いじめの結末:9

 

 慶郎よしろうが悪夢の世界に突入した瞬間、けたたましい魍魎もうりょう雄叫おたけびが周囲に鳴り渡った。すでに狩りが始まっているとさとり、装備の確認をしつつ城壁内を駆け抜ける。

 短剣をさやから抜き放ち、ふところの拳銃は敵から見えないままを維持。必勝の弾丸を収めた御守りを今一度だけ触って確認し、不備がない事を確かめる。この弾丸を御守りの中に隠している限り、敵はこの必勝を見破みやぶれない。


 数秒足らずして、大きな何かがくずれ落ちる気配を察知さっちする。地響きの方へ駆け急ぎ、なんとか生きているであろう板野由紀恵の母親を探す。

 物音からして分厚いブロックへいが崩落しているのは間違いない。一刻を争う状況だ。


 幾度いくどと角を曲がり、衝撃の元凶が近いと判ったその時、女の姿が目に飛び込んだ。


「つかまって!」


 出合いがしらにその体をつかみ上げた。

 敵はすぐそばに、その強靭きょうじんな腕が伸びて来た瞬間だった。

 壁を蹴り上げ、母親を抱き上げたまま空転する。ギリギリのところで攻撃をかわしたが、すぐさま次の追撃がせまる。獰猛どうもうな魍魎の姿に驚く暇も無く、慶郎は安全圏まで母親を抱きかかえたまま走った。

 悪夢あくむばらいの常人ならざる脚力をもってしても、敵の猛攻はどれも直撃する寸前。命の瀬戸際せとぎわを何度と繰り返し、城壁に寄り掛かった石柱を駆け上がり、突き抜けの上部に躍り出た。


「背中に隠れて!」


 城壁の上へとのぼりつめた所で安全とはならず、しつこく追撃してくる魍魎とは全く距離をとれなかった。

 今回の魍魎も一段と大きい。毎回だが、体格で上回る相手にひるむことなく、慶郎は短剣で立ち向かう。


 その背後に現れたのは、悪夢に突入したばかりで白藍の光に身を包んだままのツル


「背中は心配しないで」


 その鶴の声に振り返る事なく、慶郎は短剣を振るい続ける。魍魎による猛撃は激しさを増し続け、いつこの身をえぐられるかの土壇場どたんばを繰り返す。

 やはり正攻法で勝ち目は無い。魍魎の圧倒的なパワーは慶郎の力量を上回っている。


 回転する敵の動きに備えた矢先、大蛇のように太いが風を巻いて迫り来る。数トンにも及ぶ衝撃を短剣で相殺そうさいたらしめたのは、紛れもない悪夢祓いとしてのパワーが発動して成せる御業みわざ。その衝撃波は真空の刃となって周囲の建造物を打ち砕く。


 鶴のクチバシにえりを咥えられ地上へ降り立った板野麻実は、頭上の攻防戦を息を飲んで見守る。

 現実味の無い型破かたやぶりな光景に唖然あぜんとしながらも、無責任にその場を去ろうとはしなかった。この場も危険と隣合わせなのは百も承知であったが、この自分を窮地きゅうちから救った見知らぬ中年の男と、女の声で喋る鶴の存在を置き去りにしてはならないという義侠心ぎきょうしんに挟まれ、動けなくなったという表現が正しいかも知れない。


 悪魔と呼ぶに遜色そんしょくのない怪物を相手に、一歩も引かず戦い続ける男の背中は、敵との体格差のせいで頼りなくもあり、無事に打ち勝って欲しいという想いが自然と沸き起こる。

 こんな奇天烈きてれつな状況下にあっては、よもやみずから動こうなどと発想すら消え去るのだろう。


 次第に、慶郎の劣勢れっせい判然はんぜんと現れる。防戦一方の展開は見て明らかであり、このままでは、いつしか致命傷を浴びる。

 板野麻実の目には、そう映っている。無理もない。敵は魔獣のごとき神話で暴れんばかりの巨体であり、むかえ撃つは背広姿の中年男である。


 命を削る激しい攻防はまばたきを忘れさせるが、その刹那せつなは本当にごく数秒の出来事。唸る剛腕、荒れ狂う強靭の爪、大気を叩く悪魔の翼。どれも規格外であり、見る者の空間認識を麻痺まひさせる恐怖をまとう。

 はたして、どれ程の攻防が繰り返されたか、激しさを増す衝撃に耐えられなくなったのは慶郎の体ではなく、短剣でもない。分厚く頑丈にそびえ立っていた筈の城壁だった。

 落下する互いから目を離さず、魍魎は目を光らせ、慶郎はふところから拳銃を抜き取った。


 瓦礫がれきまぎれながら迫って来る魍魎は、先程までとは気配が違う。慶郎が手に取った拳銃へおさめられる弾丸が、凄まじいエネルギーを秘めていると解ったからだ。

 落下の衝撃でねる瓦礫の中を、バックステップで飛び退く慶郎が右腕を突き出す。狙いは定まった。敵は一直線に迫って来る。


「やっぱりこの瞬間は、妙に緊張するね」


 ぼそりとつぶやく慶郎は、押し殺した感情のまま、引き金に力を込めた。



 迫り来る魍魎の胸板に突き刺さる弾丸。悪夢を祓う必勝の一撃。

 小さな穴とは裏腹、魍魎の背中へ突き抜けた弾丸は破裂したように内部を破壊し、黒く散らばる魍魎の臓器が宙に弾け飛ぶ。

 されどその勢いは止まらない。慶郎をえぐり殺そうと伸びた腕は、彼のすぐ脇をかすめ、コントロールを失った巨体が達磨だるまのように転がり、さらに奥を塞いでいた城壁を突き破る。

 手榴弾が投下されたような衝撃が突き抜け、粉塵ふんじんが舞い散る。


 通り過ぎていった魍魎へ振り返ると、その体は黒い霧を巻き上げ、徐々に輪郭りんかくを失っていった。




「いやぁ、ちょっと危なかった」


 間の抜けた慶郎の声が緊張感をほぐす。


「……えっと……」


 何かお礼を言うべきなのか、それとも、得体の知れない男と鶴のコンビも危険なのか、思考が定まらない板野麻実が二の足を踏んでいる。


「安心しなさい。ワタシ達は敵ではないわ」


 鶴の言う敵ではない、という表現は、味方でもない、という意味も込められているのだろうか。

 なにせ、娘を育児放棄する粗末そまつな母親だ。


 鶴は身動きをとることなく、背後に真っ赤な鳥居を出現させた。その中のまばゆい光が、出口であることを告げている。


「ワタシは先に行くわよ。あとは、貴方の好きな説法せっぽうせなさい」


 そう言って鶴は羽ばたくと、鳥居の中へ消えて行った。

 残された慶郎はやれやれと言いたげに、板野麻実へ歩み寄る。


「いや、まぁ、その、何て言うんですかね。この事はすぐに忘れるので気にしないで下さい」

「……え?」


 立ち尽くす板野麻実は、呆気にとられたまま動けないでいる。


「ですが、あなたにはどうしても言い聞かせなければならない事があります」


 真剣な眼差しを向けて来る男を、ただ黙って見つめ返す。まさか自分の素性すじょうを調べ尽くされてるとはつゆとも知らず。



 

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