26 どうして、母さんを見殺しにした?

 早乙女に無理矢理父の職場まで連れて行かれた日の夜、亜矢瀬家──制服から部屋着のスウェットに着替えた亜矢瀬は、生姜焼きを作って、父の帰りを待っていた。

 普段は冷凍食品やコンビニ弁当、スーパーのお惣菜なんかを、そのまま食卓に置いて自室にこもっているのだが──今日ばかりは違った。生姜焼きは、父の好物だった。

 お米もちゃんと炊いて、味噌汁も拵えた。副食のミニサラダも添える──高校生の亜矢瀬にとって、毎日こんな食事を用意することはできないだろう。

 だから、今日は特別なのだ。

「ただいま……」

 帰りを告げる気があるのかないのか、定かではないぐらいの声量で、父が帰ってきた──亜矢瀬はそれを食卓の椅子に座ったまま迎え入れる。

「おかえり」

「え……、どうしたんだ、これ」

「作った」

 ダイニングに入ってすぐに、父は異変に気づいた。いつもならありえない豪勢な食卓に、目を丸くする。

「冷めるから、早くしてよ」

「あ、あぁ……、荷物、部屋に置いてくるから」

 そう言って、父は寝室へ向かった。亜矢瀬は椅子から立ち上がり、炊飯器から白米をよそい始めた。



「ごちそうさまでした、おいしかったよ」

 亜矢瀬特製の生姜焼きを、父は綺麗にたいらげた。米粒一つ残さず。

 食べて当たり前だ、息子が作ったんだから──そう思いながらも、亜矢瀬は嬉しかった。父は無言で食器をシンクに運んでいく。

 亜矢瀬の食器すらも運んで、皿洗いを開始する父に、ようやく亜矢瀬は口を開いた。

「……父さん」

「ん?」

 まだ躊躇いがある。それでも、聞かなきゃ。

『……なぁ、お前のお父さんは、本当にお母さんを見捨てたのかな』

 ──早乙女が、学校を抜け出してまで、背中を押してくれたんだから。


「……どうして、お母さんは死んじゃったの?」


「…………」

 昼休みの屋上で、早乙女にも問いかけた質問を、父にぶつけた──この問いの答えを、父に求めたことはなかった。

 未だかつて、一度も。

 家事を一度だってやらなかった父、母の葬式で涙を見せなかった父──それらは、亜矢瀬が父に失望するのに十分な材料だったからだ。

 父はしばらく黙り込んだ。悩んでから、食器洗いのために吐き出していた水を止める。

「……お母さんが死んでしまったのは──お父さんが、不甲斐なかったからだよ」

 と、父は言った。

 母が死んだのは、自分のせいだと。

 結論自体は、亜矢瀬が思っていた通りだが──亜矢瀬は納得いかなかった。具体的になにがダメだったのか、父のなにが悪かったのか、この人は理解していないんじゃないか?

「不甲斐ないって……、なにがいけないかわかってるの?」

「……俺が、一人で母さんとお前を養えるだけ稼いでいたらな……。母さんを働かせることもなかったのに……」

 ……父さんがもっと稼いでいたら?

 ……母さんを働かせることもなかった?

