第一章 一学期のこと
第7話 遠ざかる足
――学年が変わって早々、我が校では遠足が実施される。新しいクラスメイトとの親睦を深めるという大義名分らしい。
昌高にとって、親睦を深めたい対象は三都美だけ。
教室内では隣の席を確保し、クラス委員も一緒にやることで着実に進行中。だけど今日はいつもとは違った環境で、別な角度から親睦を深めたいと昌高は考えた。
遠足の移動はバス。行き先は富士山。所要時間は二時間少々。もちろん座席は最後列の山側の窓際。誰もがうらやむ最高の席だ。
そして隣に座るのは当然、三都美。これも運命なのだから仕方がない。
だけど昌高は、その最高の自分の席を惜しげもなく三都美に譲った。
「綺麗な景色で、風も気持ちいいね。最高の席をありがとう、昌高クン」
髪をなびかせながら、窓に頬杖をつく三都美。その笑顔がまぶしく輝きだす。
隣でそれを眺めながら、自分の行動が正しかったことを昌高は再認識した。
「なに言ってるんだ。美しい風景とその素晴らしい笑顔を同時に見られるこの席こそが、真に最高の席なんだよ――」
『くぁー! なに言ってるんだはこっちのセリフだよ。よくもまぁ、こんなセリフが浮かぶもんだね。あたし、鳥肌が立っちゃったよ』
(そりゃぁ小説家を目指してますからね。妄想は任せてください)
キミは遠足のバスの中で、三都美の隣の席でスラスラとノートにペンを走らせる。あたしはキミの目の前で、両腕をこれ見よがしにさすりながら、からかってみせた。
でもこのセリフを口にするのが智樹クンなら……。うん、それは断然にありだね。
『でもね、今はやめよう? 今は遠足を楽しもう?』
あたしの言葉に同意したのか、キミはペンを休めてノートを閉じる。
そして今度は今座っている窓側の席を堪能するように、窓枠に頬杖をついて風景を眺め始めた。
(そうですね、たまには大自然もいいですね。のどかな景色は心が洗われます)
『うん、うん、そうだよね……じゃないよ! キミは今の状況を本当にわかってんの? キミは今、憧れのあたしの隣に座ってるんだよ?』
(もちろんわかってますよ……)
小説みたいに最後尾の特等席じゃないけれど、キミは見事に三都美の隣の席を獲得した。これってキミからすれば、充分すぎるほどの特等席だよね?
教室の席順から決まっただけだけど、これはいい流れ。あぁ、それなのに……。
どうしてキミは未だに、三都美と一言も会話を交わしてないのよ……。
三都美の席がキミと隣同士なのは、昨日の内から分かってた。だからあたしは昨夜だって遅くまで、キミの会話の練習相手になってあげたっていうのに……。
あんまり煽っても良くないと思って、ずっと黙っていたけどもう限界。あたしは徹底的にキミをけしかけることに決めた。
『黙って見てれば小説書いてるし。小説を書き止めたと思ったら、今度は景色を眺めてるし……。一体いつになったら話しかけるの? 目的地に着いちゃうよ?』
(わかってます。わかってるんですけど……。声を掛けようにも、緊張しちゃって見られないんですよ、隣の席が)
あぁ、そうか。キミがノートに向かってたのも、外ばっかり見てるのも、三都美の方を見られないからなんだね。それじゃぁ仕方がない……わけあるかーい!
このまんまじゃ、さんざん練習台をさせられた昨夜のあたしの労力が、ただの無駄骨になっちゃうよ……。
『わかった、もうキミに多くは望まない。だからせめて、昨夜二人で話し合って決めた、座席の交換だけでもしよ? ね? それだけでいいからさ』
(わかりました。でももう少し、もう少しだけ、心の準備をさせてください)
キミの窓側の席と、三都美の通路側の席を交換するだけ。
ささやかな親切だけど、こういうことは積み重ねが大事。それにきっかけさえ生まれれば、そこから会話が弾むかもしれない。これが昨夜、あたしとキミとで考えた作戦だ。
でもキミは、いつまで経っても心の準備が終わらない。
小説の主人公のキミは、いともあっさりと作戦を実行できたっていうのにね。それと同じことをするだけでいいんだよ?
