第一章 死王⑥

「それでね、死んだ侍女は朝な夕な病床でよだれを垂らしながら、歯をむき出しにして笑っていたそうよ。それだけじゃなくて、たびたび金縛りにもあっていたとか!」

 耳房こべやあわもちをかじりながら、才里が行儀悪くつくえにひじをついて言う。

「まさにかれているとしか思えなかったという話よ! どう思う、桃花」

「……気の毒、と」

「なに言ってんのよ、そういう話がしたいわけじゃないのあたしは──って、こら寝ない!」

「……はい。起きてます半分」

 ぜんぶ起きろ! と小突いてから、才里は空になった茶をとりに部屋を出て行った。その際にも「起きてなさいよ!」とくぎを刺すことを忘れない。

 主人が留守のあいだ、こうしておしゃべりに花を咲かせるのが女官の大切な息ぬきなのだと、才里はいつも言う。

 ──できれば静かに寝させてほしい。

 ぼんやりとそう思いながら、花窓を見あげる。窓辺には小さなこけだまが飾ってあった。

「ああそれ、李美人にもらった手づくりの苔玉ね」

 そそくさと戻ってきた才里が、桃花の視線を追って言う。

「いつだったか……うーん去年の初夏くらいかしら? まだ李美人と婕妤さまが仲よくしてらした頃のよね。あのかたの殿舎にはたくさんの苔玉や野草が飾ってあった、素朴な李美人によく似合ってる、なんて婕妤さまも言ってらしたわね」

 はいあんたのぶん、と桃花にも茶をさしだして、才里はふたたびくつろいだ様子で腰をおろした。

「李美人もねぇ、まさかこんなことになるなんてねえ。あの方も大人しくしていれば、婕妤さまに目をつけられることもなかったでしょうに」

 いまや李美人をいびっていたひんとして有名──それどころか一部女官たちからは李美人を謀殺したとまで思われている梅婕妤だが、もともとふたりの仲はそう悪いものではなかった。

 李美人はもう何年もお手がついていないという『みかどから忘れ去られた女』で、梅婕妤は寵を競わない相手に対してはとても寛容なのだ。

 ところが去年の晩夏、この李美人が帝とねやをともにした。しかも懐妊までしたことで、ふたりの仲は決裂したのである。

 さらに、寵に興味はないという顔をしながらも、李美人がかなりのまいないを各所にばらまいて機会を得たという情報があり、そういった点がさらに梅婕妤の怒りを買った。桃花も「あんな女だと思わなかった!」と婕妤が憤慨していたのを覚えている。

「って言っても、婕妤さまによる謀殺だなんていうのはさすがに言いすぎだと思うけどね。それくらいで殺してたらキリがないもの。あの怖がりだし。あ、そうそう、で幽鬼の話だけど」

「幽鬼の話はもうおなかいっぱいです」

「えー。だってあんた昨夜の夜警に行ってたじゃない。なにか面白い体験とか、面白い話とかきかなかったの? なにか見たりとか」

「興味があるなら、今日の夜警は才里が行きますか?」

 親切心で言ったのだが才里はぎょっとした顔をして、それからねたように口をとがらせた。

「……この殿舎にほとんど幽閉された身だけど、さすがにそれはごめんだわ」

 あまりにも消沈してしまうので、桃花は仕方がないと昨夜の記憶を掘りおこす。

「じゃあ、ようを見た話でもしましょうか。あの有名な」

「えっ? 夜警の支援にきたのって、延明さまだったの!?」

 で、どうだった? と才里が身を乗り出してくる。皇后のお気に入りかんがん、孫延明といえば有名だ。

 見た目の美しさもさることながら、五年前に罪を得て腐刑──浄身となり皇太子の寝宮に仕え、その後、罪はえんざいだったとして身分を回復したという数奇な身の上でも知られている。

「そうですね、妖狐は……つねに微笑みを絶やさない方で、白くてきれいで」

「それでそれで?」

「あと、笑顔が噓くさくて腹黒そうな方でした」


    ***


 この日は風の強い夜となった。

 春嵐とまでは行かないが、流れてきた雲かかすみが月を隠し、冷たい風が後宮に植えられた柳や松をゆらす。手提げ灯ろうも右に左にと大きく躍り、つくりだされた影が不気味にうごめいた。

 そのたびに小さく悲鳴をあげては宦官に身を寄せる夜警女官たちを見まわして、延明は首尾は上々だと満足する。

「では、昨夜の組みあわせで、各々の担当区をしっかりとまわってください」

 指示を出し、夜警へと出発する。

 後宮門番の小少が欠席という問題はあったが、まつなことだ。どうせいたところでなんの役にも立ちやしない。むしろ、桃花という女官が梅しようの侍女だとわかった以上、邪魔でもあった。皇后からは桃花を誘惑して味方に引き入れよ、という指示を受けている。

 ──しかし、この変わり者をろうらくするのは手がかかりそうだ。

 目を潤ませながらはかなくうつむく桃花を見て、延明は困惑に眉を寄せた。

 あの姿は夜警を怖がっているわけでもなんでもなく、ただあくびをかみ殺しているだけだ。それはいい。幽鬼だなんだと騒がれるのは望むところではない。

 だが、昨夜はあの異常とも思える遺体まで見たのだ。そればかりか騒ぎを大きくしないため、夜明けを待たずに遺体検分が行われた。その際には延明とともに、そばで灯ろうを掲げて遺体を照らす役目まで手伝わされたのだ。

 少量の失禁がにじんだ衣服をはがされ、戸板の上に寝かせられた碧林の遺体はすっかり硬くなり、まぶたを閉じさせることもできなかった。うつろに開いたひとみは、つきだしたまま硬直したみずからの指をながめてわらっているようにも見え、その姿はさすがの延明でさえ目をそらす異様さだった。正直、幽鬼はともかくとしても、こうして暗闇の中にいるとあの姿を思い出さずにはいられない。

 それをこうして平然としているなど、この娘のほうこそ尋常ではない気がしてくる。

「まあ、やるしかないですか」

「はい……いまなにか?」

「いいえなんでも。さあ桃花さん、行きましょうか」

 延明はひときわつややかな笑みを浮かべて、桃花をうながした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る