いじめの結末:3
少女が帰宅する。月額四万円の
いわゆる事故物件。されど少女は知らない、母親からは何も聞かされていなかった。
夕方の十七時過ぎ、母親はいつもこの時間にパートから帰宅するのだが、すでに酒臭いのだから
「
「え?」
帰宅早々、言葉を聞き取れなかった少女が困っていると、母親は表情を急変させる。
「水だって言ってんだろッ!!」
「は、ハイっ」
コップに水を
「まったく、どんくさい奴だね」
「…………」
ここに母子の穏やかな時間は無い。由紀恵は常に母親に
夕飯時に母親は何も
学校では
彼女の心が休まる時間は、あまりにも少なかった――。
× ×
翌日、教室に入った由紀恵はある違和感に気付き、気配を消しながら自身の机へと向かう。その背中へ、女帝の声が優しく
「板野さーん、昨日、お母さん見かけたよぉ」
教室に入った
普段ならグループに属さない生徒も混じっているのが見えて、由紀恵は
「また新しい男と腕組んでたけど、あれ、ホスト? 違うか、そんなお金ないか」
教室内に冷たい沈黙と、クスクス笑う女児たちの悪意が入り混じる。
由紀恵へのイジメに参加していない生徒でも、女帝には逆らわない。その場の空気を読んで強い方に付く生徒も少なくない。
「また新しい男ぉ?」
「そういえばお父さんいつ帰ってくるのぉ?」
「新しいお父さんかなぁ?」
心無い声が次々と突き刺さり、由紀恵は身を守るように両腕で自身を抱いた。人前でバカにされるという行為は、何度も繰り返されて来たが、
毎回、新しい
体育の授業では足を
給食の時間には必ず食事に水や牛乳が混ぜられ、時には取り上げられる事も少なくない。コッペパンひとつだけで
十二歳という若さで、少女はすでにこの世界を
× ×
放課後、いつもの帰路を歩いていると、見知らぬ男が由紀恵の跡をつけていた。それを見た女帝のグループである女児たちは、近付くチャンスを窺ってはいるが、そのタイミングを見付けられなかった。
大人の中でも比較的に高身長の男が、小学生の女児に歩行速度を合わせている時点で疑わしい光景ではあったが、結果的に今日という放課後はイジメを受ける事なく、少女は無事に家へ
しかし安心した訳ではない。由紀恵は家に入る前に、
「なんですか」
「こんにちは、板野由紀恵ちゃんだね」
男の優しい声と、悪意の無い微笑みを見て、由紀恵は瞬時に恐れから解放された。
あぁ、この人は悪い大人じゃない――。
連日のように人の
由紀恵は、ずっとどこかで、この自分を優しく迎えてくれる大人が現れるのを、待ち望んでいたのかもしれない。
「初めまして、僕は
由紀恵は首を振った。申し訳なさそうに微笑む男の姿から、どこにも悪意が無い事を
それと同時に、別の何かを感じ取った様子で、少女は感心したような眼差しで男を見つめ続けた。まるで神秘的な地蔵でも見つけたかのような、
慶郎はまさかと思った。現実世界で実体化している時であれば、見た目で怪しまれたりはしないと鶴からも保証されている。それでいてこの少女の反応は、やや普通とは違う。
何か、見えない力のような気配を、この少女は感じ取っているのではないか、慶郎はそう
「オジさんはね、由紀恵ちゃんの味方だ。遠くから見てたんだけど、由紀恵ちゃんは今すごく辛いよね。オジさんは知ってるんだ」
その言葉が何を指しているのかをすぐに理解し、少女はゆっくりと頷いた。その直後に、喰いしばって涙をこらえる。
私が今すごく悲しい毎日を生きている事を、気にかけてくれる大人が居た。その事実が、
由紀恵の目に映る慶郎の姿は、はたしてどこまで大きな存在に見えただろうか。こればかりは、彼女と同じ思いをした人間にしか解らない。
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