このままじゃせっかくの作戦も、キミの小説のネタになっただけで終わりそう。
いい加減あたしが苛立ち始めたその時、隣の三都美からキミに声がかかった。
「あの……図々しいお願いなんだけど、窓側と席を替わってもらってもいいかな?」
「ひゃい! よ、よ、喜んで!」
『ここは居酒屋かい!(入ったことないけど)』とあたしが突っ込む間もなく、慌てて立ち上がったキミは、頭上の荷物収納庫に頭をぶつける。
「こらー。走行中に席を立つ奴があるかー」
先生の叱責に、バス中から笑い声が浴びせられる。
キミは顔を赤らめたけど、それはみんなからの嘲笑のせいじゃなくて、三都美から話しかけられたからだよね。
『結局席を替わるんだったら、自分から申し出た方が絶対印象良かったのに……』
(そんなこと言われても、話し掛けられなかったんだから仕方ないじゃないですか)
そういうキミは、無事席も替わったっていうのにうつむいたまま。
この状況だったら、小説と同じように三都美の横顔をじっくりと眺めていても、景色を見ていただけっていう言い訳でごまかせるのに……。
せっかくのチャンスなんだしアドバイスしておこうか。あぁ、あのセリフは言っちゃダメね。キミが言ってもキモいだけだから。
『ねぇ、今ならあたしの横顔が見放題なんだよ? なんなら――』
(あぁ……。この椅子の温もりは、樫井さんの体温……)
ダメだこりゃ。
仕方がないから変態モードに突入したキミの代わりに、あたしがじっくりと三都美を観察しておこうか。そう思って隣を見たあたしは、三都美の顔色が良くないことに気が付いた。
『ねえ、あたしの様子おかしくない? 具合悪そうだよ。声かけてみなよ』
(え? でも、なんて声をかければ……)
『そのまんまだよ。顔色良くないけど大丈夫? ってさ』
あたしが進言すると、キミは思いつめた表情で押し黙った。
きっとキミはまたしても、心の準備をしてる真っ最中なんでしょ。だけど、そんな悠長にしてていい場面じゃない。あたしはさらにキミを焚きつけた。
『キミの大好きな人が苦しんでるんだよ? いつまで放っておくつもりなの!』
(わ、わかりました。や、やってみます)
キミは覚悟を決めたらしく、恐る恐ると三都美に声をかけた。
「か、樫井さん。顔色悪いけど、だ、大丈夫?」
「ちょっと……気分が悪いかも……」
「あ、それじゃ先生に――」
「お願い。やめて」
立ち上がろうとするキミの上着の裾を、三都美は掴んで引っ張った。
引き戻されたキミは椅子に尻餅をついて、キョトンとしてる。三都美の行動が理解できなかったらしい。
『このバカ! デリカシーなさすぎ。乗り物酔いを周囲に気付かれたくないんだよ、あたしは』
(じゃぁ、どうすれば……)
『窓を開けてあげなよ。ちょっとは気分がすぐれるかも』
(あ、はい、わかりました)
心の中でうなずいたキミは、立ち上がって三都美の前に身体を割り込ませると、そのままバスのガラス窓を一気に開け放った。
春とはいってもまだ冷たい山の風が、窓から勢いよく吹き込む。
キミの咄嗟の行動は、後ろ半分のクラスメイトから
「ちょっとぉ、髪バサバサぁ」
「寒みぃだろ。ざけんなよ」
罵声の嵐。それでもキミは悪びれる様子もなく、開き直って知らんぷり。
けれども高まる不満の声は、すぐに先生の耳に届く。
「こらぁ、那珂根。みんなが迷惑してるから、その窓閉めろぉ」
「……風を受けたい気分なんです。いいじゃないですか――」
「那珂根クン……お願い、閉めて……」
先生にさえも逆らってみせたキミの決意も、三都美に否定されちゃ意味がない。キミは三都美の懇願に力なく「はい……」と従うと、そそくさとバスの窓を閉めた。
再び淀み始める車内の空気が、容赦なく三都美の乗り物酔いを悪化させる。
辛そうにしてる三都美はあたし自身でもあるのに、あたしにはどうすることもできない。あとはキミに託すしかない。
するとキミは座席の上の荷物収納庫からリュックを降ろして、エチケット袋を取り出す。そしてこっそりと、三都美にそれを差し出した。
「…………ありがとう……」
三都美は消え入るような声で礼を言うと、背中を丸めてキミに向ける。そしてそのまま、周囲に気付かれないようにエチケット袋を口に当てた。
『ほら、背中ぐらいさすってあげなよ』
(え、でも、そんなことしたら、痴漢扱いされて嫌われるんじゃ)
『このバカー。こんなにあたしが辛そうなのに、キミは平気なの? 痴漢扱いされてでも介抱してあげなよ』
(は、はい。ですよね。仕方ないですよね)
三都美の身体に触れる大義名分ができたキミは、こんな事態だというのに少し嬉しそうにドキドキと胸を高鳴らせている。
そしてそっとキミが背中に手を添えると、三都美は身体をビクリと強張らせた。
『そんな中途半端だと、余計にいやらしいよ。やるなら堂々とさすってあげて』
(は、は、は、は、はい……あ、でも、ブラジャーの凹凸が……)
『まったく、男ってやつは……。こんなときにも性欲なの?』
ゆっくりと三都美の背中をさするキミ。緊張しすぎて、その手はぎこちない。
