第一章 死王③

    ***


「なぜ、自分まで……」

 小少はひょろ長い上背を丸めながら、せわしなくあたりをうかがって歩く。よほど肝が小さいのだろう。手提げ灯ろうが周囲の植栽に影をえがき、それがゆれるたびにびくりと肩を跳ねあげた。

「小少、その台詞せりふはむしろ私が言いたいくらいですよ」

「す、すみませ……ひぃっ!」

「それはカエルです」

 悲鳴を上げてしがみついてくる小少の手をふりほどく。

とうさんがこれほど落ち着いているというのに、なさけない」

 延明は手提げ灯ろうを掲げてのんびりと歩く女官を見て、しみじみとこぼした。

 ほかの女官たちが顔を青くして震えるなか、のんきに居眠りをしていた娘だ。名を桃花といった。

 まろみをおびた輪郭に、夢見るような──といえば聞こえはよいが、要するにおっとりと眠そうな顔立ち。名の通り、桃の花のような愛らしい顔立ちではあるが、ずいぶんと神経の図太い娘である。

 本来、死王のうわさがなくとも夜警というのは少なからず怖いものだ。高い壁に囲われた後宮の闇は深く、また、ちようあいを競う百花が咲き乱れる園において、陰謀策謀が絶えたためしはない。正常とはほど遠いかたちで命を落とした女は数知れず、どこの暗がりにうらみがこごっていてもふしぎとは思えない。

 それをこれほど平然としているのだから、もはや圧巻だった。いまも眠たげにあくびをかみ殺しつつ歩いている。

「よいですか、小少。私がつきあうのはこの一区までです。そこから先はきちんと二人で回ってくるのですよ」

「そ、そんなご無体な! 自分は夜警など今日はじめてで……」

「ここまでついてきただけでもじゅうぶん破格だとは、わかっていますね?」

 延明が微笑むと、小少は賢明にも口をつぐんだ。当然のことではある。延明は皇后に仕える中宮尚書、俸給と序列をあらわす『ちつせき』にして六百石の官だ。そればかりか、さらに特権を複数有していることで有名でもあった。本来であれば、一歩たりともつき合う必要はないのだ。ただあまりにも小少に不安があったため、ここまで様子を見てやることにした。

 三人は「消灯」「火の用心」の声をかけながら、梅婕妤を小主あるじとする一区をまわる。

 途中、暗がりでい引きする女官たちを見つけたので、注意してへやに帰らせた。娯楽の少ない生活をする女官には、こうして女色に走る者も少なくない。なにせ男子禁制の後宮だ。男といえば皇帝ひとりだが、下級の女官など、その竜顔かおすら一度も目にすることなく老いを迎えることになる。女同士や宦官相手に恋でもしなければやっていられないのだろう。

「さすがにしようよう殿でんは消灯しませんね」

 常夜灯以外が消されたことを確認して次へと進むのだが、死王におびえる梅婕妤の殿舎には、こうこうと明かりがともされていた。

 昭陽殿をはじめとして、消灯に応じない殿舎は他にもいくつかあり、延明たちは中級以下のきさきがくらす殿舎にはやんわりと注意をして回った。位の高いひんたちには声をかけるまでもなくあきらめる。後宮において、そういうそんたくは生きていくうえでひつだ。

 はすいけや美しい植栽のあいだをぬうように歩き、ぬけるころにはずいぶんと夜空の月の位置も変わっていた。

 ──時間をむだに費やしてしまったな。

 一区の門を出たところで、延明はため息をついた。

 ここで小少たちと別れ、後宮のそとにわで夜警の終了を待つ──というのは建て前で、延明はこれからひそかに一区へと戻らなければならない。皇后からの任務がある。

「では、私はここで」

「そんなっ!」

 そうだろうとは思っていたが、延明が足を止めると小少が悲鳴をあげた。

「孫中宮尚書、どうかここで自分も帰らせてください……、これ以上は、無理です……! 足手まといにしかなりません!」

「なにを言っているのです。無理だからやらないなどという選択肢が、あなたに存在するとでも?」

 微笑みとは裏腹に、冷たいまなざしで小少を射る。延明に逆らえばどうなるか、小少もわかっているはずだ。じたように視線をゆらした。

「いもしない幽鬼などより、火災や懲罰のほうがよほど恐ろしいとは思いませんか? すこしは桃花さんの落ちつきようを見習いなさい」

 延明の視線の先で、桃花が涙をこらえるようにしてはかなく月を見あげている。なんともれんで絵になる風情だが、ここまでの道のりで、それがあくびをかみ殺すしぐさだと理解した。

「いいえ、いいえ、火災は消すことができます! 懲罰は耐えることができます! けれど幽鬼は……ひぃいいいいっ!」

 広い通路をなにかの影が横ぎった。動転した小少が灯ろうをふり回すので、これをとりあげる。夜警当番が火災をおこしたのではたまらない。

「ただの鼠でしたよ」

「鼠……ほ、ほんとうに鼠でしたか? 死王はまだつきに満たぬ胎児なのです……鼠とよく似ているやも……っ」

「発見されたとき、すでに赤子は息絶えていたのです。亡くなった赤子がどうやってこんなところをはいかいするのですか。死者は歩きません」

「ですから幽鬼なのです! 死者が産んだ時点でふつうの赤子ではないでしょう! 尋常じゃない!」

 ──だめだな、これは。

 延明はいらたしく思いながら、ひとまず女官誘惑の件は後回しにする事を決めた。

 小少はおくびようかぜに吹かれて冷静な状態ではない。このまま行かせても問題を起こすだけだ。

 震える小少の手を強引に引いて歩く。役に立たないことはわかったが、ここで一人帰して、途中で騒ぎを起こされたのではたまらない。

「あぁ、わかってくださいましたか」

「……まぁ、たしかに奇妙な話ではありますね。死者がぶんべんするなど、ありえない。生きた妊婦だって気力体力をふりしぼり、半日から丸一日もかけて分娩するのです。それを死者がどうやっていきむというのか」

