天敵

 まだ夕食には早く、お客さんがまばらなはずの時間帯に、なぜか店はかなり混雑している。

 客席を回り、お客さんの会話に耳を傾けてみれば、聞こえてくるのは日本語で。誰もが街の食堂ははじめてなのか、物珍しそうに店内を眺めている。

 小母ちゃんたちは慣れたもので、片言の日本語で説明をしているけれど、戸惑うお客さんを相手に、どうしても時間を取られてしまう。

 そんなときは、わたしの出番だ。


 写真つき日本語メニューを持って行き、説明してオーダーを手伝う。注文用紙を受け取りオーダーを通す。

 調理場前のカウンターで料理の乗ったトレイを受け取り客席へ運び、空いたテーブルを片づける。合間には、お弁当の注文も受けて。


「小鈴、これ、十番に運んで! それと、八番と五番のお客さんも小鈴、頼むわ。注文もらってきて」

「わかった」

「小鈴、カレーはできたの?」

「あー、カレー? まだ途中!」

「そりゃまずいね、小鈴働かせたら夕飯食いっぱぐれるよ」

「アハハ、ホントだ。そりゃ困った」


 店で働いている小母ちゃんたちもみんな、気心が知れた仲。


 夕飯はいつも夜の混雑時間帯が過ぎたあと、手の空いた順に賄いを食べるのだが、その賄いの作り手まで駆り出されるほど忙しいとは。なんてこった。


「小鈴、オーダー落ち着いたら適当に上がりなよ」

「うん。わかってる」

「ねえ、舒淇は? まだ帰ってこないの?」


 林媽媽の名前は、陳淑琪チェンシューチーと言う。

 店で働く小母ちゃんたちのほとんどは、林媽媽が若いころからの知り合い。だから、気安く名前で呼んでいる。


「まだよ。もうそろそろ帰ってくるんじゃないかい?」

「小七! 三番の魯肉飯は?」

「あいよ。ちょっと待っていま出す!」

「林媽媽、出かけてるの?」

「そうだよ。用事があるって出てったけどどこ行ったんだろうね。それにしてもさ、なんで舒淇がいないときに限って店が混むんだろうね?」

「ワハハ。そうだねー。舒淇が帰ってきたら、きっとまた目ぇ丸くするよ」


 厨房に声をかけ、すれ違いざまに私語も交わし、アハハと笑い合う。みんな慣れたものだ。


「ほら、帰ってきたよ」

「舒淇! どこまで油売りに行ってたんだい?」

「なんだよ? 凄いお客さんじゃないか」


 林媽媽の声に振り向いたところで、そのうしろにいるナイスミドルの存在に目を奪われた。


 「突然混み出したのさ。おや? 珍しいお客さんだね。ランさんも一緒かい」


 月老の魅惑の微笑みに頬を染める小母ちゃんたちが、相変わらずきれいだねと褒めそやす、瑯さんと呼ばれるこの女性。


 長身の月老と並んでも見劣りしない背丈とスタイルに、艶々ストレートの黒髪。西洋人のような整った面立ちと大きな瞳は、女のわたしでも見惚れてしまう。こんなにきれいな人には、滅多にお目にかかれるものではない。


「空いてるテーブルは……どうしようかね? 月さん、奥でもいいかい? 小鈴、月さんと瑯さんに上がってもらっとくれ。注文はわかってるから」

「うん。月……さん、こちらです」


 この女性は、月老とどういう関係なのか。ピッタリと寄り添う姿が、まるで恋人同士みたいだ。


 ふたりの先頭に立ち、店の奥へと案内をする。


 厨房の脇を抜け、ダイニングへ続く狭い通路に差し掛かったとき、ふと、肘になにかが当たった気がして、足を止めた。

 わたしが振り返ると同時に足を止めた瑯さんが口角を上げ、不敵な笑みを向けた先には、いつになく厳しい顔をしたカイくんがいる。


「リンリン。この女だ」

「え?」


 カイくんが、瑯さんを睨みつけている。


「こんなところでは話もできんだろう」


 ふたりの睨み合いに割って入った月老が、ひとりさっさと通路を抜け、入り口で靴を脱いでいる。我に返ったわたしも、続いて靴を脱ぎダイニングへ上がった。



 テーブルの上はきれいに片づけられ、皮をむいた野菜は、流し台に置かれていた。

 芙蓉姐の姿はない。どうやら二階の自室へ引き上げたようだ。


「おふたりとも座っててください。いま、お茶入れます。料理もすぐに来ますから」


 月老に淹れてもらった工夫茶とは比べものにならないお茶ではあるが、普段飲んでいるこの茶葉は店で出しているものよりも、じつは少しよいものなのだ。

 林媽媽がいつもしているように、薬缶を火にかけ、大きなティーポットに茶葉を入れる。

 チラと横目でテーブルのほうを見ると、カイくんはいまだ瑯さんを睨みつけたまま。このふたりの間に、なにがあったのか。


「阿海、おまえも座りなさい。言いたいことがあれば言えばいい」

「えっ? でも——」


 驚いて口を挟んだ。


「大丈夫。どうせほかの人間には阿海の姿も見えなければ、声も聞こえん」

「それはそうですけど、でも」

 ——いない人と話をしているなんて。傍から不自然に見えるんじゃないの?


