第12話 偽物ヒーロー

 ――それは何年前だっただろう。季節はずれの大雨の日だった……。


 川べりを歩く昌高の耳に、遠くから少女の泣き叫ぶ物悲しい声が微かに届く。

 すぐ脇には轟々とうねる、増水した川。昌高の目はその濁流の合間に、川の色と同じような薄茶色の毛並の動物の姿を捉えた。


(悲鳴の理由はあれか!)


 そう判断した昌高は荷物をその場に下ろすと躊躇なく、氾濫しかねないほどに暴れまくる川へと飛び込んだ。

 この流れでは一瞬の判断の遅れが命取り。昌高は子犬を小脇に抱きかかえると、濁流に流されつつも少しずつ岸へと身体を寄せ、川岸の取っ掛かりへと手を掛けた。


 しかしこの急流の中、子犬を抱えたまま片手でよじ登ることは不可能。しかも随分と流されたため、ここはさっき飛び込んだところからは優に一キロは下流だろう。この辺りは人通りもほとんどなかった。

 水中で冷え切った身体は、震えを激しくする一方で感覚を失わせていく。

 握力だって、そうはもたない。昌高の右手から力が抜けていく……。


(せめてお前だけでも、助けてやりたかったんだけどな……)


 腕に抱きかかえた、元気のない子犬に微笑みかける昌高。

 川岸にしがみつく手が緩み、ふっと気が遠くなりかけたその時だった。


「しっかりしろ! 今すぐ、引き上げてやるからな」

「お願いします。この人は見ず知らずなのに飛び込んで、うちの子を助けてくれたんです」

「任せておきな、お譲ちゃん。この手は絶対に離さねえからよ」


 混濁気味の意識の中で昌高の目に映ったのは、この雨に負けない激しさで泣き狂う少女と、二人の消防隊。昌高の決死のダイビングが報われた瞬間だった……。


「私は咲良 利子(さくら としこ)。あなたはこの子の命の恩人です。恩返しがしたいので、何でも言ってください。私にできることならなんでもしますから」

「俺は反射的に飛び込んだだけだよ、むしろ迷惑かけたね。お礼って言うなら、その子をたっぷりとかわいがってやってくれ。それだけで俺は充分さ」


 昌高は少女に名も告げずに、その場を立ち去った……。


 ……時は流れて、昌高が高校二年の春。


「キミは、あの時の……」

「覚えててくれましたか? あれからずっと捜してたんですよ、あなたのこと。今日はあなたに、恋人をプレゼントしにやってきました」


 そう言って利子は上着を脱ぎ捨てる。

 すると現れたのは、素肌にリボンを巻きつけただけの――。




『このバカー。一瞬目が潤んだのに、最後の最後で台無しだよ』


 せっかくこれからはキミの言葉を信じようって思ってたのに、キミってやつは、キミってやつは、キミってやつは……。

 だけど、キミがスケベで変態で自己中な女の敵なのは今さらのこと。裏を返せば、自分の欲望に忠実で嘘をつかない人って言えなくもないかも……。


「ミトンを裸リボンにしたわけじゃないんだから、別にいいじゃないですか」

『良くないよ! それになんなの、このドラマチックな恋に落ちた理由は。あたしもこんな恋がしたいー。咲良さんばっかり、不公平でしょ』

「じゃぁ、ミトンが裸リボンになりますか?」

『それはいやーっ!』


 今日の不本意なダブルデートのせいでキミは落ち込んでたものの、夕食後にやっと気を取り直して小説を書き出した。

 新キャラクターは、やっぱり実名で咲良さくら 利子としこ。設定も現実と同じく、主人公に思いを寄せる人物として。


『ねぇ、この話ってひょっとして実話?』

「まさか、そんなことがあるわけないじゃないですか。僕が子犬を救出するなんて」

『だよね。こんな出来過ぎた話があるわけないもんね』

「そうですよ。僕は現実じゃヒーローになれないから、せめて小説の中だけでもヒーローになりたいんです」


 そう言って、キミは少し寂しそうな笑顔を見せた……。

 これが実話だったら、あたしはちょっと心が揺らぐかもしれない。告白されたら、三日ぐらい返事を保留してからお断りする程度には……。

 だけどキミがわざわざこんな話を書いたってことは、それっぽいエピソードはあったんだろうね。木に引っかかってた子犬のぬいぐるみを取ってあげたとか。


『この話が実話じゃないとすると……じゃぁ、どうして咲良さんはキミのことを好きになったの?』

「そんなこと知りませんよ、本人じゃないんだから。そもそも、咲良さんが僕のことを本当に好きかどうかもわからないじゃないですか」

『好きじゃなかったら、彼女宣言なんてするわけないでしょ?』

「たぶん咲良さんは智樹とグルなんですよ。智樹が僕を陥れるために、咲良さんを差し向けて……」


 ――ぱぁんっ!


