしかない。後宮には詩や楽、機織りから剣舞まで、さまざまな特技を身につけた美女が咲き誇るが、けんに律の知識とは恐れ入った。

 延明が肩をふるわせて忍び笑うのを見て、桃花はふしぎそうに小首をかしげる。そのしぐさだけを見れば、後宮に咲く百花のひとつであるというのに。そう思うとなお可笑しい。

「せっかくですから、確認といきましょうか」

「あの?」

 歩き出した延明に、桃花がげんそうについてくる。

「乗りかかった舟です。どうせ寝られず起きているのでしょうから、高莉莉に話をいてみましょう。他者に嚙まれてケガをしたのなら、おそらく小さな騒動くらいにはなっていたはずです。嚙んだ者がだれだかわかるでしょう」

 女官たちとケンカのようなものがあり、その際に嚙まれたのだろう。ちょっと訊きこめば、この場で嫌疑がだれにあるのか特定できる。

 しかし桃花は延明の衣をつかんで引きとめた。

「──おそらく、だれも知らないのだと」

「え?」

「……碧林も言えなかったのではないか、と思うのです」

 それこそ言いにくそうに、桃花は視線を伏せた。

「おそらく、あれは……その、情事のときについたものではないか、と」

「……は?」

 ぽかん、とあごが落ちた。

 あまりに予想外の答えで思考が一瞬止まってしまったが、ゆっくりと回りはじめた頭で考えると、おのずと答えは導かれた。

 咬傷、情事。これらがあらわすのは、すなわち。

「──相手はかんがん、ですか」

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