「問題ない。結界を張ったから、こちらの様子は人には見えん」

「へ? 結界?」


 キョロキョロと見回しても、部屋のなかは普段と変わりがない。


「この女はいったいなんなんですか?」


 瑯さんを睨みつけ、お構いなしに話し始めるカイくんの訝しげな声音に、なぜか瑯さんの笑顔が消えた。


「なんの話だ?」

「とぼけないでください。月さんだって絶対知ってるはずだ。オレ、この人からあのペンダント買ったんですよ」

「ああ、それはだな……」

「ほら! やっぱり知ってるんでしょ? あのペンダントはなんなんですか? どうしてオレに売りつけたんです? あんたたち、やっぱりぐるなんだろう?」


「ちょっとカイくん! いったいなんの話?」


 カイくんが脈絡もなく、突然怒りだした。意味がさっぱりわからない。


「なにって、こいつなんだよ。こいつがおまえにやったそのペンダントをオレに売りつけたんだ。そのペンダントさえなければ……。オレが死んだのだってもしかしたら」


 いや、まさか、そんなことって。


 まくし立てるカイくんの言葉の意味を朧げに理解すると同時に、背筋が冷たくなった。


「ちょっとあんた! 頭おかしいんじゃないの? 天空碧とあんたの生き死には関係ないでしょ!」

「なんだと? だったらどうしてオレは死ななきゃならなかったんだよ?」

「そんなのあたしが知るわけないじゃない! 変な言いがかりつけないで! いい迷惑だわ!」

「だったらなんで? なんでこんなことになってんだ? 全部あんたたちが仕組んだことなんじゃないのか?」

「聞き捨てならないわね」


 真っ白い顔をした幽霊と、怒りで真っ赤になった瑯さんが、真っ向勝負で啀み合う。


「ふたりとも止めないか。小鈴、湯が沸いているぞ」

「あ、うん」


 こちらがドギマギするほど熱いバトルを戦わせるふたりとは対照的に、月老はひとり冷淡に見えるほどの冷静さ。


 睨み合うふたりに背を向けて、深呼吸をひとつ。薬缶を持ちティーポットにお湯を注ぐ。

 大丈夫。落ち着こう。これ以上怪しげなことなんて、起きやしないんだから。


「月さんは、いつもの。瑯さんは、これでよかったんだよね?」


 林媽媽が満面の笑みで、運んできた料理をテーブルに並べていく。


「小鈴。店のほうはもう落ち着いてきたから、あんたはカレーを頼むよ」

「うん。わかった」


 ピリピリした空気に気づきもしない林媽媽の様子に、結界って凄いものなんだな、と、妙に冷静になってしまう自分がおかしい。


「冷めないうちにいただくとしようか」

「話は?」

「あとだ」


 月老は苦虫を噛み潰したような顔をしているカイくんを完全放置し魯肉飯を愛しげに見つめている。

 そして、徐に口に含んだ途端、にまーっと笑みを浮かべたその顔には、明らかに幸福の二文字が浮かび上がった。この人、どれだけ魯肉飯が好きなんだ。


 お茶を出し、いまのうちにカレーの準備をと、流し台に向かう。やればできる。気合いを入れて、中華包丁を握り締めた。


「それで? おまえの魯肉飯はいつ完成するんだ?」

「それは……いま、研究中で……」


 何事もなかったような涼しい顔で、食後のお茶を啜る月老がわたしに問う。


「そうか。おまえのその研究の成果とやらを早く試したいものだな」

「はぁ……」


 そうだよ。カレーなんて作っている場合ではないんだ本当は。


 月老と約束してから、もう十日。魯肉飯も嫁の件も、まったく進展していないのだ。


「月さん、さっきの話の続き、してもいいですか?」

「ああ。瑯嬌と天空碧の話だったな」

「そうです」

「わかった。それは、私から話そう。まず、瑯嬌についてだが、これは、私が山で拾ってきた私の——」

「助手よ!」

「ペットだ」

「ペット?」

「助手?」

「どっち?」


 言葉を被せられた瑯さんは、鋭い目で月老を睨んだあと、ふんっと顔を背けた。反論まではできないらしい。それにしても、ペットっていったい。


「これは、人ではないからな」


 月老が静かに頷くと、わたしたちを見据える瑯さんの漆黒の瞳がその色を変えた。片方はコバルトブルー、もう片方はダークグリーン。この瞳は。


「ああっ? うそ? まさか?」

 ——あのきれいな縞々の猫と同じ?


「そう。瑯嬌は猫だ。この間、会っただろう」


 猫だと言われても——どこからどう見ても人間なんですが?