 たまらずあたしは、キミの頬を平手打ちした。


「痛っ……くなかった……。脅かさないでくださいよ」


 もちろんあたしの右手はキミの顔をすり抜ける。

 なので、そのままの勢いで自分の左手をはたいて、威勢のいい音だけ出した。


『女の子の恋心を、そんな風に疑ったら可哀そうじゃない。キミだって、自分の気持ちを冗談だと思われたら悲しいでしょ?』

「でも咲良さんは小学校の時、智樹のファンクラブに入ってたんですよ? 疑いたくもなるじゃないですか」

『えーっ!? そうなの?』


 あたしは驚いた。咲良さんが智樹に気があったこともだけど、小学生時代に智樹のファンクラブがあったことに。


「まぁ、ファンクラブっていっても、会員は三人ぐらいだったみたいですけどね。だから咲良さんが僕を好きなんて、どう考えても信じられないんですよ」


 だけどそれは小学生の時の話だよね?

 昼間の利子の行動は確かに行き過ぎてたけど、あたしにはいい加減な気持ちでやってるようには見えなかったんだけどな……。

 とりあえずあたしは、キミの気持ちを尋ねてみることにした。


『でももしも咲良さんの気持ちが本当で、キミのことを好きだったらどうするの? いっそのこと、咲良さんと正式に付き合っちゃう?』

「何言ってるんですか。僕が好きなのは樫井さんだけです。樫井さん以外とは付き合うつもりはありませんよ」

『でも映画館での智樹クンの言葉、あれが本気なら交際開始は時間の問題だよ』

「それでも僕は、樫井さんが好きなんです。諦めるわけにはいかないんです!」


 ごめんね、本当はちょっとキミを試してみたんだ。ホイホイとキミが、利子に乗り換えるんじゃないかって心配になったから。

 なにしろキミが利子とくっついたら、小説にあたしの出る幕はなくなっちゃう。脇役なら登場の余地はあるけれど、ヒロインの座は陥落間違いなしだ。

 でもキミの回答は文句なしで合格。

 それどころかキミは真剣な眼差し、そしてキッパリとした口調。まずい、ちょっとときめいちゃったかも……。


『えーっと……。キ、キミは、なんでそんなにあたしのことを、その……想ってくれちゃってるのかな?』


 なんで言葉を詰まらせてるの、あたし……。

 この質問は、ちょっと興味が沸いただけだから。キミがどうしてそこまで、三都美に想いを寄せるのかを知りたかっただけだから。

 あたしは目を合わせるのが気恥ずかしかったので、視線を外してうつむいたままキミの答えを待った。


「実は樫井さん、中学三年の時に些細な言葉の行き違いで、クラスで孤立したらしいんです。僕は別なクラスだったから、後で噂に聞いただけなんですけど……」

『あたしの過去にそんなことがあったんだ……』

「それを知ったときに思ったんですよ。彼女のピンチには僕が真っ先に駆けつけたいって、そもそもピンチに陥らせないようにそばで守りたいって……」


 キミってこんなに頼もしかったっけ?

 あたしの顔が火照っていくのがはっきりとわかる。きっと真っ赤になってるはず。どうしよう、これじゃ顔が上げられないよ……。

 あたしはニンマリと表情を緩めながら、キミの言葉を噛み締める。


『そっか……あたしのヒーローになってくれるんだね、キミは』

「あの……さっきからあたし、あたしって言ってるけど、ミトンじゃなくて樫井さんの話ですからね?」


 ぶち壊しだよ……。せっかくいい気分でいたのに、そこまでキッパリと否定しなくてもいいじゃない。

 さっきは合格なんて思っちゃったけど、やっぱりキミは二次試験で不合格だ!


