第一章 死王⑦
「今夜は風が強いですね。さあ、私の陰に入って。こんな私でもあなたの風
女性に気遣いを見せつつ、あざとくはにかんで見せる。
点青もよく言うが、女というのは大切にされるのが好きだ。気遣いで距離を詰めつつ、顔の良さと体格の違いを見せつける。
だがやはりというべきか、桃花はなんの反応も示さない。
宦官を嫌う女はいるが、桃花の態度はそういった嫌悪とも違う。正直、困惑するしかない。
「……ああ、危ないですよ桃花さん、ほら、今日は風が強いですから、灯ろうはしっかりと持って」
「持ってくださるのですか。ありがとうございます」
「…………」
彼女の手にそっと指を添えたのだが、肌の触れ合いに恥じらうどころか、灯ろうを押しつけられてしまった。
──なんだろう、これは……。
延明は一瞬遠くを見つめた。
男慣れしているとか、そういう感じではない。豆腐に
「あ、桃花さん、髪に葉っぱが」
延明はめげずに、桃花をぐっと身近に引き寄せた。
「動かないで」
己の美醜くらい、延明もわかっている。この恵まれた容姿を存分に近づけて、桃花の髪に触れる。この長身で包みこむようにすれば、たいていの女官は頰を赤く染めて──。
「葉っぱなど、どうせまたいくらでもからんできますわ。気にするだけ人生の無駄だと思うのですけれども」
「…………」
「そもそもなぜとらなくてはならないのでしょう。わたくし、百年からんでいても気になりませんわ」
「…………」
延明は内心で頭を抱えた。
──この女はダメだ……。
少なくとも延明に対して、
しかもなんの反応も示さないものだから、自分はいったいなにをしているのかと逆にこっ恥ずかしい気分になってくる。非常につらい。
「どうかなさいましたか、延明さま?」
「……いいえ、なにも」
延明はここ数年で最も吹っ切れた
無理なものは無理である。延明は早々にあきらめることにした。
そもそも命じられたからやったまでで、延明は点青のように女を口説いて遊ぶのが好きではない。もはや男ではなくなった身で虚しく、改めて惨めな体を思い知るだけではないか。
皇后の命については改めて女官を探してくるなりして、なんとかすればいい。
桃花は延明の気も知らずのんきなもので、あくびのしすぎで大粒の涙をほろりとこぼしていた。気が抜けるといったらない。
「……それにしても桃花さん、眠そうですね。昼間は侍女として婕妤に仕え、夜は寝る時間を削って夜警では大変でしょう。第一、夜警など侍女がするような仕事ではないでしょうに」
「そうでもありませんわ。侍女と言っても、わたくしはほとんど殿舎の中だけでお仕えしておりますので」
「ああ、梅婕妤の〝隠された女官〟というやつですね」
情報によると、梅婕妤は見目麗しい女官を見つけると手もとに置き、
「なんと
一応、声と表情には同情をたっぷりふりかけた。これで引っかかって梅婕妤の悪口をこぼしてくれれば、そこからうまく味方に引きこむことだってできる。
そう思ったのだが、予想外の反応が返ってきた。
桃花が目を輝かせ、喜色満面にうなずいたのだ。
「ええ。ですので、大変快適に過ごさせていただいているのです!」
「え」
「いただいたお部屋はじつに狭くて丁度よく、顔に墨がついていようが、うたた寝していようが𠮟られません。起きている時間も大概字を書くだけですので、これも眠っているのと大して変わりございませんわ」
「…………」
「ほとんど外に出ることもありませんので、数日着替えずとも、髪を
あっけにとられて言葉が出ない。もしやこれは野心も欲望もない、かなりダメなぐうたら女官なのではないだろうか?
「この夜警など、日ごろの運動不足解消に丁度よいのです。周囲は暗闇ですので、寝ながら歩いているのとなんら変わりございませんわ」
「そ、そうですか……」
「ですので夜警を代わってくれた女官にも感謝しているのです。死者の
「自然……それ、昨夜も言ってましたね」
昨夜はくわしく
「はい。『棺内分娩』と呼ばれる自然現象ですわ。文字通り、死後に
「死者が出産を? それのどこが自然なのです」
「分娩と呼ばれてはいますが、通常の出産とは違うのです。人の肉体は死後、腐敗によって膨張し、関節もゆるみます。体内には腐敗による
「あなたはいったい、どこでそのような知識を……?」
延明は
彼女は姫姓だ。姫家といえば、いにしえよりの名家である。
「わたくし、養女なのです。生家は代々つづく検屍官の家系でした」
「あぁなるほど、なんだか
納得すると同時に、彼女に対する同情もわずかに湧いた。
官吏の登用が
家柄ではなく容姿や健康、父母への孝徳などが選考基準とされているが、容姿の優れた少女を買いとり、養女として育てて後宮に送りこむ豪族や官吏が後を絶たないのが現実だった。
桃花も、そういう野心を背負わされた立場なのだろう。あわれなことだと延明は思う。帝のお手つきがなければいずれ年老いてから宮城を出られるが、こうして入宮させられた娘に帰る場所などない。両親は
「いくつの時に、姫家へ?」
「十三です。わたくしは姫家にひきとられるまで、祖父のもとで仕事の手伝いをして学んでいたのです」
仕事の手伝いとはつまり、検屍の手伝いということか。
驚きが顔に出てしまったのか、桃花も困り顔で苦笑する。
「おかしいでしょう? でも、やりたかったのです。わたくしの目には祖父はとてもまばゆい存在でした。死体に触れると
祖父の姿を思い描いたのか、桃花はやわらかく目を細める。
「世間では敬遠されますが、誇るべき仕事ですわ。
「無冤術?」
「はい。祖父が、検屍術とは〝
「罪なき虜囚……」
ずしりと胸に響いた。
延明の身体には、冤罪が刻まれている。
その傷から、心の奥から、どっとなにかがあふれてきそうな感覚に、めまいがした。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。……なにも」
──そうだ。なんでもない。
もう終わったことだった。こぼれた水が盆に返らないように、下された冤罪は消えはしない。たとえ身分をとり戻そうとも、この身に刻まれた傷は生涯消えはしないのだ。
延明はいやな汗をぬぐい、いつもの微笑みを顔に貼りつけた。
「しかしよいことを聞きました。棺内分娩という現象について、広く公表できるよう手配してみましょう。この馬鹿げた死王騒動も落ちつくやもしれません」
ふたりは夜警の声かけをしつつ、今夜もまぶしい一区をぬける。
「まったく。亡くなった碧林と言う侍女については、風邪をこじらせての病死であったときちんと発表したのですがね……。まあ昨夜のことですし、大目に見ましょうか」
延明が言うと、桃花が足を止めた。
「あれは病死であって、病死ではありません。傷害による
桃花は柔らかい口調で、けれども断固として言い切った。
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