第一章 死王⑤

 延明が思案に沈みかけたとき、手提げ灯ろうが目の前を横切った。いや正確には、すっかりと存在を忘れ去っていた夜警女官、桃花が高莉莉の前へと進み出たのだった。

 高莉莉はおどろいたように彼女を見つめた。

「あなたは、たしか梅婕妤さまの侍女の……」

「はい、姫桃花です」

 おや、と延明はまたたいた。

 夜警は下級女官の仕事だが、どういう理由でか、それなりに地位のある侍女がまぎれこんでいたらしい。それも、この後宮を牛耳る梅婕妤の侍女だったとは。

 桃花は高莉莉をなぐさめるようにそっと背に手を添えると、そのおっとりとした口調で尋ねた。

「薬湯は、毎日お運びに?」

「え、ええ。毎日、夜に……」

 高莉莉は困惑しつつも、これにこたえた。しかし桃花はこまったように小首をかしげて見せる。

「ですが、へやにあった椀はすっかり生薬が沈みきってほこりが浮いていましたけれども。あの薬湯の椀は、いったいいつのものなのでしょう?」

「あ、あれは……、その」

 高莉莉は視線をゆらし、それから深くうつむいた。

「──ごめんなさい、ウソです。いえ、毎日運んでいたのはほんとうです。でも、それはその、四日前までで……三日前からは、運んでいませんでした」

 怖くて、と高莉莉は両手で顔を覆う。

 四日前といえば李美人のひつぎが暴かれた日で、瞬く間に死王のうわさが流れはじめたころだ。

「なるほど、病に苦しむ彼女の姿を見て、死王のしわざではないかと恐れたわけですか」

 延明がつい冷ややかに笑うと、桃花がとがめるような目で延明をたしなめてきた。

 なぜだ、とやや不服に思う。桃花こそ、高莉莉の薄情を責めるためにそういう質問をしているのではないのか。

「高さん、もうひとつききたいことが。薬湯は、運んでいただけでしたか? 飲ませてあげたりなどはなさったのでしょうか?」

 それ見たことか、と思う。優しい口調だが、結局は高莉莉を責めている。

 高莉莉は涙をためた顔をあげ、表情をくしゃりとゆがませた。

「たしかに、私はそこまでしなかったけど、だからどうだと……それが悪いとでも言うつもり? うつる病だったらこっちだって死ぬかもしれないのに、九日間も私は薬を運びつづけてやったのよ。私以外はだれもあの房へ近づきもしなかったのに! なのに、どうして責められなきゃならないの!? ちゃんと翌日には空になってたんだからいいじゃない!」

 わっと声をあげて高莉莉が泣き伏せる。咎める視線を送るのは、今度は延明の番だった。

「桃花さん、もうよしてやりなさい」

「ごめんなさい、責めるつもりはなかったのですけれども……」

 桃花が弱りきった顔で高莉莉にあやまろうとした、そのときだった。

「…………やっぱり、呪いだわ」

 かすれる声が闇夜に響いた。

 はっと気がついたときには、涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげて、高莉莉がすっくと立ちあがっていた。目に浮かんでいるのは激しいおびえだ。

「なにを言っているのです。おかしな妄言はとりしまりの対象──」

「これはやっぱり病気なんかじゃない! 風邪っぽかったのなんて、はじめだけだった! 碧林の症状はずっと異常だった! なにかにとりかれたようによだれをまき散らしながら笑って……身体もだれかにあやつられたみたいに、引きつったり硬直したり、不自然なかたちになって!」

「おやめなさい! 静かに、だまって!」

 舎房に並ぶいくつもの戸から、宮女たちが顔を出してこちらをみていた。

「これは死王の呪いなのよ! 死王の呪いで、碧林は死んだんだわ!」

 高莉莉は頭をかきむしり、ひときわ大きく叫んだ。

「だから、私も呪いで殺されるのよ! まだまだ死者が出るんだわ!」


    ***


 後宮一区の中心、しようよう殿。その名の通り、光り輝くようなまぶしい装飾がほどこされた殿舎の耳房こべやで、桃花はうとうとしながら筆をとっていた。

 昭陽殿の小主あるじである梅婕妤は、梅が姓、婕妤が後宮内での位をしめすひんである。本来は婕妤の上にしようという位があるのだが、現在空位のため、今上の最高級妃嬪となっている。

 桃花はその梅婕妤の侍女であり、この耳房で寝起きして女主人の側近くにはべり、また、書の代筆や詩作を代わって行う女史でもあった。

「桃花、桃花!」

 呼ばれた気がして顔をあげる。正房おもやにつながる戸口で、侍女仲間のさいが眉をつり上げて立っていた。

「ちょっと何回呼べば気がつくのよ!? どうせまた居眠りでもしてたんでしょ! 早くきなさいったら!」

「寝ていたわけでは……」

「いいえ寝てた! ああもう、顔に墨なんてつけて……! ほら早く、婕妤さまがお呼びよ」

 顔を適当にぬぐい、書き終えたばかりの書簡を掲げて主人の前へと進み出る。

「お待たせいたしました、婕妤さま」

 梅婕妤は春らしい白のないに紅梅の深衣を重ね、蘇芳すおう色のしゆうをほどこしたどんの帯を締めるという、いかにも春らしい装いで座していた。肩に羽織るうすものも白く、二十代の半ばとなってもいまだ少女のように愛らしい顔立ちをした彼女に、よく似合っていた。

