第一章 死王④

「どうしました!」

 延明が声を頼りに駆けつけたのは、まさにくだんの李美人がくらしていた殿舎、そのうしろにある、李美人つきの宮女たちがくらす舎房だった。

「へ、へきりんが、碧林が!」

 戸を壊す勢いでへやから飛びだしてきた女は叫び、両手で顔を覆ってその場にへたりこむ。すでに休んでいた宮女たちもなにごとかと集まり、彼女と、半開きになった戸を囲んでいた。

「どいてください。なかを見せて……」

 女たちをかき分けてなんとか房に滑りこむと、手に提げていた灯ろうが異様な光景を照らし出す。

 女だ。

 せまい房のなか、年若い宮女が臥牀ねどこに横たわっていた。

 髪は乱れ、眼は半開き、口はなにかを威嚇するように歯ぐきをむき出しにしてかみしめている。姿勢は腹をこちらにむけて弓なりに反りかえり、その不自然な姿勢のまま身じろぎひとつしない。──ひと目ですでにこときれていると理解できる様相だった。

「これは、なにがあったのです……!」

 延明が問いただすと、やじ馬たちがひとりの女をいっせいに見る。悲鳴をあげてこの房から飛びだしてきた女だ。

「わ、わたしは、なにも……」

 女は白髪の交じりはじめた髪をゆらし、駄々をこねるように首を振る。だが、なにかを隠していることは明らかだった。

 延明は房を出て、やじ馬たちに戻るよううながした。それから発見者であるらしき女を戸の前に座らせ、自身は隣にぴったりと寄り添って腰をおろす。彼女の手に延明の大きな手を重ねて「大丈夫です、落ちつきなさい」とささやけば、いとも簡単に頰を赤らめた。

 なんともちょろいものだ。延明はほのぐらい思いで口端をあげる。

 延明がさんしつ(腐刑の処置室)で性を切りとられたのは二十歳の時。すでに成人していたから、幼少期に宦官となった者たちと違い、肩幅は広く手も大きい。顔も体も十分男らしさを残しており、それが女ばかりの世界にくらす彼女たちにどう作用するのか、延明はよく理解していた。

「名前をきかせてもらえますか?」

「……です。こう莉莉」

 では莉莉、と呼べば、はじめて酒を口にした少女のように延明を見つめてくる。

「中で亡くなっている宮女について、なにがあったのか教えてください。私も担当官に報告しなければなりません。わかりますね?」

「はい。でもあの……」

「小棚の上に生薬らしき物の入ったわんがありました。正直に話してくれなければ、あなたがなにかよからぬものを飲ませて死に至らしめたのだと、そう誤解を招く恐れがあります」

「あれはっ、違いますあれはあの子のための薬なんです! 毒じゃありませんっ!」

「舎房でくらすたかだか宮女に、高価な薬ですか。なんとも怪しすぎてかばいようがない」

 すこし脅してやると、高莉莉は血相を変えてしゃべりはじめた。

「あの子は碧林っていいます。あんな粗末な舎房にいましたが、ほんとうは私とおなじ李美人さまの侍女なんです。ただ、その、さいきん具合が悪くて寝こんでいて……」

「病ですか。病を得た者はぼうしつで隔離されねばならないとは、知っていますね?」

「はい。でも、あの子が体調をくずしたのは李美人さまが病で亡くなった翌日のことで、隠した方がいいって、みんなが……」

「なるほど。三区で流行はやり病だなどとうわさが立つのは困るでしょうからね」

 彼女たちがやったことは、延明にも理解できなくはない。仕えるひんがいなくなった女官たちの立場は非常に不安定だ。脱却するためには、他の妃嬪からの引き抜きや配置換えを待たなくてはならない。なるべく条件のいい高級妃嬪に引きとってもらおうと考えるならば、流行り病の疑いなど、絶対にあってはならないのだ。

「心配せずとも大丈夫ですよ。碧林が自分であの房に閉じこもったのだ、ということにして差し上げましょう。暴室行きはだれもがいやがることですから、なんら不自然ではない」

 暴室は病を得た女官や宮女の隔離施設であると同時に、罪を犯した者を収監するための獄でもある。医院ではないので治療を受けられるわけではなく、自然治癒するか死ぬかをただ待つだけのろうごくなのだ。行って戻ってくる者など皆無に等しい。

「ところで、小棚にあった薬湯はどこから?」

くりやを見ていただければわかります。李美人さまはとてもお優しいかたで、女官がいつでも使えるようにと薬湯の材料を常備してくださっていたのです。せいぜい体力をつける程度のものですが、私は彼女のもとへ毎日それを届けていました。ああ……でも、こんな……!」

 高莉莉はおびえた目でぎゅっと体をかき抱き、暗闇につつまれた周囲を見まわした。

「や、やはり、死王なのですか……死王が、碧林を……?」

「なぜここで死王が出てくるのですか」

 延明はうんざりだとばかりにめ息をついた。

「落ちついてください。病だったのでしょう? ならば病死です」

「でも、わたし言いましたよね、あの子が不調を訴えたのは李美人さまが亡くなった翌日なんです……。頭が重い、熱っぽくてだるい、と。こんな偶然がありますか!?」

 高莉莉は大きく震えた。

「冷静に。よいですか、頭重に熱、けんたい感、これらはまさに風邪の症状でしょう? 呪いとは風邪なのですか? 違うでしょう? 風邪をこじらせて亡くなるなど、珍しいことではない」

「で、でも……あの死に顔を見ましたよね!?」

 興奮する高莉莉の背をさすりながら、延明はわずかにまゆをよせる。

 たしかに、ひどい形相ではあった。あれは歯をみしめているというよりは、歯ぐきまでむき出すようにしたわらい顔だった。そして、不自然なほど弓なりに反った姿勢。

 正直、尋常とは言いがたい。

「……よほど苦しんだのでしょう。恐れるのではなく、あわれに思ってやりなさい」

 適当なことを言いながら、延明は内心で頭を痛めた。

 あの、碧林という侍女の死に顔を、いったい何人のやじ馬が目撃しただろう? その中に、幽鬼だの呪いだのというばかげたうわさを信じる者は、何人いる?

 ──多いだろうな。信じない者よりも、ずっと。

 おそらく、明日あしたには死王のうわさはさらに膨れ上がるのだろう。死王を産んだ李美人の侍女が、怪死をとげたのだ。なんと間の悪い。

 ──このままでは、中宮娘娘ニヤンニヤンの評価がさがってしまう……。

 百官を率いて外廷を治めるのは皇帝。女官を率いて内廷を治めるのは皇后である。

 あまりにも死王騒動が膨れれば、後宮の管理者としての立場上、皇后が責任を問われかねない。なにせ皇帝は皇后つまを愛していないのだ。これ幸いと廃后にして、ちようである梅しようを新たなる皇后に冊立してもおかしくはない。

 皇帝自らが切りださずとも、梅婕妤のがいせきらが黙ってはいないだろう。

 ──さて、これからどう手をうつべきか……。

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