序章 ヒロイン登場
第1話 ヒロイン登場
「――いっけなーい、遅刻しちゃう」
私は
今日は勝負の始業式だっていうのに、うっかりお寝坊さん。それでも身支度はきっちり整える。だって、あの人に変な姿は見せられないもんね。
シャワーも浴びたし、髪も乾かした。これで準備は万端。
朝食なんて食べてる暇はない。学校に行くために、あたしは玄関を飛び出す。
「行ってきまーす……って、寒っ!」
あたしの体をブルっと身震いさせたのは、強く吹き付けた春一番の向かい風。
髪の毛がまとわりつく追い風よりも、あたしは好き。ボサボサになっちゃうのは困り物だけどね。
四月上旬の風はまだまだ肌寒い。それにしても今日って、こんなに寒かったかな?
「お、おはよう……樫井さん」
「え? あ、お、おはようございます!」
ひょっとして、あたしの気合いが幸運を引き寄せたの?
家の目の前でばったり鉢合わせした彼の名前は、
中学も高校も同じなのに、彼とは未だに同じクラスになったことがない。だから今年こそ同じクラスになることを祈りながら家を出たら、いきなり挨拶を交わせるなんて。しかも、彼があたしの名前を知っててくれたなんて幸せすぎる……。
「それにしても樫井さん、すごい恰好だね……」
「え? え? 恰好?」
下を向いたあたしの視界に映ったのは、バスタオルが一枚だけ。
なんてことなの……あたしってば、お風呂上がりのまんまだった。
「やだ、あたしってば、服を着てないじゃない!」
そこへまたしてもいたずらな春一番が、あたしの体に吹き付ける。
すると唯一、あたしの身体を覆い隠してくれていたバスタオルが、パラリとはだけた……。
「いやぁん――」
『いやぁん、じゃないでしょ……いやぁん、じゃ。ノリノリのところ悪いんだけどさぁ、これはさすがにひどすぎるんじゃない?』
深夜の自室に一人籠ってノートパソコンに向かい、ワープロソフトで小説を執筆中だったキミ。あたしの声に、その手が止まる。
キョロキョロと左右を見回してるけど、そんなところにあたしはいないよ。
左右に声の主を見つけられなかったキミは、恐る恐る後ろを振り返る。そしてあたしの姿に気が付くと、キミはハッとした表情を浮かべて声を震わせた。
「い、いつの間に……。それに、き、君は……」
『ふふん、どう? 驚いた?』
「誰なんですか?」
『わからないんかーい!』
思わずあたしはキミの頭をはたく。しかしその手はキミの身体をすり抜けて、ただの素振りに終わった。
あたしのことがわからないなんて、あんまりじゃないの……。
腹を立てたあたしは、キョトンとしているキミに詰め寄って再度確認をしてみた。
『あたしのことがわからないの? 三都美だよ、樫井三都美。キミが今書いてる小説から抜け出してきた主人公だよ』
「えーっ!? まさか……そんな……」
『ふふん、キミが驚くのも無理ないよね。なにしろあたしは――』
「イメージと、全然顔が違う……」
『別人かーい!』
思わずあたしはキミの頭をはたく。しかしその手はキミの身体をすり抜けて、ただの素振りに終わった。二度目。
でもキミの言うこともわからないでもない。それに、その理由も心当たりがある。
『それはキミの小説の人物描写が不足してるからだよ! キミはあたしのこと、二年に上がったばっかりの女子高生ってしか書いてないじゃない』
「なるほど」
あたしの言葉に納得したのか、キミは机に向き直った。そしてパソコンの横に置かれていた写真立てを手に取ると、ジーっと見つめだす。
やがてキミは思い立ったようにノートパソコンに手を乗せると、カタカタと勢いよくキーボードを打ち始めた。どうやら、さっきの小説を書き直しているらしい。
「――いっけなーい、遅刻しちゃう」
私は
今日は勝負の始業式だっていうのに、うっかりお寝坊さん。それでも身支度はきっちり整える。だって、あの人に変な姿は見せられないもんね。
シャワーも浴びたし、髪も乾かした。睨みつける鏡の中には、今日もツヤツヤのセミロングの黒髪。まぶたは一重だけれど、愛嬌があると思う見慣れた顔。唇は薄めでスッキリした顔立ちは、十人中七人ぐらいが義理とはいえ可愛いと言ってくれる。そんなあたしがこちらを睨み返していた――。
『おお……』
小説が改稿されると、途端にあたしの容姿が変わっていく。
なるほど、あたしって実在の人物をモデルにして書かれていたんだね。
キミが参考資料として見つめていた写真立てに納まっているのは、不釣り合いなほどに小さな切り抜きが一枚だけ。集合写真を切り抜いたみたいだね。
その明確なイメージが、小説を通してあたしの容姿に反映されたみたい。振り返ったキミは、あたしと目が合うなり一気に豹変した。
「あ、あわわ、あわわわわ」
『突然あわあわ言い出して、どうしたの? なにかのモノマネ?』
「だ、だって……。か、樫井さんが、突然目の前に現れるなんて……」
やっとあたしの名前を呼んでくれたね。
小説内の存在であるあたしはこの世界には干渉できないみたいで、この姿は鏡にも映らないみたい。だから確認する術はないけれど、キミの反応を見ればイメージ通りになったのは間違いなさそうだね。
『さっきまでの余裕はどこへいっちゃったの。そんなに理想的な容姿になった?』
「り、理想的もなにも……本人じゃないんですか? 僕は、僕は、どうすれば……」
『ちょっと落ち着きなって。これじゃ、全然会話にならないじゃない』