 そうじゃない。そんなたらればが聞きたいわけじゃない。

 亜矢瀬は激昂した。


「違うだろ! あんたが家事をしなかったからだ! 全部母さんに押し付けて!」


「……っ」

 台所にいる父まで近づき、その胸ぐらを掴み上げた。自分より背の高いはずの父が、随分と軽く感じた。

 アイロンが施されていない皺だらけの白いワイシャツ。その襟は、薄黒く汚れている。

「なんでだよ! どうして母さんだけ、家事も仕事も両立させなきゃいけなかったんだ!」

「…………すまない」

 抵抗するでも、怒り返すでもなく──父は謝罪の言葉を口にした。それがさらに亜矢瀬を苛立たせる。

「謝って欲しいわけじゃない! 答えろ! どうしてあんたは家事をしなかったんだ! どうして──」

 亜矢瀬の声が震える。瞳から涙が溢れて、視界が滲んだ。父の顔がよく見えない。


「どうして、母さんを見殺しにした……?」


 ──返してよ、僕のお母さんを。

 手の力が抜ける。亜矢瀬は父の胸ぐらを掴む手を、だらりと下ろした。

「…………」

「…………」

 沈黙だけが、親子を包んでいた。

 ──ダメだったよ、乙女ちゃん。

 父さんは、なにも変わってなかった。なにもわかっちゃいなかった。

 涙を乱暴に袖で拭う──制服から着替えていて良かったと場違いなことを思う。部屋着として使っているスウェットが汚れるだけで済んだ。

 ……部屋に戻ろう。

 いっぱい泣いて、スッキリして、明日にはまた、いつも通りだ。

 亜矢瀬は父に背を向けた。

「……うつ病、だったんだ」

「え……?」

 父は、意を決した表情で、ゆっくりと語り始めた。

「父さん、前の会社でうつ病になって……体が動かなくなってたんだ。本当は、仕事も辞めたほうがいいって、お医者さんにも言われてたんだけどな……。父さんが仕事を辞めたら、生活できなくなるから……」

 そんな父さんを母さんは支えてくれたんだ、と父は言った。

 うつ病……?

 うつ病って……、精神病の、あの、うつ病……?

 父は医者にかかるほど精神を病んでいたにも関わらず、家計のために働いてた──ひいては、まだ未成年の息子を養うために。

 ブラック企業でうつ病になっても、家族のために辞職できなかった父、そんな父を支えて、働きながら家事をこなしていた母──離婚すれば、各々休みながら低賃金でも、生活できたかもしれない。でもそれをしなかったのは、


「僕の、せい……?」


 絶望する亜矢瀬の肩を、父が力強く掴んだ。

「違う! お前のせいじゃない! 父さんも母さんも、運が悪かったんだ! たまたま勤め先が悪い環境で、気づいたときには、辞めるに辞められなくなっていた!」

 だからお前は悪くない、と生まれて初めて父の大声を聞いた。

「……父さんも、後悔しているよ。どうして、母さんが無理していたことに、気づけなかったんだって……。いっぱいいっぱいだった、自分のことに。だから──」

 父は言った。その目には、涙が溜まっていた。


「お前だけは、健康に育ってくれ」


 それは、母から亜矢瀬への最後の言葉。亜矢瀬が守り抜いてきた教え。

 ……母さんの遺言なんかじゃなかった。

 両親から息子への、精一杯の愛情だった。

「あ、あぁ、あぁぁぁ……!」

 声を押し殺して、亜矢瀬は泣いた──父も一緒に泣いていた。



 自分がなにも知らないだけだった。いや、知らされていなかった。父さんの病気も、母さんの家族愛も──きっと、自分に心配をさせないように。

 ひとしきり親子で泣いた後、亜矢瀬は風呂を済ませてベッドに寝転んで天井を見つめていた。うつ病だったという父は、薬を飲みながらも、今ではかなり元気になっているらしい。

 ゴロンと寝返りをうつ。

 ……今日、父さんとちゃんと話せて良かった。

 もしかしたら、僕は一生父さんを誤解したまま、恨み続けていたかもしれない。

 まぶたに浮かび上がってくるのは、ピンク色のロングヘア。可愛らしい見た目とは裏腹に、口の悪いクラスメイトの少女。

 それもこれも、きっかけを作ったのは、早乙女だった。

 昼休みに父の会社へ連れて行かれたときは、無理矢理で強引で突拍子もないと思った──正直、意味がないとも。

 でも、決して無駄足なんかじゃなかった。

 その強引さが、僕と父さんを救ってくれた。

「ありがとう、乙女ちゃん……」

 ゆっくりと、亜矢瀬は眠りにつく──一筋の涙が、枕を濡らした。

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