やがて三都美は身体を丸めてより一層小さくなると、プルプルと小刻みに身体を震わせる。と同時に、エチケット袋に液体が注がれる音が微かに聞こえてきた。
さすがにただ事じゃないって実感したのか、キミは心配そうな表情で三都美を見つめながらそっと声をかけた。
「大丈夫だから。心配ないよ」
キミの声に小さくうなずいた三都美の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
へぇ、キミはこんな優しい言葉も掛けられるんだね。
あたしがキミに感心していると、周囲がざわつき始める。どうやら異臭に気付いたらしい。そこかしこからヒソヒソ話が聞こえてくる。
「なんか臭わない?」
「あれ、ひょっとして誰かゲロったか?」
三都美は再びキミに背を向けると、小さくなって怯えるように震え出す。するとキミは、思いもよらない行動にでた。
キミは三都美からエチケット袋を奪い取ると、自分の口にあてがった。身代わりになるつもりなんだね。だけどその臭いで催してしまったのか、キミは勢いよくエチケット袋の中にぶちまけた。
――オロロロロロロ……。
「おーい、那珂根がゲロってるぞー」
「犯人はこいつかー」
「ミトン可哀想。大丈夫? こいつに変なもの、かけられてない?」
クラスメイトから吊るし上げを食らうキミ。でもその表情は満足そうだ。
隣を見ると三都美はまだ気分はすぐれないみたいだけれど、吐いてスッキリしたらしくて顔色は少し良くなっている。
こちらを向いた三都美はキミと目が合うと、再び涙をこぼし始めた。
「あたしの、その……臭いを嗅ぐなんて……ひどいよ」
到着した富士山。でもキミの目には、その雄大な風景なんてきっと映ってない。
なんとなく列に連なって歩き、なんとなく弁当を食べて、なんとなくバスに戻る。
キミはあれ以来、三都美とは一言も言葉を交わしてない。キミの遠足は、往路の車内で終了してしまったようだ。
『そんなに落ち込まないでよ。きっとあたしだって恥ずかしかっただけで、内心じゃすっごく感謝してるって』
(だって……泣いてた……)
『どう言葉に表していいのか、わかんなかったんだよ、きっと。あたしは絶対、抱き締めたいぐらいキミに感謝してるよ』
(僕は樫井さんを傷つけるつもりなんてなかったのに……。僕も泣きたいですよ)
取り付く島もない。
そんなキミが帰りのバスに乗り込むとき、もう一人の保健委員の
「那珂根君も保健委員なんですから、ちゃんと酔い止めを飲んでおいてくださいね」
「…………どうも」
帰りのバスでは急遽の席替え。体調の優れない三都美は最後尾の窓側で、友人から手厚い看護を受けている。そしてキミの席は往路のまま。隣は空席だ。
キミは受け取った酔い止めを三都美に渡そうと思ったみたいだけど、どうやらそれも叶いそうにない。
「ほら、窓開けてあげてよ、男子は気が利かないなー」
「ミトン大丈夫? あんな奴に隣でゲロられたら、気分悪くなるのも無理ないよね。可哀想……」
刺々しい言葉の数々が、キミにグサグサと突き刺さる。かといってキミが真実を語れば、三都美が恥をかいてしまう。黙って濡れ衣を着るしかないキミに、あたしは同情を禁じ得なかった。
まぁ、もっともキミが真実を語ったところで、誰も信じない気もするけどね……。
『みんな、そこまで言わなくてもいいのにね』
(もういいですよ。樫井さんの名誉を守った功績を胸に、僕は残りの人生を生きていきますから……)
『そんな、大げさな……』
そのまま力なく、キミは無念の帰還。そしてそのまま学校解散。
晴天に恵まれて、絶景だった富士山。だけどキミの記憶には、その欠片もないだろうね。
とぼとぼと帰途に就くキミ。それを呼び止める声が背後から聞こえた。
「待って、那珂根クン。これ……」
キミが振り返るとそこには、手紙を差し出しながら息を弾ませる三都美の姿。どうやら走って追いかけてきたみたい。
手紙を受取ろうと、恐る恐る伸ばすキミの手は小刻みに震えている。
緊張のせいなのか、それとも戸惑っているのか、慎重なその動きはあまりにもじれったい。
すると三都美はキミの手をギュッと握り締め、手のひらを上にしてグイっと引き寄せた。そしてその上に、手紙を持った自分の手をそっと重ねる。
『ちょっと、キミ。顔、顔、ニヤけちゃってるよ』
(だ、だって、手、手が……。それも、向こうから握ってくれたんですよ!)
キミは舞い上がっちゃってるみたいだけど、きっと彼女はイラっとしてるんじゃないかな。喜んでる場合じゃないと思うよ……。
キミの手と手紙を、包み込むように添えられた両手にさらに力を籠めると、三都美は恥ずかしそうな笑顔で語り掛ける。
「今は恥ずかしいから、この手紙は家に帰ってから読んでもらえるかな。遠足の最中に急いで書いたんで、汚い字でごめんね。それじゃ……」
少し早口でそう告げると、手を振りながら三都美は駆け出していく。
キミの手のひらの上には、温もりとともに残された三都美の手紙。
それは器用に、ワイシャツの形に折りたたまれていた……。
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