25 亜矢瀬父の会社にて
電車を乗り継ぎ、亜矢瀬のお父さんが勤めている会社が入っている高層ビルの前までやってきた──平日の昼間に制服姿の男女は、少しばかり悪目立ちする。
お昼がそろそろ終わりそうな時刻で、目的のビルのエントランスを身軽なスーツ姿の働く人たちが頻繁に出入りしている。財布だけ持って、近くの飲食店で外食が終わった帰りのようだ。
「ねぇ〜、やっぱりやめようよ〜」
「ここまで来てなに言ってんだ、ほら、行くぞ」
「えぇ〜?」
もう目と鼻の先に亜矢瀬父がいるかもしれないっていうのに、怖気ずき始めた亜矢瀬をエレベーターまで引っ張って行く。大量の大人たちからの視線が痛い。
このビル内に収納されている数々の会社名とその隣に階数が羅列されている看板と睨めっこする。
「えーと……、三十七階、か」
エレベーターに乗るための通路が四種類ほどあり、それぞれ何階まで到達するのか決まっているらしい──エレベーターまで乗り継ぐ必要があるのか?
「……乙女ちゃん、こっち!」
「え?」
引き腰だった亜矢瀬が、突然俺の腕を掴んで、エレベーターから距離をとった。エントランスの端に飾られている亜矢瀬の背の高さほどの観葉植物の影に隠れる。
「な、なんだよ、亜矢瀬……」
「しーっ!」
唇に人差し指を当てる亜矢瀬に、黙らされてしまう。いつになく切羽詰まった亜矢瀬の視線を追うと──スーツを着た男性二人が、エレベーターホールに向かって歩いてきていた。
二十代くらいの若い男性と、おじさんと形容しても怒られないであろう年頃の男性。
若い男は、茶色がかった髪をワックスでビシッと決めて、おでこを出すスタイル。スーツ越しでもわかる筋肉。コミュニケーション能力が高そうな体育会系の陽キャって感じだ。
一方、おじさんのほうは、白髪混じりの短髪。濃い隈と皺。筋肉より脂肪が多いであろう体格──疲れたサラリーマンを想像しろ、と言われて大多数の人が真っ先に思い浮かぶ人物像そのままだった。
「……あれが、お父さん」
と、亜矢瀬がつぶやいた。
一瞬どっちが? と間抜けな質問をしそうになったが、年齢からしておじさんのほうだろう。
「えぇ!? 亜矢瀬さんが前にいた会社、すごいブラック企業だったんスね!?」
体育会系の陽キャ男が、エレベーターホールに響き渡りそうな大声で喋った──もともとの声量がでかいタイプなのか、本人は至って通常運転の表情だ。
「声が大きいよ……」
亜矢瀬さん、と呼ばれたおじさんが軽くたしなめる。陽キャ男は、すみませんと軽く謝った。
亜矢瀬父は、軽く息を吐いてから続ける。
「まぁ、そうだね……。そのせいで、妻には大変な思いをさせたよ」
その左手には、結婚指輪がつけられていた。亜矢瀬母がいなくなった今でも、指輪を外していないのか──当たり前のことなのかもしれないけれど、俺には亜矢瀬父が亜矢瀬母を見捨てたようにはどうしても思えなかった。
「わかりますよ〜!」
と、陽キャ男はうんうんと大袈裟なくらい力強く頷いた。
「自分も前の会社やばかったんで! 余裕なさすぎて、もはや今まで当たり前に生活していたことができなくなっちゃうんスよね!」
陽キャ男は一方的に捲し立てる──ブラック企業で働いていたとき、どれだけ辛かったかを。周りの助けがなければ、自死を選んでいてもおかしくなかったと。亜矢瀬父は時々相槌を打ちながら、静かに聞いていた。
亜矢瀬父の顔をもう一度じっくり見てみると──とても衰弱しているように見えた。これでも、前職よりはマシになったのかもしれない。白髪も隈も皺も、全部今までの苦労が身体に現れているのか。
「でも、自分はこの会社に転職してきて良かったっス! 同時期の転職者同士、頑張りましょ!」
太陽顔負けの眩しい笑顔を亜矢瀬父に向ける陽キャ男。亜矢瀬父もくたびれた表情から、ほんの少しだけ笑顔を取り戻した。
「あぁ、そうだな……。頑張るよ、ありがとう」
二人はそのままエレベーターに乗り込み、職場へと戻ってしまった。
「亜矢瀬……」
亜矢瀬父と、おそらくその後輩であろう陽キャ男の姿が見えなくなり、俺たちは観葉植物の陰から出る。亜矢瀬はなにも言わない。
「……もう一度、お父さんと話し合ってみろよ。お前のお父さんも、お母さんを見捨てたわけじゃなさそうだぞ」
「…………うん」
亜矢瀬は小さく頷いた。涙目だったのは、見なかったことにしてやろう。
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