「そうです! 話によると、その赤子はへその緒でまちがいなく母胎とつながっていたのだそうです! ですから、どこかから用意した死体をそこに置いたとは考えられないのです! 尋常ならざることが起きた、つまり──」

「では小少、答えは簡単ですよ」

 足のにぶる小少の体をなかば引きずるようにしながら、延明は苛立ちをこめて、にっこりと口角をあげた。

「すなわち、根本から偽りであったということです。李美人がひつぎのなかで出産していたという話自体が、すべて偽り。そうですね……さしずめ父君による、娘をいじめていた梅婕妤たちに対する意趣返しであるとか」

 そもそも、「病死などではなく謀殺だ」との李美人の父による強い訴えのもとで行われた棺の再掘だった。

 しかし結果として広まったのは死王の怪談だけで、当初の目的であったはずの、病死を覆すような証拠が発見されたという発表はひとつもない。なにもみつからなかったのだろう。

 娘は謀殺されたのだと信じていた父君からしてみれば、納得もいかず、やりきれない結果であったにちがいない。そこでかわりにふくしゆうとして死王のうわさを流し、娘をいじめていた妃嬪たちを恐怖に陥れた。そう考えるのが自然だ。

「──三区です」

 桃花が奥ゆかしいしぐさ、ならぬ、おっくうそうなしぐさで手提げ灯ろうを掲げて門をしめした。

 後宮三区。李美人がくらしていた殿舎が建つ区域だ。

 立派だが古い殿舎が多く、李美人の死後、ここでくらす妃嬪はいない。しかし李美人の世話をしていた女官たちがまだのこっていることから、無人というわけではなかった。

 門をくぐろうとすると、これまでにない抵抗が延明の腕にかかる。

「む、無理です、ほんとうに、これ以上は……」

「なんだというのです。ここまでなんとかこれたではないですか。先ほどの一区よりも三区のほうが狭いのですから、あっという間です」

「ここは……李美人の三区です。……自分は、怖い……」

 小少は歯の根もかみ合わぬほどにカタカタと震えていた。どっと脂汗がふきだしているのが見える。

「ですから、死王などいませんよ。李美人の父君が流した単なるうわさに過ぎないのだと言ったでしょう」

 小少はただ震えながら首をふるばかりだ。

 なんてことだ、と延明は夜空をあおいだ。かんがんは性を切りとられてはいるものの、女ではない。力も体格も強さも女官よりはずっとすぐれているからこそ、女ばかりの後宮において重宝されているのに、これでは先ほど震えていた夜警女官たちとすっかりおなじではないか。情けないにもほどがある。

「……ではきますが小少、万に一つ赤子が後宮を徘徊しているとして、なにができましょう。いたとしてもおぎゃあおぎゃあと泣くばかりですよ。ひねりつぶしてしまえばよい」

「ですから、死王はふつうの赤子ではないのです! 幽鬼です、呪うのです! とりいて呪うのですよ!」

 彼が声を荒らげたとき、一陣の風が吹きぬけた。

 深い闇の奥で、なにかがカラカラと転がった音がする。

「ひいぃっ! ほら、やはり三区は呪われている! やはり死王はまだ三区にいるんだ!」

 小少は震えあがって悲鳴をあげ、まろぶようにしてきた道を逃げて行った。

「なんと情けない」

 もはや苛立ちを通りこしてあきれ返るしかない。

「……まあよい。私たちでさっさと夜警を終わらせてしまいましょう」

 桃花をうながそうとしたところで、くすりと笑う声がした。見れば、これまでぼんやりとしていた桃花が小首をかしげて笑んでいる。

「なにが、おかしいのでしょう?」

「いえ、だって。死王だなんておかしくて。生まれたのが皇子なら、死王ではなく死皇子ではありませんか。だれが勝手に王に冊封したのでしょう。主上ですか? 変なうわさ話ですわ」

 ──え、そこ笑うのか……!?

 まじまじと見つめる延明の前で、彼女はくすくすと笑い、最後には大きなあくびをひとつする。ここまでくると肝がすわっていると言うよりは、変わり者といったほうが正しいような気がしてくる。

「あなたは、死王のうわさが怖くはないのですね」

「怖いもなにも、棺でみつかったのはすでに息の絶えた胎児なのでしょう? 怖いよりもびんだな、とは思いますけれども。なにごともなく誕生されていたなら、四番目の皇子として大切に育てられていたでしょうに」

「……ええ、そうですね。その通りです」

 不憫か、と延明はすこし苦く思った。そういえば、死王騒動のせいでだれもそこを気にもとめていない。自分もそうであったことに、あらためて気がついた。

「しかし参りましたね、この死王騒動。宦官までもあの様子では、しばらく沈静化しそうにありません」

「そのようですね。死者が分娩するのは、たんなる自然現象なのですけれども」

「え……」

 それはどういう──。

 詳しくたずねようとした、そのとき。

 三区の奥から女の悲鳴が聞こえた。

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