序章 ヒロイン登場

第1話 ヒロイン登場

「――いっけなーい、遅刻しちゃう」


 私は樫井かしい 三都美みとみ。二年に上がったばっかりの女子高生。

 今日は勝負の始業式だっていうのに、うっかりお寝坊さん。それでも身支度はきっちり整える。だって、あの人に変な姿は見せられないもんね。

 シャワーも浴びたし、髪も乾かした。これで準備は万端。

 朝食なんて食べてる暇はない。学校に行くために、あたしは玄関を飛び出す。


「行ってきまーす……って、寒っ!」


 あたしの体をブルっと身震いさせたのは、強く吹き付けた春一番の向かい風。

 髪の毛がまとわりつく追い風よりも、あたしは好き。ボサボサになっちゃうのは困り物だけどね。

 四月上旬の風はまだまだ肌寒い。それにしても今日って、こんなに寒かったかな?


「お、おはよう……樫井さん」

「え? あ、お、おはようございます!」


 ひょっとして、あたしの気合いが幸運を引き寄せたの?

 家の目の前でばったり鉢合わせした彼の名前は、那珂根なかね 昌高まさたかクン。ひ弱そうな身体に眼鏡、顔も決していいとは言えないけれど、あたしの片想いの人物。そんな彼に恋をしたのは三年前。犬の散歩をしてるのを偶然見かけた時に、一目惚れしちゃった。

 中学も高校も同じなのに、彼とは未だに同じクラスになったことがない。だから今年こそ同じクラスになることを祈りながら家を出たら、いきなり挨拶を交わせるなんて。しかも、彼があたしの名前を知っててくれたなんて幸せすぎる……。