こんなに小さい切り抜き写真じゃよくわからないけど、どうやらあたしはこの子と瓜二つの容姿になったらしい。そしてこの動揺っぷりから察するに……。
「あ、あわわ。そうだ、ちょ、ちょっと待っててください」
そう言ってキミは、あたしから逃げるように机へと向き直る。あたしはそんなキミに近寄って、一体何をするんだろうと背後から注意深く見守った。
するとキミはまたしても、パソコンに向かって小説に手を加えている。
――左目の下には泣きボクロ。あたしはそれが、あまり好きになれなかった。
たった一行の加筆。
キミはそれを済ませると、椅子をクルリと回転させて振り返り、落ち着いた口調であたしに話しかける。
「それで結局、君は誰なんですか?」
『ホクロ一つだけで、そこまで変わるんかーい!』
思わずあたしはキミの頭をはたく。しかしその手はキミの身体をすり抜けて、ただの素振りに終わった。三度目。
「だって、ミトンの目の下にはホクロなんてないですから」
『なによ、ミトンって』
「ミトンって言ったら、樫井さんのあだ名に決まってます。わからないなんて、やっぱり偽者じゃないですか」
『偽物呼ばわりってひどくない? あたしは正真正銘、キミが書いた小説の主人公だってば。わざわざ抜け出てきたんだから、ちょっとぐらい驚いてよ……』
まだほんの書き出しだっていうのに、あだ名までついてたんだ。だけど地の文なりプロローグなりに書いておいてくれないと、あたしにわかるわけがない。
それにしてもキミの反応があまりにも淡白すぎて、あたしはなんだか悲しくなってきたよ。
そんなあたしに向かって、キミは平然と追い打ちをかける。
「でも僕、小説の中の人になんて、なんの用事もないですよ?」
ガーン! 思わず頭の中に効果音が響く。
さすがにその言い方はひどすぎじゃない?
カチンときたあたしはたまらずに、強い口調でキミに抗議した。
『あ・た・し・が、キミに用があるから出てきたんだよ!』
「だったら、早く用とやらを済ませて帰ってくれませんか? 僕、小説の続きを早く書きたいんで……」
『もう……どうしてキミは、そんなに冷静でいられるの……。この状況って、キミの世界では珍しいことじゃないの?』
「小説を書いていれば、異世界に行ったり、性別が変わったりなんて当たり前です。これぐらいのことは日常茶飯事ですよ。それで、用ってなんですか?」
え、そういうもんなの……?
さっきまであんなに動揺してたのに、今じゃ眉一つ動かさないキミ。順応するにしたって早すぎでしょ。
そんなキミのペースに振り回されて、うっかり目的を忘れかけていたあたしは、慌てて自分を取り戻して用件を伝える。
『決まってるでしょ? キミの書いてる小説だよ。あまりにも恥ずかしいから書き直して欲しくて、わざわざ小説から飛び出してきたの!』
「どこか、まずかったですか?」
わざととぼけてるのかと思ったけど、どうやら本当にわかってないみたいだね。
仕方がないから、あたしは自覚のないキミに不満点を簡潔にぶつけた。
『うっかり裸で学校に行く女子高生がどこにいるのよ!』
「裸じゃないです、バスタオル着けてますよ。それじゃダメですか?」
『ダメに決まってるでしょ! それにすぐ、はだけちゃってるし』
キミを叱りつけるあたしの顔は、熱く火照っている。きっと真っ赤になっているに違いない。でもこれは怒りよりも羞恥心のせい。
何しろあたしが身に着けているのは、今も素肌にバスタオルが一枚だけ。さっきの小説から抜け出てきたんだから当然の状況。小説のようにパラリとはだけてしまうんじゃないかって、しゃべっている間も気が気じゃない。
あたしは胸元を両腕で押さえながら、キミに最低限の希望を伝える。
『とりあえず、お願いだから裸はやめて。これじゃ恥ずかしすぎるから』
「でも、小説の書き出しはインパクトが大事なんですよ」
『エロなんていう安易な手法じゃなくて、違う形でインパクトを与えなよ!』
「ちぇっ、気に入ってたんだけどな……この書き出し」
キミは頬を膨らまして机に振り返ると、やる気なさげにパソコンに向かう。
そしてブツブツと不満を漏らしながら、再び小説に手を加え始めた。
「――やだ、あたしってば、下着姿のままじゃない……」
『こら、こら、それもエロでしょ!』
「えーっ……」
『こっち見んなーっ! 早く書き直して!』
あたしは一瞬にして下着姿にされてしまった。慌てて両手で覆い隠す。
キミは油断も隙もない。キミの秘めた性癖は、あたしには計り知れない。
だけどあたしだってわざわざ出てきた以上、最低限人前に出られる服装にしてもらうまでは、ここからテコでも動かないからね。
するとキミは頬杖を突きながら、右手一本で適当にセリフを書き換え始めた。
まったく、どこまで投げやりな態度なのよ……。
「――やだ、あたしってばこれから学校だっていうのに、私服じゃない……」
セリフを書き換えたキミは、後ろを振り返ってあたしにお伺いを立てる。
けれどもその表情は、どうみても不貞腐れ気味だ。
「これで満足ですか? でもこの書き出しじゃ、面白くないですよ……」
『私服で学校に行こうとするのも充分恥ずかしいけど、とりあえず許してあげよう』
ずいぶん時間がかかったけど、あたしはようやく普通の服装になった……。
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