9 猫、救出作戦!
「猫、連れて帰るのか? どうすんだ?」
一歩がでかい鬼塚の背中を、小走りで追いかけて問う。赤髪の不良は、そのつり目を少しだけ伏せた。雫で濡れている長いまつ毛が、妙に色っぽかった。
「……しばらくは、うちで飼う」
せめて雨宿りだけでも、と付け足して、彼は口を閉ざした。
あまりにも即答で飼うなどと言う。前世の俺が捨て猫を拾ってきたら、間違いなく親と一悶着はするだろう──今の俺の家庭環境でも多少は揉めそうだ、と俺はピンク髪のお母さんを思い浮かべていた。
「そんな簡単に飼えるのか? 親御さんとか……」
だから、俺はまったく悪気なく、そう聞いてしまったのだ。
鬼塚はしばらく無言で歩いてから、雨音に消されそうな声で答えた。
「……親は、あんまり家にいねぇ」
俺はもしかしたら、鬼塚より察しが悪い人間なのかもしれない。
「あぁ、単身赴任とかそういう?」
あっけらかんと、さもわかった風に尋ねると、鬼塚は何かを諦めたように喋った。
「ちげぇ。別居してる。どっちも俺が住んでる家には帰ってこない。……そのうち、離婚する」
げ。
とんでもない地雷を踏み抜いてしまった、と気づいたときにはもう遅い。俺と鬼塚の間には、えもしれぬ重たい空気が流れていた──親の離婚を目前にしている同級生にかける言葉の正解を、学校では習わなかった。未来では、道徳の授業に付け足されていることを願う。
沈黙のまま、俺たちは帰り道を並んで歩いた。
土手を進んでいく。河川敷には誰もいない。雨足が、だんだんと強くなる。川はどす黒く濁り、流れが速くなっていた。
「……お前、どこまでついてくんだよ」
思い出したように、鬼塚は俺に振り向いた──もう、俺の通学路ではなくなっていた。鬼塚の家と俺の家は反対方向。もはや、俺はただ鬼塚について行っているだけの男、いや、女だった。
「あ、いや……」
なんとなく、鬼塚をこのまま一人で放っておいてはいけない気がした──こいつと一緒にいる時間が長くなればなるほど、恋愛フラグが立つ可能性も上がっていくんだろうが、そんな理性的な理屈よりも、直感的な感情論が俺を突き動かしていた。
捨て猫のような表情で野良猫を抱くこの男を、誰もいない家にひとり帰すのは、なんというか、泣いている迷子を見て見ぬふりをするような、胸のあたりをざわつかせる罪悪感があった。
「ね、猫、連れて帰ったら、風呂場で洗うだろ? 手伝ってやるよ」
「…………」
「ほら、俺が見つけた猫だし、俺もそいつが心配なんだよ」
俺は適当に理由をいくつか付け足していく。鬼塚は、家に自分しかいないとバラしてしまった以上、俺の来訪を拒絶する言い訳も出てこなかったようで、
「……勝手にしろ」
と、つぶやいた──そのとき、
「にゃあ! にゃあーん!!」
今の今まで大人しく鬼塚に抱っこされていた三毛猫が、急に叫び始めた。吠えていると形容してもいいほどの声量だった。
「なに、どうした?」
「わかんねぇ、こいつが急に……」
必死に鳴きわめくものの、暴れはしない猫は一点を見つめている──視線の先は、川。
「……ん!?」
目を凝らしてみると、何かが流されている。
……黒い? ……ゴミか?
「にゃおーーん!!」
猫が俺を急かすかのように、いっそう強く鳴いた。
──濁流に流されている、あれは……
「猫が流されてる!!」
「なんだと!?」
ゴミだと思った物体は、溺れている黒猫だった。
俺と鬼塚は土手を滑り降りる──頭の中に電流が走った。デジャヴ。俺はこのシーンを見たことがある。少女漫画のワンシーン。鬼塚が川に飛び込んであの黒猫を助け、疲れ果てた彼を介抱するヒロインとの仲が深まる、そんな場面。
「くそ、流れが速すぎる……!」
抱いていた三毛猫を一旦降ろして、俺たちは流されている黒猫に合わせて河川敷を駆ける──すぐにでも川に飛び込みそうな鬼塚。こいつがあの猫を助けたら、恋愛フラグが立っちまうってことか……!
でも、消えそうな命を見捨てるわけにもいかない。救えるかもしれない命なんだ。
雨で人通りは少なく、俺たち以外に人影もない。つまり、あの猫を助けられるのは俺たちしかいない。
鬼塚に助けに行かせるのもだめ、かといって、猫も見捨てられない。
──いったい、どうしたら……!?
猫の命と己の恋愛フラグを天秤にかけて、ほんの数秒、俺は最適解を導き出した。
「これ、返す」
「は?」
肩にかけていた鬼塚のブレザーを手渡した。それから──びしょ濡れになったセーラー服を脱ぐ。
スカートに手をかけて、静止する。野外で、ましてや同級生の男の前で、女子高生がスカートを脱ぐなんて──いや、泳ぐときに一番邪魔なのがこれだ。俺はそのままスカートも脱いだ。
「なにしてんだ、お前!?」
突然の奇行に、真っ赤になった鬼塚は、下着姿の俺から目を逸らした。
猫を助けるのは鬼塚じゃなくていい。そりゃあ、体格的にも体力的にも、鬼塚が泳いでいくのがもっとも成功率が高いだろう──でも、助けるのは誰だって構わないはずだ。
俺が行けばいいんだ!
「鬼塚はここで待ってろ!」
「あ、おい!?」
俺はブラジャーとパンツだけの格好で、汚く濁った川に飛び込んだ──溺れている黒猫に向かって。
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