いじめの結末:8

 

 悪夢は唐突とうとつだ。その瞬間は本人にすら自覚じかくなく、周囲の人間も気付く事など滅多めったにない。

 板野いたの由紀恵ゆきえの母親に狙いをさだめていた魍魎は、かくも堂々と人々が寝静まる前に異空間を展開。獲物が歩く最中さなかにも仕掛ける。

 近くに居た人間が一瞬だけ違和感をいだいたとしても、対面していた訳でもない一人が視野の中で音も無く失せたぐらいでは気付きがたい。己の目の錯覚さっかくにしか思わず、その異変の答えを探そうにも消えた本人が見当たらない時点で、自分を納得させる以外にないのが現実だ。



        ×        ×



 板野由紀恵の母親・麻実まみはパート後の日常の中、コンビニで缶ビールを購入した姿のまま魍魎の異世界にたたずんでいた。

 辺りは西洋せいよう城壁じょうへきに囲まれた別世界。あまりにも突然すぎた変化に思考が追い付く筈もなく、数秒間の沈黙ちんもくと、徐々じょじょに増す緊張感に心を乱される。


「……え?」


 感情を隠して過ごす職場での無表情や、次々と乗り換える男達に見せる顔とも違う。彼女は今、本能で命の危機を察し、この身に起きた異状いじょうを確かめようと必死に周囲を見回す。普段から娘に対する悪態あくたいも、この時ばかりは見る影もない。


「え? え?」


 やっとの思いで動いた足はわずか数歩、サンダルでみしめた砂利じゃりの音は不規則ふきそくで、歩幅ほはばも安定しない。

 城壁は遥か頭上まで高く、見上げた空は戦火せんかつつまれたように赤い。何かが燃えているのか、どこからかげた臭いも鼻を突く。

 意識して街中を散歩さんぽしたりはしないが、少なくともこのような景色は見た事がない。呆然ぼうぜんと歩いて迷い込むような場所でもない事は確かだ。

 由紀恵の母親はあせるあまり小走りになった。早くここを抜け出したいという焦燥感しょうそうかんに襲われ、夢中で出口を探す。かどがり、中庭をけ、またも続く細い通路に迷い込み、行けど戻れど景色の変わらない分厚ぶあつい壁の世界に狼狽ろうばいする。

 とびらも、まども無い。ただただ延々えんえんと続く頑丈な壁。乗りえられるような高さでもなく、よじのぼれるような場所でもない。完全に八方はっぽうふさがりだ。


「ウソ……おかしい、おかしい……」


 どうしていいのか解らない戸惑とまどいと、恐怖とが入り混じる。


 ――それも、この異世界の覇者はしゃ遭遇そうぐうする前の余興よきょうに過ぎなかったが――


「っ!?」


 赤い空にらされた城壁に、明らかなが影となってうつり込んでいる。

 “悪魔”――影の正体を見上げた母、麻実の目にはそう映った。

 頭上から見下ろしてくるは、絶対に近付いてはいけないモノだと瞬時に判った。幼い頃に図鑑か何かで見たことがあるガーゴイル。まさしくソレだった。

 海外ロケ番組で目にする教会などの屋根や壁から身を突き出す怪物の彫刻ちょうこくと同じだ。雨樋あまどいの機能でもあることから目にする機会も少なくないが、こうして実際に見るのは初めてであったし、それに――、明らかな異変を察知さっちする。


 ――


 板野麻実は即座そくざにそれを感じ取り、身を固めた。気配を消して逃げ去ろうというねらいが意味がない事も理解している。

 アレはもう、自分を標的ひょうてきにしているのが判ったからだ。


 おとぎ話のたぐいなど全く信じないし、幽霊や宇宙人という存在すらも疑っていた筈だったが、こうして目の当たりにした瞬間、それらの都合つごう度外視どがいしとなる。熊やライオンと目が合った際にく生存本能が、全身に緊張となって現れる。

 こうなっては細かいことに構ってなどいられない。一刻も早く身を隠せる場所を見付けなくては――

 板野麻実は悪魔に背中を向けると、勢いよく駆け出した。サンダルというコンディションの悪さなど気にしている場合ですらない。すでに自分が標的である以上、一刻も早くあの魔物から距離を離さなくては命が無い。


 無様ぶざまにもころびそうになるが、かまわず走り続ける。何かをポケットから落とした気がしたが振り返る余裕よゆうもない。

 それなのに右手に握ったままの缶ビールを手放さないでいるのは、何を持っているのかさえ忘れてしまっているからだ。


 景色の変わらない城壁を幾度いくどか曲がり、いちどおとずれた中庭に躍り出る。水の枯れた噴水ふんすい、宗教染みた彫刻がほどこされた柱石ちゅうせき。読めない文字の刻まれた石板せきばん

 なんとか身を隠せそうな日陰ひかげを見付け、麻実は乱れた息を殺しながら身をひそめた。

 隠れるというには明らかに心許こころもとない柱に背中を預け、乱れた呼吸を最大限の努力でしずめる。これ以上は走れないという限界を迎えた時点で、彼女の命運は決まったにひとしい。


 やれるだけの努力はやった筈だが、全くもって安心感を得られないのは、悪魔の姿を直視ちょくししたからだろう。あんなバケモノからおおせるなど、そう簡単にはいかないと判っていた。危機管理機能を学んだ訳でも、サバイバル能力を学んだことも無い彼女だったが、この目で見た魔物の危険性をあまく評価しなかったのは、彼女自身にそなわる性格からくるものだろう。


 不幸にも、その予想は外れなかった。噴水の縁石に降り立った悪魔が、物々しい音を起てて着地する。分厚いブロックが割れる衝撃からして、その体重もはかり知れる。同時に、その体から発せられる腕力わんりょく安易あんいに想像できる。どう見積みつもっても、対抗できる相手ではないと――


 あきらめに近い溜息ためいきが出たのは、あるしゅいさぎよさとでも言うのだろうか。麻実は天をあおぐと、こんな最期をむかえる自分を呪うしかなかった――。



 

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