「それにしても樫井さん、すごい恰好だね……」

「え? え? 恰好?」


 下を向いたあたしの視界に映ったのは、バスタオルが一枚だけ。

 なんてことなの……あたしってば、お風呂上がりのまんまだった。


「やだ、あたしってば、服を着てないじゃない!」


 そこへまたしてもいたずらな春一番が、あたしの体に吹き付ける。

 すると唯一、あたしの身体を覆い隠してくれていたバスタオルが、パラリとはだけた……。


「いやぁん――」




『いやぁん、じゃないでしょ……いやぁん、じゃ。ノリノリのところ悪いんだけどさぁ、これはさすがにひどすぎるんじゃない?』


 深夜の自室に一人籠ってノートパソコンに向かい、ワープロソフトで小説を執筆中だったキミ。あたしの声に、その手が止まる。

 キョロキョロと左右を見回してるけど、そんなところにあたしはいないよ。

 左右に声の主を見つけられなかったキミは、恐る恐る後ろを振り返る。そしてあたしの姿に気が付くと、キミはハッとした表情を浮かべて声を震わせた。


「い、いつの間に……。それに、き、君は……」

『ふふん、どう? 驚いた?』

「誰なんですか?」

『わからないんかーい!』


 思わずあたしはキミの頭をはたく。しかしその手はキミの身体をすり抜けて、ただの素振りに終わった。

 あたしのことがわからないなんて、あんまりじゃないの……。

 腹を立てたあたしは、キョトンとしているキミに詰め寄って再度確認をしてみた。


『あたしのことがわからないの? 三都美だよ、樫井三都美。キミが今書いてる小説から抜け出してきた主人公だよ』

「えーっ!? まさか……そんな……」

『ふふん、キミが驚くのも無理ないよね。なにしろあたしは――』

「イメージと、全然顔が違う……」

『別人かーい!』


 思わずあたしはキミの頭をはたく。しかしその手はキミの身体をすり抜けて、ただの素振りに終わった。二度目。

 でもキミの言うこともわからないでもない。それに、その理由も心当たりがある。


『それはキミの小説の人物描写が不足してるからだよ! キミはあたしのこと、二年に上がったばっかりの女子高生ってしか書いてないじゃない』

「なるほど」


 あたしの言葉に納得したのか、キミは机に向き直った。そしてパソコンの横に置かれていた写真立てを手に取ると、ジーっと見つめだす。

 やがてキミは思い立ったようにノートパソコンに手を乗せると、カタカタと勢いよくキーボードを打ち始めた。どうやら、さっきの小説を書き直しているらしい。


「――いっけなーい、遅刻しちゃう」


 私は樫井かしい 三都美みとみ。二年に上がったばっかりの女子高生。

 今日は勝負の始業式だっていうのに、うっかりお寝坊さん。それでも身支度はきっちり整える。だって、あの人に変な姿は見せられないもんね。

 シャワーも浴びたし、髪も乾かした。睨みつける鏡の中には、今日もツヤツヤのセミロングの黒髪。まぶたは一重だけれど、愛嬌があると思う見慣れた顔。唇は薄めでスッキリした顔立ちは、十人中七人ぐらいが義理とはいえ可愛いと言ってくれる。そんなあたしがこちらを睨み返していた――。


『おお……』


 小説が改稿されると、途端にあたしの容姿が変わっていく。

 なるほど、あたしって実在の人物をモデルにして書かれていたんだね。

 キミが参考資料として見つめていた写真立てに納まっているのは、不釣り合いなほどに小さな切り抜きが一枚だけ。集合写真を切り抜いたみたいだね。

 その明確なイメージが、小説を通してあたしの容姿に反映されたみたい。振り返ったキミは、あたしと目が合うなり一気に豹変した。


「あ、あわわ、あわわわわ」

『突然あわあわ言い出して、どうしたの? なにかのモノマネ?』

「だ、だって……。か、樫井さんが、突然目の前に現れるなんて……」


 やっとあたしの名前を呼んでくれたね。

 小説内の存在であるあたしはこの世界には干渉できないみたいで、この姿は鏡にも映らないみたい。だから確認する術はないけれど、キミの反応を見ればイメージ通りになったのは間違いなさそうだね。


『さっきまでの余裕はどこへいっちゃったの。そんなに理想的な容姿になった?』

「り、理想的もなにも……本人じゃないんですか? 僕は、僕は、どうすれば……」

『ちょっと落ち着きなって。これじゃ、全然会話にならないじゃない』


 こんなに小さい切り抜き写真じゃよくわからないけど、どうやらあたしはこの子と瓜二つの容姿になったらしい。そしてこの動揺っぷりから察するに……。


「あ、あわわ。そうだ、ちょ、ちょっと待っててください」


 そう言ってキミは、あたしから逃げるように机へと向き直る。あたしはそんなキミに近寄って、一体何をするんだろうと背後から注意深く見守った。

 するとキミはまたしても、パソコンに向かって小説に手を加えている。


 ――左目の下には泣きボクロ。あたしはそれが、あまり好きになれなかった。


 たった一行の加筆。

 キミはそれを済ませると、椅子をクルリと回転させて振り返り、落ち着いた口調であたしに話しかける。


「それで結局、君は誰なんですか?」

『ホクロ一つだけで、そこまで変わるんかーい!』


 思わずあたしはキミの頭をはたく。しかしその手はキミの身体をすり抜けて、ただの素振りに終わった。三度目。


「だって、ミトンの目の下にはホクロなんてないですから」

『なによ、ミトンって』

「ミトンって言ったら、樫井さんのあだ名に決まってます。わからないなんて、やっぱり偽者じゃないですか」

『偽物呼ばわりってひどくない? あたしは正真正銘、キミが書いた小説の主人公だってば。わざわざ抜け出てきたんだから、ちょっとぐらい驚いてよ……』


 まだほんの書き出しだっていうのに、あだ名までついてたんだ。だけど地の文なりプロローグなりに書いておいてくれないと、あたしにわかるわけがない。

 それにしてもキミの反応があまりにも淡白すぎて、あたしはなんだか悲しくなってきたよ。

 そんなあたしに向かって、キミは平然と追い打ちをかける。


「でも僕、小説の中の人になんて、なんの用事もないですよ?」


 ガーン! 思わず頭の中に効果音が響く。

 さすがにその言い方はひどすぎじゃない?

