月老婚姻介紹所

「小鈴は、器用ねぇ」


 ダイニングテーブルの向かい側で寛いでいる芙蓉姐が、広げた新聞紙に落ちたニンジンの皮をつまんで眺め、感心している。


「芙蓉姐もやってみる?」

「えー、嫌よ。手を切りそうで恐いもの」


 ピーラーを使いジャガイモやニンジンの皮をむく程度のことは、子供でも簡単にできると思うのだけれど。なるほど。林媽媽が嘆くはずだ。

 さも恐ろしげに身震いする芙蓉姐を哀れみを込めた目で一瞥し、シャカシャカと手を動かす。


 わたしがいま、林家のダイニングでしていること。それは、今日の夕飯である日式咖哩飯の下拵えだ。


 日式咖哩飯とは文字どおり、日本のご家庭ではごく一般的な、あの、カレーライスのこと。


 林媽媽からどう伝わったのかは知らないが、わたしが料理の勉強をしていると聞いた芙蓉姐からリクエストされた、今宵の賄いである。


 スーパーマーケットの調味料陳列棚には、日本のそれ同様、カレールーのコーナーがある。日本ブランド、台湾ブランドともに、その種類は豊富だ。


 まさかこんなところでスーパーマーケット商品研究の成果が発揮されるとは。肝心の魯肉飯はいまだ、材料と道具の準備段階で、調理研究にすら取りかかれていないのに。


「ねえ、小鈴。曉慧と修のこと、なにか聞いてる?」

「えっ?」


 唐突に訊かれ、ピーラーを動かす手を止め芙蓉姐の顔を見た。


「あのさ、曉慧がね、修と別れたらしいのよ」

「……別れた?」

 ——別れたもなにも。あのふたりはまだお付き合い以前だったのですが。


「そうなのよ。小母さんから聞いたんだけどさ、なんでも……修が日本へ帰るらしくってね、それで別れたんだって。それを聞いたご近所さんたちが驚いちゃってね。あのふたりは結婚秒読みだってみんなで言ってたのに、まさか別れちゃうなんて曉慧はさぞかし傷心だろう、かわいそうだねーって」

「…………」


 驚いた。結婚秒読みだったのか。そこまで尾ひれ脚色つきで公然と語られていたとは。ご近所パワー恐るべし。


「それでさ、本当のところはどうなの?」

「本当のところ?」

「そうよ。だって、所詮噂は噂でしょ? あんたは直接知ってるんだろうし、実際はどうなのか話してくれたっていいじゃない? みんな心配してるのよ」


 いくら親しい相手でも、他人の話だ。勝手に口外するわけにはいかないだろうとの思いは、芙蓉姐の執拗な尋問の前に、呆気なく掻き消えた。


 事情を問われるままに返答をしていくたび、芙蓉姐がため息をつき、その表情が険しくなっていく。終いには、浮かべていた笑顔までが、すっかり消え失せてしまった。


「はぁー、まったく。曉慧はばかよねぇ」


 あきれかえってため息をつき漏らす感想は、わたしやアマンダと同じもの。曉慧を知る人はきっと誰もが、同様の気持ちになるだろう。


 曉慧は、頭が固すぎる。難しく考えすぎる。慎重すぎる。尊重しているようで相手の気持ちをわかっていない独り善がり。弱虫。頑固。強情——ため息のあとに続いたのは、わたしでは口に出すのも憚りそうな言葉の数々。


 芙蓉姐。この際だから、直接言ってやってくれませんかね?


 もっとも、言ってどうにかなるのであれば、誰も気を揉むこともないのだが。


「ぼろぼろぼろぼろ言うことがすげえ。さすがはオレの姐だな。台湾一の大学出て一流銀行出世頭のキャリアをスッパリ捨てて詠歌押し倒して結婚にこぎ着けただけのことはある」

「ぶっ……」


 カイくんの言葉に吹きそうになって、ピーラーを持つ手が滑る。危うく手の皮まで一緒にむくところだった。


「大丈夫?」

「う……うん」

 ——カイくんのばかっ! 横から突然変なこと言わないでよ!


 咳払いをして動揺を隠し、次はジャガイモの山を崩しにかかる。


「なんでそういう結論になっちゃうんだろうねぇ? まあ、あの子らしいって言えばそうなんだけどさ。当人同士が決めたことだから口出しできないけどとは言ってたけど、小母さんと小父さんも凄く残念だって」

「小母さんと小父さんが? どうして? 小母さんたちは曉慧にそばにいてほしいんじゃないの? 篠塚さんと結婚したら、海外暮らしになって離れ離れになっちゃうのに?」

「だって親だもの。娘の幸せが一番に決まってるでしょう? そりゃ、娘が遠くへ行っちゃったら寂しいには違いないけど、自分たちの気持ちを優先して、娘の幸せ犠牲にしたりするわけないじゃないの」