 だがそのようぼうにも、ここ数日の寝不足が色濃く影を落としている。幽鬼騒動のせいで眠れないのだ。梅婕妤はどこか疲れた様子で書簡を受けとり、仕上がりを確認してから他の者にそれを託した。

「ご苦労だったわね、桃花。今日はいつにも増して眠いでしょう? 昨夜はあなたに夜警を頼んでしまってすまなかったわね。どうしても皆、怯えて行くのをいやがるものだから」

「いえ、歩くのは好きですので、とてもよい散歩となりました」

「おまえはほんとうに豪胆だこと。では、今夜も行ってくれるのね?」

「もちろんでございます」

 ゆうれいをささげると、梅婕妤はくまの濃くなった目もとを気にするようにさすってから、「ところで」と不安げに視線を下げた。

「昨夜、ついに死王に憑き殺された者が出たとか」

 威厳を保とうとしつつも、わずかに震えのうかがえる口調で梅婕妤は問うた。

 やはりその話か、と桃花は思う。昨夜の碧林の件についてはかんこうれいが敷かれていたが、人の口に戸はたてられないものだ。だれかが梅婕妤の耳に噂を運んだのだろう。

「婕妤さまご安心くださいませ。呪いやうらみで人を殺せるのなら、この後宮はとっくに無人になっていてもおかしくございませんわ」

「おまえは桃のような愛らしい顔をしてしんらつなことを言うわね。──それで、どうだったの? 昨夜おまえもなにか見たのではない?」

 桃花は返答に困った。幽鬼は見ていないが、憑き殺されたと噂される女官の死体は見た。だが余計なことをしゃべって、怖がりな主人をこれ以上怯えさせたくはない。

 噓はきらいだが、なにも見ていないというべきか──そう口を開きかけたとき、桃花のしゆんじゆんはらうかのように、客人来訪の合図が鳴った。ほぼ同時に、息を切らせた少年が駆けこんでくる。

「母上!」

 梅しようの子、御年九つのそう皇子だ。

 後を追うように急ぎ足でやってきたのは、もえの深衣に身を包んだ、まだ幼さの残る若い妃嬪──おなじ一区に住まうりよ美人だった。数人の女官も後ろに従っている。

「まあどうしたの、ふたりとも」

「婕妤さまに置かれましては、ごきげん麗しく」

 呂美人が揖礼をささげる。蒼皇子は早く早くと婕妤の手をひいて立たせた。

「母上、呂美人が花園で花見でもしましょうとお誘いくだすったのです。よい天気ですから、花でもでていれば気分もすっきりするだろうと」

「まあ、花見」

「実家から良い茶葉が届いたところなのです。もしよろしければ婕妤さまにもお楽しみいただきたく」

 呂美人は高官の娘だ。多くの娘がそうであるように、彼女も実家の勢力拡大のために、昨年十五歳で後宮へと送られてきた。しかし彼女自身にはちようを得ようという意思は薄いようで、そういったところが特に梅婕妤に気に入られていた。

 梅婕妤は薄暗い室内と外のまぶしいほどの天気とを見くらべるようにしたあと、「そうね」とうなずいた。

「ちょうど花園の紅梅も見頃だものね」

「はい。あのすばらしい紅梅は、梅姓である婕妤さまのために主上が集められたものだと聞いております。主上のご寵愛がきっと婕妤さまのお心を慰めてくださいますわ」

「母上の寝不足もきっと治ります。酒ではなく茶をのみ、太陽の光にあたることが安眠のけつなのだと、侍医も言っていたではないですか」

 蒼皇子が言うと、梅婕妤は弱ったようにまゆをさげながら、指先でコンと脇息を打った。内心ではいらっているときの、梅婕妤のくせだ。

 寝不足になっている理由が理由であるから、我が子であろうと無邪気に口をはさんでほしくないのだろう。

 勘気に触れるだろうか。そう女官たちがハラハラしながら見守ったが、今回はゆうに終わった。

「あら呂美人。あなたのところの女官たちも、ずいぶんと顔色が悪いのではない?」

 ふと、呂美人が連れている女官たちに目をとめて、婕妤が言う。

 呂美人の女官といえば、後宮ではちょっとした注目の的だった。小柄でまだ幼さの残る顔立ちの呂美人に対して、どれもすらりと背が高く、しげな麗人ばかりなのだ。彼女たち見たさにせっせと呂美人と交流をもつ妃嬪も少なくない。

 呂美人は困ったように女官たちに視線をやった。

「じつは幽鬼が苦手なものが多くて、寝つけない女官が多いのです。まだ後宮入りして一年しか経ちませんし、場所に慣れていないからなおのようで」

「そう、では皆で紅梅をながめながら、ゆるりと陽気にあたってきましょうか。幽鬼は陰気を好むというものね。では行ってくるわ、桃花、才里、留守を頼むわね」

「行ってらっしゃいませ」

 桃花たちは深く頭をさげ、主人たちの輿こしを見送った。

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