いじめの結末:3

 

 少女が帰宅する。月額四万円の木造もくぞう賃貸ちんたい物件ぶっけんは、その安さの割には広かった。ちく四十年の老朽化ろうきゅうかもあるが、理由は他にある。

 いわゆる事故物件。されど少女は知らない、母親からは何も聞かされていなかった。



 夕方の十七時過ぎ、母親はいつもこの時間にパートから帰宅するのだが、すでに酒臭いのだからたちが悪い。彼女はいつも、仕事終わりに酒を欠かさなかった。


由紀恵ゆきえ、みず」

「え?」


 帰宅早々、言葉を聞き取れなかった少女が困っていると、母親は表情を急変させる。


「水だって言ってんだろッ!!」

「は、ハイっ」


 コップに水をそそぎ、機嫌の悪い母親へ駆け寄る。


「まったく、どんくさい奴だね」

「…………」


 ここに母子の穏やかな時間は無い。由紀恵は常に母親におびえ、乱れてばかりの機嫌をうかがい、少し足りとも逆撫さかなでないようにと神経しんけいらしている。


 夕飯時に母親は何もげずに出かけ、少女は取り残された後、ひとりさみしく食パンをかじり、缶詰かんづめの魚をつつく。年頃の少女が欲しがりそうな玩具おもちゃもテレビも無く、音のない時間をただひたすら過ごす毎日。


 学校ではひどいイジメにい、家では酒におぼれた母親にしいたげられている。

 彼女の心が休まる時間は、あまりにも少なかった――。



        ×        ×



 翌日、教室に入った由紀恵はある違和感に気付き、気配を消しながら自身の机へと向かう。その背中へ、の声が優しくささやかれた。


「板野さーん、昨日、お母さん見かけたよぉ」


 教室に入った途端とたんに感じた違和感は、別のクラスに居る筈の生徒たちが、三枝さえぐさ千春ちはるの周りに集まっていた事だ。

 普段ならグループに属さない生徒も混じっているのが見えて、由紀恵は悪寒おかんを感じた。こういう時に三枝千春が語る内容は、決して他人には聞かせたくないものばかりだった。


「また新しい男と腕組んでたけど、あれ、ホスト? 違うか、そんなお金ないか」


 教室内に冷たい沈黙と、クスクス笑う女児たちの悪意が入り混じる。

 由紀恵へのイジメに参加していない生徒でも、女帝には逆らわない。その場の空気を読んで強い方に付く生徒も少なくない。


「また新しい男ぉ?」

「そういえばお父さんいつ帰ってくるのぉ?」

「新しいお父さんかなぁ?」


 心無い声が次々と突き刺さり、由紀恵は身を守るように両腕で自身を抱いた。人前でバカにされるという行為は、何度も繰り返されて来たが、れることはない。

 毎回、新しい生傷なまきずが心にきざまれ、全身の脈を激しく乱す。


 体育の授業では足をけられ、腕や足にり傷が常にあった。

 給食の時間には必ず食事に水や牛乳が混ぜられ、時には取り上げられる事も少なくない。コッペパンひとつだけで昼食ちゅうしょくを過ごす事も珍しくなく、それでも由紀恵は声を上げたりはしなかった。

 十二歳という若さで、少女はすでにこの世界をあきらめていたのだろう。自分の居場所など、どこにも無いのだと――。



        ×        ×



 放課後、いつもの帰路を歩いていると、見知らぬ男が由紀恵の跡をつけていた。それを見た女帝のグループである女児たちは、近付くチャンスを窺ってはいるが、そのタイミングを見付けられなかった。

 大人の中でも比較的に高身長の男が、小学生の女児に歩行速度を合わせている時点で疑わしい光景ではあったが、結果的に今日という放課後はイジメを受ける事なく、少女は無事に家へ辿たどり着いた。


 しかし安心した訳ではない。由紀恵は家に入る前に、憮然ぶぜんとした表情で振り返った。学校では三枝千春に全く逆らえない彼女だが、見知らぬ相手には少しだけ強気でいられた。


「なんですか」


 夕陽ゆうひに目を細め見上げてくる少女を怖がらせぬよう、男はひざを折って視線の高さを合わせた。


「こんにちは、板野由紀恵ちゃんだね」


 男の優しい声と、悪意の無い微笑みを見て、由紀恵は瞬時に恐れから解放された。

 あぁ、この人は悪い大人じゃない――。

 連日のように人の邪気じゃきを浴びている分、彼女は相手を見分ける判断力があった。ならば、警戒心をいて、こちらも礼儀正しく対応しようという切り替えの早さを、男も感じ取った。

 由紀恵は、ずっとどこかで、この自分を優しく迎えてくれる大人が現れるのを、待ち望んでいたのかもしれない。



「初めまして、僕は慶郎よしろう。いきなりこんなオジさんが声かけて来て、怖かったかな?」


 由紀恵は首を振った。申し訳なさそうに微笑む男の姿から、どこにも悪意が無い事をやぶっていたからだ。

 それと同時に、別の何かを感じ取った様子で、少女は感心したような眼差しで男を見つめ続けた。まるで神秘的な地蔵でも見つけたかのような、神々こうごうしいモノをあがめる時の心を奪われた感覚に近い。


 慶郎はまさかと思った。現実世界で実体化している時であれば、見た目で怪しまれたりはしないと鶴からも保証されている。それでいてこの少女の反応は、やや普通とは違う。

 何か、見えない力のような気配を、この少女は感じ取っているのではないか、慶郎はそうかんぐった。


「オジさんはね、由紀恵ちゃんの味方だ。遠くから見てたんだけど、由紀恵ちゃんは今すごく辛いよね。オジさんは知ってるんだ」


 その言葉が何を指しているのかをすぐに理解し、少女はゆっくりと頷いた。その直後に、喰いしばって涙をこらえる。

 私が今すごく悲しい毎日を生きている事を、気にかけてくれる大人が居た。その事実が、うれしくてたまらなかった。


 由紀恵の目に映る慶郎の姿は、はたしてどこまで大きな存在に見えただろうか。こればかりは、彼女と同じ思いをした人間にしか解らない。



 

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