 カチンときたあたしはたまらずに、強い口調でキミに抗議した。


『あ・た・し・が、キミに用があるから出てきたんだよ!』

「だったら、早く用とやらを済ませて帰ってくれませんか? 僕、小説の続きを早く書きたいんで……」

『もう……どうしてキミは、そんなに冷静でいられるの……。この状況って、キミの世界では珍しいことじゃないの?』

「小説を書いていれば、異世界に行ったり、性別が変わったりなんて当たり前です。これぐらいのことは日常茶飯事ですよ。それで、用ってなんですか?」


 え、そういうもんなの……?

 さっきまであんなに動揺してたのに、今じゃ眉一つ動かさないキミ。順応するにしたって早すぎでしょ。

 そんなキミのペースに振り回されて、うっかり目的を忘れかけていたあたしは、慌てて自分を取り戻して用件を伝える。


『決まってるでしょ? キミの書いてる小説だよ。あまりにも恥ずかしいから書き直して欲しくて、わざわざ小説から飛び出してきたの!』

「どこか、まずかったですか?」


 わざととぼけてるのかと思ったけど、どうやら本当にわかってないみたいだね。

 仕方がないから、あたしは自覚のないキミに不満点を簡潔にぶつけた。


『うっかり裸で学校に行く女子高生がどこにいるのよ!』

「裸じゃないです、バスタオル着けてますよ。それじゃダメですか?」

『ダメに決まってるでしょ! それにすぐ、はだけちゃってるし』


 キミを叱りつけるあたしの顔は、熱く火照っている。きっと真っ赤になっているに違いない。でもこれは怒りよりも羞恥心のせい。

 何しろあたしが身に着けているのは、今も素肌にバスタオルが一枚だけ。さっきの小説から抜け出てきたんだから当然の状況。小説のようにパラリとはだけてしまうんじゃないかって、しゃべっている間も気が気じゃない。

 あたしは胸元を両腕で押さえながら、キミに最低限の希望を伝える。


『とりあえず、お願いだから裸はやめて。これじゃ恥ずかしすぎるから』

「でも、小説の書き出しはインパクトが大事なんですよ」

『エロなんていう安易な手法じゃなくて、違う形でインパクトを与えなよ!』

「ちぇっ、気に入ってたんだけどな……この書き出し」


 キミは頬を膨らまして机に振り返ると、やる気なさげにパソコンに向かう。

 そしてブツブツと不満を漏らしながら、再び小説に手を加え始めた。


「――やだ、あたしってば、下着姿のままじゃない……」


『こら、こら、それもエロでしょ!』

「えーっ……」

『こっち見んなーっ! 早く書き直して!』


 あたしは一瞬にして下着姿にされてしまった。慌てて両手で覆い隠す。

 キミは油断も隙もない。キミの秘めた性癖は、あたしには計り知れない。

 だけどあたしだってわざわざ出てきた以上、最低限人前に出られる服装にしてもらうまでは、ここからテコでも動かないからね。

 するとキミは頬杖を突きながら、右手一本で適当にセリフを書き換え始めた。

 まったく、どこまで投げやりな態度なのよ……。


「――やだ、あたしってばこれから学校だっていうのに、私服じゃない……」


 セリフを書き換えたキミは、後ろを振り返ってあたしにお伺いを立てる。

 けれどもその表情は、どうみても不貞腐れ気味だ。


「これで満足ですか? でもこの書き出しじゃ、面白くないですよ……」

『私服で学校に行こうとするのも充分恥ずかしいけど、とりあえず許してあげよう』


 ずいぶん時間がかかったけど、あたしはようやく普通の服装になった……。

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