「……そういうもの?」

「そうねぇ。世のなかにはいろんな考えの人がいるだろうけど、少なくともお隣とウチの媽はそうよ」

「うん」

「でも、残念よねぇ。修ももうちょっと強引に頑張っちゃえばいいのに。ああ、でも、曉慧かぁ。あの子だって本当は……」


 まったくなんでこうも周囲をヤキモキさせてくれるのだろうか、と、ブツブツ文句を言う一方で、芙蓉姐はいい方法がないものかと思案している。


 黙々とジャガイモの皮をむく手を動かしながら、わたしも思う。このまま終わらせてしまったらきっと、曉慧は一生後悔する。


 芙蓉姐が、パンッと手を叩いた。


「そうよ! 月老にお願いすればいいのよ」

「はい? 月老って……あの、廟にいる神様? それなら何度も……」

「違うわよ! 月老婚姻紹介所の月さんよ」

「月老婚姻紹介所の月さん?」

「そうよ。知らないの? 月老婚姻紹介所はね、成婚率百パーセントを誇る台湾随一の婚姻紹介所なのよ。神様なんかよりよっぽど当てになるんだから」

「…………」

 ——出た。成婚率百パーセント。


「あ、そっか。小鈴は知らないかー。ウチの媽と爸の恋物語」

「恋物語?」


 両手を胸の前で組み、夢見る乙女のように目を潤ませた芙蓉姐が語り出したそれは、ロマンチックな——ではなく、観光地の土産物店の看板娘と偶然にそこを訪れた旅人とのありふれた恋物語で。


 落とした鍵を拾って追いかけてくれた、十六歳、お下げ髪の林媽媽の真っ赤なほっぺがかわいかった。汗で額に張りついた前髪が艶っぽく、若き日の爸が見惚れた。スカートを翻し走り去る姿を見えなくなるまで見送った、などなど——という、ありふれた日常のひとこま。


「それでね、爸はそのまま台北に戻ったんだけど、ずっと媽が忘れられなくて——きっと一目惚れだったのよね。それで、もう一度会いに行きたくてもなかなか思うようにならなくて、やっと行けたのが一年後だったの。けれど、そのときにはもうお店もなくなっていて、媽がどこへ行ったのかもわからなかったんですって」

「それからどうなったの?」


「普通ならそこで、縁がなかったねーでお終いになるじゃない? でも、爸はどうしても諦め切れなかったのよ。それで、藁にも縋る思いでそのころすでに成婚率百パーセントで評判だった月老婚姻紹介所の門を叩いたってわけ」

「婚姻紹介所って、人捜しもするの?」

「あそこは特別、普通とは違うの。月老婚姻紹介所はね、婚姻の縁さえあれば、相手の名前も所在もわからなくても、必ず探し出してくれるのよ」

「へぇ、すごい」


 なにそれどこぞの諜報機関かと、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。


「それで、月さんが媽を見つけてくれてさ。縁って凄いわよね。媽はね、なんと、台北にいたのよ。しかも爸の仕事場のすぐ近くで働いてたの。そこからは怒号の押せ押せ? 毎日媽のところに通い詰めて口説いて口説いて、三ヶ月も経たないうちに媽が絆されて陥落しちゃったってわけ。ね? ロマンチックな話でしょう?」


 あの林媽媽にもそんな熱烈なロマンスがあったのか。誰にでも若いときはあるのだから、当たり前といえばそうなのだけれど、なんだか不思議な感じ。


「そうだったんだ。あれ? でも、芙蓉姐、曉慧の場合は人捜しじゃないよ?」

「ばかねぇ、まだわかんないの? 人捜しかどうかは関係ないの。私が言ってるのはね、月老婚姻紹介所は婚姻の縁さえあれば結びつける手伝いをしてくれるのよ、ってこと」

「ああ、そっか。そういうこと。なるほどー」

「やっとわかった?」

「うん。それはわかった。でも、どうやって?」

「そこは、あちらはプロだもの。お任せしちゃえばいいんじゃない? ね? そうしなさいよ。媽と爸だってさ、月さんがいなかったらそれっきりの縁だったのよ? 月さんなら曉慧と修のことだって、絶対になんとかしてくれるわよ」


 月老に任せる——か。


 そんなに親身になってくれそうな人には、思えないけれど。


 いや、でも、カイくんのことだって、命を預けろだの、弟子(仮)になれだの、意味不明なミッションだの、わけのわからないことばかりだけれど、よくよく考えたら全部、月老とは無関係。世話を焼かれていないとは言えないわけで。


 曉慧と篠塚さんのことも、相談したら知恵を貸してもらえるかしら?

 偉そうに説教されるのは、悔しいけれど。


「しゃおりーん! ちょっと店手伝ってー」

「あ、うん。いま行くー」


 お呼びがかかった。お客さんが立て込んできたらしい。


「ほら、早く行っといで。ここは私が片づけといてあげる」

「続きはあとでやるから」

「わかってるわよ」


 手なんか出さないわよ、私が包丁なんか使えるわけがないじゃない、と、芙蓉姐が豪快に笑った。


 わたしだって、鉈みたいな中華包丁は恐いんです。




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