「猫には……」

「猫なのだ。ただ、この瑯嬌は、普通の猫ではなく、猫の妖怪なのだよ」

「猫の……」

「妖怪?」


 このきれいな女性が、猫。しかも妖怪だなんて。ありえない信じられないと言いたいが、わたしの隣に座っているカイくんは、れっきとした幽霊で。だから、目の前にひとりくらい妖怪がいたって、まったく不思議でもないけれど。そんなことって。


「阿海が宝石店で買い求めた天空碧は、これを拾ってきたときに、隠し持っていたものだろう」


 猫の妖怪に、曰くつきの宝石。次は、なにが飛び出すのか。


 月老が、瑯さんに厳しい目を向ける。


「な、なんなのよ? あたしのモノをあたしがどうしようと、あたしの勝手でしょ?」


 瑯さんが「ふんっ」と、月老からまた顔を背けた。

 これはやはり納得の既視感。あの見た目だけ美人の猫の動作そのものだ。


「瑯さんは、どうして天空碧を売ったんですか?」


 曰くつきの、効力の強い宝石を手放すなんて、よほどのことがあったに違いない。


「どうしてってそれは……」

「おまえがしたことだ。きちんと答えてあげなさい」

「そうだよ。ちゃんと聞かせてくれ」


 カイくんが身を乗り出す。その目は真剣そのものだ。


「だって……しょうがなかったのよ! ほしかったブランドバッグの新作がセールになってたのに、お金なかったんだもん!」

「おっ、おまえ! そんなくだらない理由でっ」

「はぁあ? くだらなくなんてないわよ失礼な! あたしにはすっごく重要なことだったの! だいたいね、あんた、ナニサマ? えっらそうに! そもそも天空碧はね、浄化のお守りなの。恋人へのプレゼントには最高の石なの。大好きな彼女に告白するから譲ってくれって必死なあんたに絆されて仕方なく一番いいのを安値で譲ってやったのに。頭にくるわ! この恩知らず!」

「なんだって?」

「瑯嬌! 止めなさい。阿海、おまえもだ」


 月老に止められても、ふたりはまだ一触即発の雰囲気。ここまで怒るカイくんを見たのははじめてだ。


「あ、あのっ」


 これ以上は、黙って見ていられない。


「なんだ?」

「あの……瑯さんが妖怪なのも、天空碧を手放した理由もわかりました。それに、おふたりが故意にわたしとカイくんを陥れようとか、そんなことを考えているわけではなさそうなのも……たぶん」

「たぶん?」

「いえ、あの。ですから……それで、わたしも月老にひとつ伺いたいことがありまして」

「師父だ」

「師父(仮)ですよね?」

「……かわいげがない」

「スミマセン? えっと、それでですね、単刀直入に伺いますが、師父(仮)さんは、いったい何者なんですか?」


 幽霊、妖怪ときたら、もう次になにが来ようと恐るるに足らず。だ。


「わたしか。わたしは、月老。月下老人とも呼ばれている」

「月下老人って……」

「まさか神様の?」

「うっそぉ、そんな。まさか?」

「信じないのか?」

「えーだって! 月下老人ってあの廟にいる髭のお爺さんですよ? 師父(仮)さんとは似ても似つかないじゃないですか」

「見た目なんぞどうにでもなる。だいたいだな、この二十一世紀にあんな老人がいてみろ? 世間が驚く」

「それは、そうでしょうけど」

 ——いや、やっぱり、ない! いくらなんでも、それはないでしょう?


「阿海。おまえも信じられないのか?」

「……オレは」

「うむ。ならば、信じさせてやろう。あれは、おまえが死んだ日だったな。霞海城隍廟で、私になにを祈ったんだったか——ああ、そうだった。語学学校の事務室で小鈴とはじめて会ったときに一目惚れをして? それからなんだったか……そうそう。振られるのを恐れて曉慧を隠れ蓑に——」

「わっ、わっかりましたもういいです勘弁してください。疑いません信じます信じましたからもうそれ以上言わないで」


 秘密の行いを暴露され、カイくんはあっさりと白旗を揚げてしまった。しかし。


 一目惚れですって?


 慌てふためくカイくんの顔は白いままなのに、わたしの顔が熱くなるのはどうしてか。理不尽だ。


 為て遣ったりといった風情で、口角に笑みを乗せる月老が、憎たらしい。瑯さんは、下を向いて肩を振るわせているし。こんなの恥ずかしすぎる。


「信じてもらえたようでよかった」と、満足そうに頷く、この月老。

 普通の人ではないだろうとは思っていたけれど、想像を遙かに超えた。最後の最大の大物はなんと、自称神様だったとは。


「では、あらためて紹介しよう。これは、瑯嬌。私の助手のような仕事をしているペットの猫だ。瑯嬌!」

「そういうことなの。よろしくね。ふたりとも」


 瑯さんのコバルトブルーとダークグリーンの瞳が、怪しく光った。





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