『わかってるよ、そんなことぐらい! だけどキミの気持ちがそういうことなら尚のこと、咲良さんはどうするつもり? このままってわけにはいかないよ?』

「ですよね……」


 おいおいおい、なんでそこで「ですよね……」になっちゃうの。さっきまでの頼り甲斐がありそうだったキミはどこへ行っちゃったの。

 キミに答えを探させるのも面倒だから、あたしが自ら模範解答を突きつける。


『迷う場面じゃないでしょ、そこは。キッパリとお別れする。他に選択肢がある?』

「それはわかってるんですけど、なんて言ったらいいのかなぁと……」

『そんなの、僕には他に好きな人がいるからお付き合いできません! これしかないでしょ?』

「もっと傷つけずに済む、いい言葉はないですか?」


 キミがそんな調子だから、いつまで経っても利子にかわされ続けるんだよ。

 そんなのは優しさでも何でもない。冷たいようだけど、あたしはキミに取るべき態度を示した。


『キミって人は……。どう言ったって、別れ話をすれば傷つくの。だったら曖昧な言葉で未練を残すよりも、キッパリと突き放してあげた方が親切ってもんだよ』

「そう……ですよね」

『そんなことじゃ智樹クンに勝てないよ? あたしを取られちゃってもいいの?』

「絶対いやです。だから次の機会には、咲良さんにキッパリと言うことにします」

『次っていつ?』

「…………そのうち」


 こんな男を三都美とくっつけなきゃいけないのか、あたしは。しかも、人気者の智樹を出し抜いて。

 出来なきゃヒロイン陥落、最悪消滅。まったく、どんだけ無理ゲーなの……。

 それでもこの無理ゲーをクリアしないといけないあたしは、とりあえず目先のキミの性癖を正すことにした。


『小説の最後の部分は書き直し! 裸にリボンで自分をプレゼントなんて、そんなエッチなシーンは却下だよ』

「ちぇっ……」



 あたしにダメを出されて、キミは小説の最後の部分を書き直し始める。

 するとそこへ、鳴ることのないキミの携帯電話が着信音を響かせた。

 電話帳には入れてない、相手先不明の番号。もっとも、キミの携帯に登録してある番号なんて、家族ぐらいしかないけどね。

 そして電話に出たキミは、いきなり素っ頓狂な声をあげる。


「えーっ、ひょっとして樫井さん!?」


 あたしまでつられてビックリする。キミの声と、この意外な展開に。

 この通話内容は聞き逃せない。あたしはキミの目の前で大げさな身振り手振りをして、携帯をスピーカーモードに切り替えるように伝える。


「那珂根クン。今日はとっても楽しかった。ありがとう」

「い、いえ、こちらこそ」

「さきちゃんに電話番号を聞いて掛けたんだけど、迷惑だったかな?」

「さきちゃん?」

「あぁ、咲良さんのことだよ。桜咲くの咲良さんだから、さきちゃん」


 今日の待ち合わせの時にはよそよそしかったのに、今はもうあだ名呼び。解散した後に、もうひと盛り上がりしたのかもね。

 だとすると、利子が何か入れ知恵をしている可能性も……。


『咲良さんに電話番号教える暇があったら、あたしと連絡先の交換しときなよ』

(おかしいな……。咲良さんに電話番号なんて、教えた記憶ないんだけどな……)


 じゃぁ、どうして利子がキミの電話番号を知ってたんだろう……。

 でも今は、そんなことを気にしてる場合じゃなかった。


「それで、もうすぐ夏休みじゃない? だから、海なんてどうかと思って」

「え? あ、う、海ですか? は、はい、もちろん」

「それじゃ、また蕪良木クンを誘ってくれないかな? あたしから誘うのは、まだやっぱり怖くて。だからあたしが頼んだのも、もちろん内緒でお願い」

「わ、わかりました……」


 安請け合いしちゃって……。

 このままじゃ、キミは本当に二人の仲を取り持っちゃいそう。だけどほったらかしにしても、きっと智樹の方からアプローチして勝手にくっついちゃうね。

 だったらここは同行するしかないか。だけど映画館の二の舞だけは、絶対に避けなくちゃ。


『咲良さんも来たら、今日の繰り返しだよ? もう誘っちゃったのか聞いてみて』

(た、確かにそうですね)


 キミはあたしのアドバイス通り、三都美に探りを入れる。


「えーっと、このことは、咲良さんにはもう話したんですか?」

「今思いついたところだから、まだだよ。それに彼氏を差し置いて、あたしからは誘えないよー。だからキミから誘っておいてね。せっかくだし、一緒にいこ?」

「いや、あれはそういうんじゃ――」

「それじゃぁ、日程が決まったらこの番号に連絡してね。おやすみ」


 三都美は、いつも通りの落ち着いた様子で一方的に淡々とに用件を告げると、キミの言い訳を聞きもせずに電話を切ってしまった。


『ほら、やっぱり完全に彼氏扱いされちゃってるじゃない。どうすんのよ』

「どうするもなにも、さきちゃんとはキッチリ別れますよ」

『さきちゃんて……。いきなり影響受けすぎでしょ』

「あ、咲良さんですね。そして、海の件も内緒にしておきます」


 その海では、さらに三都美と智樹の仲が深まるかもしれないっていうのに、キミには焦燥感の欠片もない。

 それどころか、また三都美と一緒に遊びに行けることを純粋に喜んでるみたい。

 そしてたった今手に入れた三都美の携帯番号を、キミは取扱説明書を見ながら嬉しそうに電話帳に登録してる。

 夏休みももう目前、これ以上関係がこじれなければいいのだけど……。

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