第一章 死王⑩


    ***


 主人が留守の殿舎はとても静かでよい。

 昭陽殿に残されたのは、才里や桃花をはじめとする数人の侍女たちだけだ。離宮から帝や妃嬪たちが帰ってくるのは二日後のことだから、それまで昼寝のし放題である。

 と思っていたのに、

「桃花ちょっと起きなさい。またあんたったら着替えてもいない! 三日前とおんなじ衣装じゃないの!」

「……ちゃんと下着は替えてますので問題ありま──」

「そういう問題じゃないし顔も洗っていないわね? もう、先日の夜警について報告書をつくるからって、迎えがきてるわよ!」

「なんでしょう、それは……?」

 あれから夜警には参加していない。碧林の件に関してなら、何日も経っているのにいまさらではないだろうか。

 面倒だなと思いながら立ちあがり、迎えにきていた宦官について歩く。

 今日はいい天気だ。風も穏やかで空が青い。陽ざしはぽかぽかとしていて、なんて昼寝に良い日和だろう。そんなことを考えながら青緑色のちようほうを視界の隅に入れつつ寝つつ歩いていたら、いつの間にか花園に足を踏み入れていた。

「こんにちは桃花さん、数日ぶりですね」

「……迷惑ですわ」

 亭子あずまやで待ちかまえていた人物を目に留めるなり、呼びだされた理由を察して桃花はまゆをハの字に下げた。

「わたくしはけっして皇后さまにとり入ろうとしたわけではないのです」

 言うと、延明は怒るでもなく、「でしょうね」とただ微笑む。

「中宮娘娘ニヤンニヤンからはあなたに褒美を与えるよう言われ、そのための品もご用意いただいたのですが、ありがたく私の懐に入れさせていただきました。物が残るのは困るのでしょう?」

「ええ。万が一、その品のせいで皇后さまのかんちようだとでも疑われたら、わたくしののんびり昼寝生活はおしまいなのです」

「そうおっしゃるだろうと思いました。ですので、こちらを」

 亭子の中には敷物が敷かれ、座卓の上にはまだ湯気のあがるできたての点心が並べられていた。

「これなら食べてしまえばなにも残らぬ消え物です。周囲は人払いをしてありますので心配いりません」

 さあどうぞ、と勧められて席に着くと、皇后のお気に入りと名高い延明が手ずから茶を入れてくれた。澄んだのう色の茶から、豊かな大地の香りがたつ。ひんたちが口にするような高級茶だ。

 用意されていた点心もまた、桃花程度の女官では口にできないようなものだ。蒸したもちにはなめらかに裏ごしされた芋のあんが入っており、みつと酒で戻したなつめカンクワが添えられている。珍しいのは、西域渡来の穀物粉をねて揚げた菓子だ。

『物欲より睡眠欲』の桃花も、さすがにこれには頰が上気する。

「ありがとう存じます、いただきます」

「どうぞ心行くまで」

 さっそくはしを手にした桃花に、延明は満足げな笑みを見せる。

 その笑顔からは「ぐうたらといえば食う、寝るのふたつ。読みが当たったな」という本音が惜しげもなくもらされていたが、桃花は気にしない。まさにその通りだ。

「延明さまもどうぞ」

 相席を進めると、延明はすこし驚いたようにしてから、おずおずと席に着く。予備のさかずきに今度は桃花の手で茶を注ぐと、ふと延明が問うてきた。

「確認ですが、あなたには出世したいという気持ちはないのですね? 梅しようみかどと出会わぬよう隠され、ちんせきはべることもなく、一生日陰の身でもよいと」

「かまいません、というよりもむしろ、わたくしはそれを望んでいるのですわ。婕妤さまはいずれ、皇子の冊封とともに封地へと移らねばなりません。その際にわたくしもこの後宮を連れ出していただいて、解放してくださるというお約束をいただいているのです」

「……なんとも辛抱強い」

 婕妤の皇子、蒼は九つ。成人し、王として任地に冊封されるのは、まだまださきの話だ。

 あるいは、さきに今上帝が崩御するか。皇太子が即位するとき、他の皇子たちは問答無用で冊封され、内廷に残ることは絶対にできないからだ。

 どちらにせよ梅婕妤は太妃となり宮城を出ていかねばならないが、それにしたっていつになるやらわからない。それは、桃花とてわかっている。

「そこまで待っても、養女であるあなたには帰る場所などないでしょう。帝のお手がつけば、ごもらずとも一生良い暮らしができますよ」

「帰る場所など、いくらでも。この世から遺体がなくなることはないのですもの」

 延明は意味をはかりかねるといった、げんな目をする。

「わたくしはけん官の娘です。ずっと祖父のように立派な検屍官となることを目標としていました。ですので、この宮城を出たのちは、遺体のもとへ。そのへんの適当な検屍官をみつくろってたらしこみ、妻にでもめかけにでもなって現場に入らせていただくのですわ」

「は……」

 言うと、延明は鳩が豆鉄砲をらったような顔をしていたが、しばらくして、わずかに肩をゆらして笑い始めた。それは延明がはじめて見せた、さんくさくない真実の表情であるように思えた。

「ふ……くくく、あはははは! なるほど、そういう人生目標がおありでしたか、それは恐れ入りました」

「ご理解いただけて良かったですわ」

「しかし顔に墨をつけて歩くあなたが、男をたらしこむなどとは……!」

「いまはよいのですわ。ここに検屍官はおりませんもの。そのときになりましたら、きちんと顔くらい洗います」

「その頃には、顔の洗い方など忘れているやも知れませんよ」

 やわらかなのに意地の悪い微笑みをねめつける。

「そこまでぐうたらではありません」

 亭子の外では、梅の木のてっぺんで小さなホオジロが胸を張ってさえずっている。穏やかな風とともに、ときおり紅白の花が散りこぼれた。

 茶の香りを楽しみながら花園の花景色を眺めていた延明が、吐息のようにささやいた。

「──しかし、ほんとうによいのですか? あなたはこのさき何年も昭陽殿に隠され、こうして自由に花見を楽しむこともできないのですよ」

「夜であれば、夜警を代わるなどして出歩くことができますわ」

「月明かりのもとでは、せいぜい白梅がぼんやりと見えるかどうかでは? この鮮やかな紅梅などは、闇にまぎれてでることもかなわないでしょう」

「それのなにがいけないのでしょう」

 桃花はそっとまぶたを閉じた。

「むしろ、昼の花見はよろしくありません。だれもがみな、色鮮やかな紅梅にばかり目をかれてしまう。しかし梅の真の良さとは、香りの高貴さではありませんか。昼に咲き誇る紅梅は色ばかりで、中身のともなわないうつせみの美しさです。けれども夜ともなれば、白梅は月に輝き、みなその香りのみやびさとはかない気高さに気づくことができるのですわ」

 隣に座る延明から、はっと息をのむような気配がした。なにかを知ろうとするかのように、じっと桃花を見つめる気配も。

 それからしばらく、無音の花見がつづく。きっと延明もその目を閉じ、梅の香りを楽しんでいるのだろうと桃花は思った。

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